地獄の同窓会 ―イケメン殺すべし、慈悲は無い―

おこばち妙見

第1話


 窓の外から聞こえるのは、運動部のかけ声と、金属バットに当たるボールの音。

 それに、サッカーボールを蹴る鈍い音だ。

 夕暮れの図書室は、空気までもが真っ赤に染まっているようだった。

 僕は、読みもしない文学全集をカウンターに載せる。


「あの、これお願いします」


「はい。こちらに記入してくださいね」


「あ、はい」


 僕は図書カードに名前と学年、クラスを記入する。

 図書委員のバッジをつけた彼女は、微笑みながらパソコンに何か入力していた。


「…………ふ」


「……?」


 カウンターに掛ける彼女の唇から、軽い息が漏れる。

 何かおかしな事でも言っただろうか。

 夕日を映して、少しだけ赤らんだ頬。

 彼女は、銀縁の眼鏡を指で直すと、僕に向き直った。


「……難しいの読むのね」


「そ、そうですかね。ははは」


「太宰治。この間は武者小路実篤でしょ。芥川も。だったら谷崎もおすすめかな」


「ええ、今度借りてみます」


 何の本を借りたんだったか、もう覚えていない。読んでいないのだから、当然だ。

 実際、読もうとしたことはある。

 しかし、最初の数ページを読んだだけで、深い眠りの海に落ち込んでしまうのだ。

 僕は本が読みたかったのではなく、ただカウンターに本を載せたかったのだ。

 図書委員だった彼女と、二言三言の会話のために。


 どうやら顔を覚えてくれたらしい。

 これが、僕の一番幸せな記憶であり、今でも時折夢に見る。


 ◇ ◇ ◇

 

「…………!」


 ポケットに入れたスマートフォンの時報アラームが鳴る。

 発車時刻が近い。僕はブザーを止め、待合室のベンチから立ち上がった。


 この駅を設計したのは、僕の生まれた街の駅と同じ人らしい。

 縦に長い窓が吹き抜けの二階部分に並んでいる。

 駅舎内はいささか暗かった。

 設計が昭和初期で、そういうのが流行りだったのだろう。

 現代であれば全面ガラス張りになっていたと思う。

 とはいえLEDや蛍光灯で照らされた駅舎内は充分に明るい。


 しかし、そこを行き交う人々の顔は、必ずしも明るいとは言えなかった。

 男も、女も。若者も、中高年も。

 頬がこけ、血走った目玉ばかりがギョロギョロと動いている人。

 シャツの襟が黒ずんで、周囲の人に顔をしかめさせている人。

 ポケットからスマートフォンを取り出しては目を丸くし、溜息とともに再びしまい込む人。

 誰も彼もがみな、疲れているようだった。


 それは僕とて変らないだろう。

 いや、変らなかっただろう。ほんの、ほんの一ヶ月前まで。


 ◇ ◇ ◇


「あまり良い話じゃないんだよ」


 部長が差し出したのは、一枚のコピー用紙。


「本社からの出向組なんだけど、監査部の指摘で法令違反の疑いがあってね。こういう形での配置は、責任の所在が不明確になっちゃうんだって。そこで、呼び戻す事になったんだ。そうなるとどうしても、こっちの人数が余っちゃうんだ。それで申し訳ないんだけど――」


 部長がさも断腸の思いで、といった雰囲気を醸し出そうとしているのが滑稽だった。


「――ははっ」


 思わず僕は笑っていた。いや、嗤っていた。

 雇い止めの通知である。

 ほんのひと月前、部長は同じ口でこう言っていた。


「期間が終わっても、ウチで働きたいとか、思う? 私は君と長く付き合っていきたいと思っているんだがね」


 と。断言などしていない。正社員登用など、しょせん口約束に過ぎない。

 書面で交わした訳ではないのだから。

 向こうに何ら義務がある訳でもない。

 僕が何か期待してしまったとしても、その責は僕にあるのだ。


 いつだったか班長が言っていた事を思い出す。

 正社員は責任がある、そんな事を言っていた。さも偉そうに。

 だが、実際に事が起こってみればどうだ。

 実際に責任を取るのは、僕のような非正規ではないか。

 ぬるま湯に浸かっているのはどちらだ。


 現場に戻ると、同僚が心配そうに声を掛けてくる。


「どうだった?」


 僕は無言でかぶりを振り、受け取ったペラ紙を見せた。


「……ああ」


 何がああ、だと言いたくなったが、他に言いようもないだろう。

 同僚は視界の隅に班長の姿を認めると、同僚はそそくさと持ち場に戻った。


「……何の話だった?」


 班長にも同じようにペラ紙を見せる。

 彼はそれを一瞥すると、残念そうな顔を浮かべつつこう言った。


「……ああ。あと一ヶ月あるから、その間はちゃんとやれよ」


「……はい」


 多少同情的な視線だったようだが、班長はそれ以上何も言わなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌日、事件は起こった。別の班での事故だった。

 機械に挟まれた、といった深刻なものではない。

 階段が濡れており、転落して腰を打ったという。

 その工員は、全治一ヶ月との診断だそうだ。


 朝礼で並んだ班員を前に、班長がその事を告げる。


「A班の補勤だが、希望者は?」


 補勤とは、交替制勤務の欠員を埋める休日出勤だ。

 有給休暇を申請する際は、必ず他の班に補勤を要請し、人員の都合を付けなくてはならない。

 基本的に『有休を取りにくくする』制度に他ならない。

 休日出勤手当は付くが、かなり過酷な超過勤務である。

 通常であれば日勤、夜勤、明け、休みの四日交代での勤務だが、補勤とあれば日勤、夜勤、夜勤、明けとなる。その翌日はまた日勤だ。

 金をいくら稼いでも、使う暇と体力が無ければあまり意味は無い。


 誰も手を挙げなかった。班長の顔が見る見る赤くなっていく。握りしめた拳は小刻みに震えていた。


「誰も希望しないのかッ!」


 怒声が響いた。それでもみんな黙っている。みんな、限界だった。

 すでにA班は一名が病気で療養中だ。

 当然、僕も交代で補勤に出ている。

 これ以上はもう無理だ――そう思っていても、どうにかしなければならない。

 班長は僕の前に来ると、全員に聞こえるように怒鳴った。


「お前、どうせクビなんだから希望しろっ!」


 顔に唾の飛沫がかかり、僕は思わず顔をしかめていたらしい。

 班長はますます顔を真っ赤にし、額には青い血管が何本も浮かんでいた。

 僕の雇い止めを初めて聞いた班員に動揺が走っているようだ。

 別に隠している訳じゃない。いずれ全員に知れる事だ。

 しかし、この言い方は酷いと思う。


「希望しろ! そんなんだからクビになるんだ! このままだとお前、どこに行っても雇ってもらえないぞ! 一生無職でいるつもりか!? ああ? 返事はどうした! 希望しますと言え! ああっ!? 返事はどうした、返事は!」


 僕は疲れと怒声で、まともな判断などできる状態ではなかったのだろう。

 唇を噛みつつも、口からは最も言いたくない言葉が出ていた。


「…………補勤を……希望します」


 他に、言いようがなかった。班長は無言で頷く。


「どうせお前には退職金も無いし、少しでもカネがあったほうがいいだろ。お前のために言っているんだからな。パワハラとかふざけた事ぬかすんじゃないぞ。これはパワハラじゃない。労基なんかに行こうものなら、名誉毀損で訴えるからな。弁護士代は高いぞ、お前に払える額じゃない」


 僕は、俯きながら手のひらに爪を立てる。


「……わかっています」


「ならとっとと始めろ! お前のせいで時間が無くなった。みんなにこれ以上迷惑をかけるな!」


 その日の業務が始まった。


 ◇ ◇ ◇

 

 その日から、僕の休日は無くなった。

 新しい仕事を探す時間も無かった。

 昼も。夜も。土曜も。日曜も。操業は続く。


 A班の班長は比較的常識的な人で、僕の境遇に同情的だったのがせめてもの救いだった。

 比較的楽な作業を割り振ってくれたが、それでも毎日家に帰る度に布団に倒れ込んだ。


 このA班にはとても相性の悪い同僚がいる。

 一年ばかり先輩で、何が気にくわないのか、いちいち喧嘩を売ってくるのだ。

 例えば「わからない事があれば聞け」と言うので聞いてみれば、返事は「なぜこんな事もわからないんだ!」である。

 彼と組んだ最初の一年間は、毎日が地獄であった。

 当然彼も僕の話は聞いていたようで、多少は同情的な視線も無いでは無い。

 だが、彼が目を逸らす瞬間、口角が上がり歯が見えた。何が面白いのかはわからないが、自分でなくて良かった、といったところだろう。


 正直を言えば、僕の居た会社はブラック企業と言って差し支えなかっただろう。

 怒声と罵声の響かない日はない。

 無理のあるノルマを現場の努力でどうにかクリアしてしまったがために、次もそれを求められ、やがていつも求められ、ついには未達が責められるようになる。

 降格人事も年中行事であった。

 怪我人が出ても補充は無く、現場でやりくりするしかない。

 幸か不幸か、僕の雇い止めが覆る事は無かった。

 残された彼らの境遇を考えるとむしろ同情しそうにもなるが、別に知った事ではない。


 法律で義務づけられている最低限の有休である五日前まで僕は働き、それ以外の――ほとんど使えなかった――有給休暇は失効し、僕は社宅のアパートを追われる事になった。

 社宅というのは一見すると安く見えるが、会社をクビになると家――すなわち住所を失い、今後の再就職活動もできなくなる諸刃の剣だ。

 もちろん、無職である以上新しいアパートを借りる事もできない。

 住所不定無職の誕生だ。


 大した物は無かったが、リサイクルショップ――出張買い取りを電車の中吊り広告で見たのだ――を家に呼んで家財をどうにか処分した。

 ほぼ捨て値にしかならなかったが、処分費用を考えればまだマシだと思わなければならない。

 買い取りを拒否されたその他のものを捨て、回収すらされないものを梱包して実家に送り返す。

 帰れる実家があるだけ、まだ僕は幸せだ。


 退去期日には驚くほど小さなリュックサック一つを背負い、僕は故郷へ向かう列車の切符を買った。

 せめてもの贅沢を、と指定席だ。

 飛行機を使っても良いのだが、急ぐ旅ではない。

 しかし生来の貧乏性ゆえか、グリーン車は見送ることにした。

 当然だろう。無職がグリーン車など有り得ない。


 だってそうだろう。

 どうせ僕は『いくらでも替えの効く』『使い捨ての』『消耗品』だ。

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