僕が小説を書く理由

ゆずこしょう

僕が小説を書く理由

朝起きて重たい体をベッドから起き上がらせ洋服タンスにかけられたワイシャツとスーツを取り出してそれを着込むとネクタイを結ぶ。 朝ごはんを食べながらテレビのニュースを見ても、それが僕の周りで起きている事とは思えず、違う世界の出来事のように感じてチャンネルを変えてみる。

けれど、そこに映り変わる光景と僕の隔たりは、まるで生きている世界そのものが違うような、手の届かないくらいに遠くの距離まで離れてしまっていた。

僕は朦朧とした朝を過ごすと、歩いて3分の最寄駅を俯く人々の群れに揉まれて電車に揺られる。

人と人の間に挟まれ、意識を保とうとしないと今にも倒れそうで目を瞑りながらじっと歯をくいしばる。

何を目標にしているのか、何を目的としてきたのかを、まるで最初から無かったかのようにただひたすらに仕事をこなしていく毎日を過ごす。

そうやって過ぎて行く日々を何とかやり過ごすだけで、精一杯だった。


つい最近まで僕は子どもだった気がして、大人になる事にどこか夢を見ていた。大人になれば何でも出来るような気がして、早く大人になりたいとさえ思っていた。

それがいつからだろう。大人にはなりたくないと思い始めたのは。

きっと、子供の頃の僕、大人は自分自身で全てを決められて、自分の思い通りに出来るのだと思っていた。

けれど、実際はいくつもの物を諦めて、消去法でなっているだけなんだと知って僕は大人になることに抵抗を始めて、いつまでも今の時間が続けば良いのにと思い始めた。

そう思い始めた頃から誰かに目隠しをされたみたいに時間が僕の意思とは関係なく進み始めていく感覚をはっきりと感じた。

1日があっという間に過ぎ、気が付けば1ヶ月、1年という時間が僕の前を通り過ぎていった。

誰しもが与えられる時間の流れの中に僕だけが川の中で逆らう石のように時間の流れの中で取り残されているようだった。

そうしていれば、僕だけが大人にならずに済むと思った。けれど、石は時間が経つごとに削れて川の流れに飲み込まれて跡形もなくなった。

僕は大人になって嘘と事実を見分けられるようになった。けれど、それは嘘を真実だと思い込む事が出来なくなったという事を意味していた。

子どもの頃になれると思っていた夢は叶わないと知り、世の中には正義だけではないということを知った。

僕は小さい頃から自分に才能の無い人間なのだと自覚していた。そもそも才能なんてものは他人が決めることなのだけど、その考えがあったから大人になって普通の人間になった所で最初から期待していないものというのは落胆のしようがなかった。

それでも僕は普通の人間にはなりたくはないと漠然な思いがあった。退屈な日々を過ごすだけの人生は嫌だと思っていた。

けれど、今は会社と家とを往復する毎日を繰り返すだけ。

ノルマに追われて、いつでも仕事の手順や業務成績が頭の中を巡る。

週に1日はある休みの健全な消費の仕方も夢の見方さえ忘れてしまっていた。


電車の窓から見える灰色の雲の流れは早い。

天気予報では午後から雨だと言っていたけど、本当に降りそうだ。

立っているのさえ辛くなる中、軽やかなメロディと共に開いたドアから人が降りていった。

車内の電光掲示板を見るとそこが目的の駅という事に気が付き、僕はハッとして体を動かそうとした。

けれど身体は自分でも驚くほど重たく、降りるのに急ぐ人々が蔑みながら僕の肩にぶつかった。

早く動かなければ、そう頭の中で思っても重りを付けたように体は動かなかった。

そんな僕を置いていくように、電車の自動ドアはその向こうにある現実との境目に沿ってゆっくりとしまり、重い音を響かせて再び動き出す。

その瞬間、硬直していた体は重りが外れたように軽くなり、僕は倒れるように近くの席へと座り込んだ。

何かの病気なのかと不安がよぎったが頭の中はすぐに会社のことで埋め尽くされた。

今日中に片付けなければならない仕事が5件、残業は確定していた。取引先にも連絡を入れなければならないし、その前に上司に書類を提出しなければならなかった。

次の駅で降りて引き返せばギリギリだが会社の就業時間には間に合う。けれど、深く座った椅子の上で瞼を閉じ、じっくりと、深く、息を吸い込んで吐き出した。

ただ日々を繰り返す。そうして思いを募らしていくことがとてつもなく辛かった。

次の駅に着いて再び軽やかなメロディと共にドアが開いた。湿った風が体に打ち付ける。

その瞬間、僕はもうダメだと悟り、その日のうちに辞表届を出して会社を辞めた。


会社を辞めてからの3日間、僕は部屋で電気もつけずにテレビから流れる映像を見ながら、ひたすら酒を飲み、タバコの煙を肺に満たした。

誰がみても不健全な生活の中で、頭はうっすらと意識を保ち続けた。

むしろ、そんな意識の中だからこそ僕は頭の中で忘れていたはずの子どもの頃の夢を思い出すことが出来たのかもしれない。

大人になると同時になれるはずがないと諦めて、現実から目を背けないように忘れていった記憶。

僕は小さい頃に小説を書いていた。

それは誰かに認められたいからではなく、自分の頭の中から零れ落ちそうな物語を書き、現実の過ぎる日々に落ちつかない自分を鎮める術として身につけたものだ。

だから、そうやって物語を紡ぐ間は何もかも忘れて空想の世界に入り浸ることが出来た。

けれど、それも僕が子どもだった時までだ。それまで僕の世界を構成する嘘が、大人になるに連れて壊れてしまい小説を書くのも、いつしかやめてしまった。

小説を書いても結局それは夢の中に逃げ込んでいるのだと必死に思い込ませ、徐々に退屈な日々の中に埋もれて行くようになった。


僕はテレビを消して、部屋を満たす湿った空気の中で立ち上がった。

3日間まともなものを食べてなかったから起き上がると立ちくらみがして倒れそうなのを必死に持ちこたえた。

床に転がったビールの缶を蹴飛ばし、向かったのは寝室にあるデスクトップパソコンだった。

僕は久々に電源を入れるとすぐにキーボードを打ち込んだ。

題名はなかった。けれど、頭の中から溢れてくる物語を言葉にしていく。手を休めるのはタバコに火をつける時くらいで、思いつく言葉を吐き出し続けた。

まるで、機械のように文字を打ち込み続けて書き終えた頃には陽がすっかり昇っていた。

僕は一眠りすると書き終えた小説を印刷して見返した。

勢いに任せて書き上げたせいで、所々で言葉が詰まり、頭の中で思い描いている映像と実際の文章が自分の思い通りになっていない。

なによりも自分自身を納得させられない事に悔しさが滲んだ。

僕はアルコールを流し込み、書いた小説の束を床に乱雑に置くと椅子にもたれかかって深く息を吸った。


こうして何もしていない時間が、まるで社会から負の烙印を押され追い詰められている気分になった。

会社を辞めて、小説を書いて、こんなんじゃ金が無くなるだけだ。

こんな生活をいつまでも続けていける訳がない。

けれど、心の中にはいくつもの話の種が芽を出していた。

誰がなんと言おうと、自分自身の内から溢れる物語を書かなければいけなかった。そうしなければならないと強い思いに動かされていた。

僕は深い眠りから起きあがるとすぐにパソコンに向かい、新しい小説を書き始めた。

今まで、押さえつけていた反動なのかアイデアは途切れる事なく出て来た。

書き終わると印刷し、新たな物語を書く。それをただひたすらに繰り返した。

部屋の床には書いた小説を印刷した紙の重なりと、ビールの空き缶が無造作に放置されていった。

無我夢中になり、ただひたすら物語を書き続ける。


そんな生活を一ヶ月近く過ごしたある夜。僕は初めて自分自身を納得させるだけのものを書きあげた。

元々何かをやり遂げた事が少なかったから、最後に題名を付けた時には深く椅子にもたれると充実感に満たされた。

それはとても懐かしい感覚だった。


僕はその日のうちに初めて書き上げた小説を茶封筒に入れて、出版社へと投函した。

小説を書くのは誰かに見られる事を想定していた訳ではない。だから人の評価を貰いたい訳ではなかった。

きっと、当て場のない作品の数々を吐き出してしまいたかった。夢の中に溺れると、それがいつか本当の現実のように感じて、どこかで消化をしなければと思いに満たされるのと同じだ。


タバコを吸うために、ベランダに出ると久々の太陽の光の眩しさで瞼の近くに手をかざす。

その腕は今まで以上に病的な白さになり、肉も落ちていた。

すぐ近くの鉄道橋に電車が通った。車両にはスーツ姿の人々が押し込められている。

かつての僕がいたその場所には、限られた時間とか、かつて描いて夢を現実の中に埋もれるのに必死に忘れて、現実の中に順応しようと必死に耐えている人々の顔が見えた。

きっと正しさで言えば、そうやって耐えて生きていくのがが正解なのだろう。

けれど、いつ決壊するか分からない心の砦を誰もが持っているに違いない。

僕は手持ちのたばこを一本加えるとそれに火を付けて煙を吐き出した。

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