シモーヌの場合は、あまりにもおばかさん。----ヴェイユ素描----〈3〉
労働者もまた人間であり、当然のごとく「労働者」の名のもとに一様であるわけではない。
手際の悪さにいちいち難癖をつけてくる嫌なヤツもいるし、疲弊しきってうなだれているところに優しく声をかけてくる者もいる(※1)。他人にはまるで関心を払わず、自分の持ち場の効率と、支払われる賃金だけを気にかけている人、あるいは他人の処遇や給金を羨み妬む人も。彼らのそのようなふるまいにはそれぞれの背景があり、その背景ゆえの必然性がある。
そういった「個人」たちを一つの「集団」として一括りにし、一体となった「労働力」として機能させている場、それが工場だ。
それぞれの作業、それぞれの労賃、それぞれの職場での、それぞれの人間関係。そのような「多様さ」がありながら、それぞれの労働者は、そのそれぞれの環境に閉じ込められているがゆえに、それぞれの人があたかもまったく異なる人種であるかのように、自分自身の置かれている状況について語りうるような「同じ言葉」を持ちえないでいる。自分自身について語りうるような言葉を持たないから、彼らは結局、自分自身が一体どういう状況に置かれているのか、本当のところとして何もわからないままで毎日を過ごしている。
また、彼らの置かれているそれぞれの状況において、ある人はその場面をやりすごせるものと考えている。だが、ある人にとってはその同じようなことがその場にいられないような致命的な出来事にまでなってしまう。そんな致命的な状態に陥っている人は、それをやりすごせている人を羨み、その人の幸運を恨む。やりすごせている方の人は、そこから転落していってしまった人の致命的な不運を憐れみ、その人の無能を蔑む。
やっかいなのは、少なくともこの状況をやりすごせている人たちが現にいるのである限り、その状況は「全体的」にはやりすごしうるものとして見なされてしまう、ということだ。「誰もができるはずのこと」から切り捨てられていく人たちを含みつつ、その状況の「全体」が維持されている。しかしその「全体」を、「それぞれの場所」からは見渡すことができないものなのだ。むしろ、誰もその必要を感じていない。その「全体」がどうあろうと、彼らにとっては関係がないことなのである。それは結局、「自分のことではない」のだから。「自分だけ」がやり過ごせるのならば、自分にとってそれ以上のことは何も必要ではないのだから。
(つづく)
◎引用・参照
(※1)ヴェイユ「工場日記」(『労働と人生についての省察』所収)
◎参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ
『抑圧と自由』(石川湧訳 東京創元社)
『労働と人生についての省察』(黒木義典・田辺保訳 勁草書房)
『神を待ちのぞむ』(田辺保・杉山毅訳 勁草書房)
『重力と恩寵』(田辺保訳 ちくま学芸文庫)
『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』(今村純子編訳 河出文庫)
吉本隆明
『甦るヴェイユ』(JICC出版局)
冨原真弓
『人と思想 ヴェーユ』(清水書院)
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