マラソンマン
春男
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(お前はそれでいいのか?)
毎日、自分に問いかけている。
そんな質問を繰り返すうちに、その声は自分以外の誰かの声のように聞こえてくる。暗い部屋の湿った布団にこもる僕に話しかける、誰かの声。
(お前はどうしたいんだ?)
僕は、僕からの問いに必死で耳を塞いでいた。
その声は僕の頭の中にとどまらず、部屋中を震わせるようだった。時にはそれは本物の声のように耳に響く。そんな時、僕は恐ろしくなって部屋の電気をつけ、狭いアパートの中に誰もいない事を確認することさえあった。
四畳半のアパートに自分しかいないことを確かめると、僕はまた湿った布団の中にもぐりこんで、際限のない焦りと寂しさに耐え続けた。
時間の許す限り、そう過ごしていた。可能ならば、一生そうして暮らしていたかった。そうすれば、少なくとも今より悪くなることはない。
生温い不安と葛藤を抱きながら、この布団の中に引きこもって生きていけたらどんなにいいだろう。それはきっと現実社会で傷つきながら生きるより、ずっと安心して生きていける。
毎日毎日、根拠のない不安にさらされていても、死にたいなんて思ったことは一度もない。僕は生き意地だけは汚かった。生活出来るギリギリの金を稼いで、ひたすら四畳半の穴倉にこもり続ける。それが僕の日常だ。
不安に耐えきれなくなったとき、僕は映画を見た。
映画はとても素晴らしい。なんといっても見ているだけで済むところが良い。
映画は僕に多くを求めない。身体を動かすことも、頭で考えることも、うまく喋ることもしなくていい。なにもせずにただ見ること、映画はそれしか求めない。それなら僕は誰よりも得意だ。
僕は暇さえあれば何時間でも飽きることなく、映画を見続けた。
もし僕に誰かに自慢できるものがあるとすれば、それは映画を見た本数ぐらいだろう。
映画を見ている間は、暗闇からの声が消えた。代わりに映画の登場人物の声が耳に響く。
『違う時間に違う場所で目を覚ましたら、僕は違う人間になれるだろうか?』
ファイトクラブ。
誇張ではなく百回は見た。
違う時間に違う場所で目を覚ましたら、僕は違う人間になれるだろうか?
たぶん、無理だ。
携帯のアラームが鳴った。
携帯電話の時計を見る。夕方の五時。バイトの時間まで1時間。時間がとまればいいのにと思うことが増えている。時計の針が進むたびに、焦燥感が増していく。
出勤三十分前になると僕は観念して、布団から出て、バイトに向かった。なぜかはわからないけど胃が重かった。
***
「お疲れ様です」
店のドアを開けると、僕はレジにいる女性に挨拶した。
「よろしくね」
長野さんはÅⅤの返却処理をしていた。
僕は正直、長野さんが苦手だ。彼女はこんな場末の店にふさわしくないくらい身なりのしっかりした人で、それが僕には美しく思える。美人というのはどう接していいか分からない。僕が彼女を苦手としている理由はそれだ。
そんな長野さんの眼鏡のレンズにÅⅤのパッケージが写り込んでいるのを見て、僕の頬は少し赤くなった。
「よろしくお願いします」
若干噛みそうになりながら、僕はなんとか挨拶を返した。
長野さんはÅⅤの返却処理を終えると、レジの千円札を綺麗に整えた。
「じゃあそっちのビデオを中古落ちさせるから、ラベル貼っておいて。お客さんいないしゆっくりでいいから」
長野さんは新作落ちのÅⅤの山を指さして言う。僕は長野さんの指示どおり、ÅⅤの中古販売処理を引き受けた。
誰かの性欲がぶちまけられた空パッケージに返却処理を終えたビデオを挿入し、中古販売用の値札を貼り付ける。
こうして日々、性欲をリサイクルし、販売する。だれも僕の好きな映画なんて借りていかない。店の売り上げの八割がÅⅤのレンタルで占められている。残りの一割がÅⅤの中古販売、残り一割が過去一年のヒット作だ。ÅⅤを借りていく人間が気恥ずかしさを隠すために、そんなヒット作を借りていく。
『性のリサイクル』
『環境に優しいエコロジーなポルノ』
『セックス再生業者』
単調な作業を続けていると意味の分からない単語が頭の中に浮かんで離れなくなる。テレビCMが頭の中から離れなくなるように、僕の頭の中でぐるぐると回る。そうなると僕の視野はだんだんと狭くなっていって、意識は散っていく。
店内には新作映画のPVの音と、ラジオの音が混然となって鳴り響いている。
『誰かと、夕食、できるなら、神様を選びます』
ノイズが混ざり合って、意味のない言葉の連なりを作り出す。猿がでたらめにタイピングをしているみたいだ。
猿の打った文章が、気怠い頭をさらに散漫にする。
僕は一瞬だけ目をつぶり、拳を力いっぱい握った。握り込んだ拳を開き、爪の跡が残るほど握り込んだ掌を見る。そうすると視界は広がり、ノイズは少しだけ頭から離れていった。それは僕の子供の頃からの癖だ。気を抜くと、すぐに意識はここではないどこかを漂い、自分の身体から遠く離れていってしまう。
「大丈夫?」
長野さんが心配そうな怪訝そうな顔をしてこちらを見ていた。
「ちょっと立ち眩みがしただけです。気にしないでください」
「なんか体調悪そうに見えたけど」
「いつもです。大丈夫です」
生まれてこのかた体調が良かったことなんてない。そんなことを考えていたけれど、長野さんはいまいち納得のいかないような顔をしていた。
「……休憩でもしようか。どうせお客も来ないし、煙草吸う方だったよね?」
僕らはバックヤードの喫煙室に入り、煙草に火をつけた。喫煙室は僕らの一息で煙に包まれる。
「君はなんでこのバイト選んだの?」
特に興味もなさそうに、まるで独り言でも言うように長野さんは言った。
「映画が好きだからですかね。深夜時給も……まあ」
長野さんは相槌の代わりに長く深く煙を吐いた。
「好きな映画は?」
「なんでも見ます」
「答えになってないよ。好きな映画は?」
好きな映画はなにかと聞かれるのは苦手だ。自分の心を覗かれているような気持になる。
「スタローンの映画とかですかね。『ロッキー』とか『ランボー』とか」
「意外。単館系の映画とか見そう」
「根暗ですからね」
「そこまでは言ってないよ」
長野さんは笑いながら言った。無邪気な笑いだった。
「君ってすごく真面目そうじゃん。文学とか芸術とかそういうの好きそう」
「そんなことないですよ」
僕はスタローンへの情熱を語りたい気持を抑えて一言だけ返した。スタローンの作品がいかに深夜のレンタルビデオショップを歩き回る人間にとって重要かについて何時間でも語りたかったが、黙っていた。誰も僕のスタローンへの思いになんて興味がないだろうから。
「そういうのやめた方がいいよ」
「なにがですか?」
言葉の意味を察しつつ、僕はとぼけた。
「言いたいことを言わないでいるの」
煙草の煙が目に染みた。
沈黙が流れる。僕は気まずさを感じて、適当な話題を探した。
「長野さんはなんでこのバイトを?」
「ニンゲンノフリデキルジャン」
「え?」
長野さんの言葉に僕はギョッとした。彼女はこれといった表情も浮かべずに煙草を吸っている。僕の聞き間違いだったのだろうか。気がつくと、僕はバックヤードの広さに気づいてまた驚いた。
***
僕らは淡々と残りの仕事を片付け、閉店時間を待って店を出た。
「これ、私の携帯の番号」
長野さんがメモを出した。
「なんかあったら電話して」
「いいんですか?」
「そんなこと言うひとはじめて」
長野さんは笑った。
「同じ店でバイトしてるんだから電話番号知ってたっておかしくないでしょ」
また頬が赤くなる。僕はいつになったら女性とうまく話せるようになるんだろう。
長野さんは僕の緊張などまったく気にしていないようだった。
「なんかあったら電話しなよ。なんもなくてもいいけどね」
「いいんですか?」
「別にいいよ。それに君さ。ほっとくと、ふっといなくなっちゃいそうだしね」
僕が返事に困り、黙っていると、長野さんは僕の肩を軽く叩いた。
「まぁ、あんまり深く考えすぎないようにね」
そういうと長野さんは手を振り去って行った。
彼女が触れた手の温度が、まだ僕の肩に残っていた。
『ニンゲンノフリデキルジャン』
僕は頭の中で延々と長野さんとの会話を思い返していた。そんなに心配されるようなことを話したのだろうか。いや、それよりもなんて野暮ったい返事をしてしまったのだろう。もう少しマシな会話だって出来たはずだ、あれじゃまるでフォレストガンプだ。
とんでもないデクノボウだ。
いや、フォレストガンプは卓球の天才だ。
ベトナム戦争の英雄だ。
僕にはなにがある?なにもない。
自分を責める言葉の嵐が僕を呑み込む。
視界が狭くなった。身体が妙な浮遊感に包まれる。自分の身体が歩いている実感すらない。意識が宙に浮かんでいるような感覚。宙に浮かんだ僕が暗闇にとける。暗闇は僕になり、僕自身を問い詰める。
(お前はなんなんだ)
ああ、まただ。
(お前は何者なんだ)
そんなこと知るもんか。
暗闇から響く声は僕を責めるのをやめようとしない。どこまでも下品に、どこまでも僕の本心を見透かして嗤う。
僕はだんだんと腹が立ってきた。なんだってこんなに自分を責めないといけない。僕がいったいなにをした。
(お前はなにもなしていない)
分かってる。それが悪いっていうんだろう。だけど、それは僕だけか? 誰だってそうなんじゃないのか?
(お前にはなんの価値もない)
分かりきっている。今更それがどうしたって言うんだ。
(お前は何者にもなれない)
その一言で僕はキレた。
身体がいつの間にか走り出していた。走り出さずにいられなかった。身体の奥から溶岩のように熱が噴出し、僕の身体を勝手に動かした。
走るのなんて高校の体育以来だ。なんで走っているんだろう。
(走れ、フォレストガンプ)
くだらない連想。無意味な言葉。
汗で濡れたシャツが肌にまとわりつく、呼吸が苦しい。
なにもかもにうんざりする。
夜の冷たい空気が身体の熱を際立たせた。
なにもかもおきざりにして、どこまでも走りたかった。でも僕の身体は僕の心から吹き出すなにかを満たすには弱すぎた。すぐに肺は苦しくなり、肩で息をし始める。
僕は狂う事すらできない。
現実が僕に追いつきはじめた。汗で重くなったシャツは不快で、身体中が痛い。
自分の情けなさを再確認して、僕が足をとめようとしたその瞬間に、一人のランナーが、僕の横を走り抜けた。
赤いランニングシャツ、細長く引き締まった身体。
ひとめでわかる。走り込んだランナーだけが持つ肉体。
颯爽と走るその姿に憧れのような、憎しみのような感情を抱く。
ああいう風に走れたら、どんなに良いだろう。
僕は止めかけた脚を動かし、彼の後を追い始めた。
自分でもなぜ彼を追いかけているのか分からなかった。
身体は重く、いますぐに立ち止まりたいと思った。
それでも目の前を走るランナーを追いかけずにはいられなかった。
月明かりさえない夜の闇に、彼の姿がぼうっと浮かび上がる。
赤いランニングシャツが、まるで燃えているように見えた。
枯れ木のような身体が燃え尽きるまで、きっとどこまでも走り続けるのだろう。そう思わせる走りだった。
誰もいない夜の街で、なぜそんなにも切実に走る必要があるのだろう。
彼の姿を見ているうちに、僕は子供のころにやったキャンプファイヤーを思い出した。
なんの目的もなく、ただ燃え上がるためにある炎。子供の頃の僕は目的なく燃え上がる炎が怖かった。けれど、その炎から目を離すことも出来なかった。その炎は恐ろしくて、そしてとても美しかったから。
彼の姿をいつまでも見ていたかった。
追いかけながら、彼の走りを真似てみた。
腕の振り方、腿の上げ方、重心の置き方。
まるで僕に走り方を教えているように見えた。僕は彼の走りを食い入るようにみつめ、それを自分の身体に沁み込ませていった。
そのフォームは何度も訓練した動きみたいに僕の身体によく馴染んだ。
考える前に身体が動く、生まれて初めて立ち上がった赤ん坊の気分というのはこういものかも知れない。動く身体をいつまでも感じていたかった。
身体を動かしている間は暗闇からの声は聞こえなかった。
一歩踏み出す度に、全身に痛みが走った。その痛みすら心地良かった。痛みが僕を現実に縛り付けてくれる。自分の身体が自分のものだと実感できる。拳を握りこむ必要もない。
細胞のひとつひとつがより強固なものに入れ替わったような感覚。
腕の振りは力強く、脚へと連動し、地面に伝わる。
冷えた身体に火が入る。消えることのない火が体の中に広がり、僕はひとつの炎になる。
どこまでも、走れる。身体が燃え尽きるまで、身体が燃え尽きても。
彼との距離が縮まる。
あと数十歩。
骨がきしむ。
あと数歩。
心臓が跳ねる
あと一歩。
痛みはもうない。
(ニンゲンノフリデキルジャン)
なぜ、その言葉が浮かんだのかは分からない。
ただその言葉で、僕の身体と意識が爆ぜた。
フォームを忘れ、夢中で地面を蹴った。どこかから叫び声が聞こえる。それが僕の叫び声だとすら気づかなかった。視界が白くなる。真っ白な光に包まれる。
白い光の中で、彼の姿が影のように浮かんでいた。
僕と彼の距離はどんどん離れていった。彼は振り向くこともなく、光の中へ駆け抜けていく。
彼の影が消えた時、僕の意識も光の中に溶けていった。
***
朝日が昇っている。
僕はいつの間にか、地面に倒れ込んでいた。
ゆっくりと身体を起こす。身体を動かすたびに激痛が走り、全身はかつてないほど疲れていた。
なんとか身体を起こしてあたりを見回す。
川に沿って桜の並木が続き、満開の桜の花びらが舞い散って、あたり一面を埋め尽くしている。
知らない町だった。一体、どこまで来たんだろう。
ひとりの老婆が、道を埋め尽くす桜の花びらをうんざりしたように排水溝に掃き捨てていた。僕はしばらく老婆を見ていた。行き場のない目線が老婆を選ぶしかなかった。
老婆は僕の視線に気づき、咎めるように肩をいからせて僕に近づいてきた。
「兄ちゃん、中国人かい?」
唐突な問いに僕は驚いた。
「いえ、違います」
ぼうっとした頭で僕はやっとそれだけ言った。
「中国の技能研修性ってのかい? あれだろう?」
呼吸を整えて老婆に質問する。
「あの、ここはどこなんでしょうか?」
疲れ切った僕の声は奇妙なイントネーションを帯びていた。自分の発した言葉が、まるで外国の言葉のようだった。
老婆は訝し気な顔をしながら答える
「アンタドコカラキタンダイ?」
なぜかその時の僕には、老婆の問いが、重たい鈍器のように響いた。どこから来て、どこへ行くのか。
「どこから来たのかは分からないけど、どこに行かなきゃならないかは知っています」
もちろん、老婆はそんなことは聞いていない。ただそれは間違いなく僕の本心で、そう答えることになんの違和感も覚えなかった。
僕は老婆に礼を言い。もと来た道を戻り始めた。
「やっぱり中国人なんじゃないのかい?」
僕の背中に老婆が問う。僕は否定も肯定もしなかった。頬をなでる春の風が心地よかった。
***
僕は、電話ボックスに入り、汗で濡れてクシャクシャになったメモをとりだし、電話をかけた。きっと起きている。なんだかそんな気がした。
「はい、長野です」
僕の予感は外れた。長野さんは明らかに寝起きで、不機嫌そうな声で電話にでた。
その声を聞いた瞬間、電話をかける直前のきっと起きているという予感が消え去り、緊張で汗が噴き出した。それでも僕は電話を切ることはしなかった。
言いたいことを言おうと思った。
僕は声が震えぬように静かに息を吸い、遠い国の言葉に聞こえぬように。言葉を発した。
マラソンマン 春男 @HaruoPsycho
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