15 根来警部の娘

 粉河修二こかわしゅうじは、群馬県警の刑事で、根来警部の部下である。三十代前半の冷静沈着な男だが、あまり自分を語らない男なので、どうにも謎が多くて困る。

 何でも伝統のある武家の出身で、幼い頃から武術の鍛錬に明け暮れていたので、剣道と居合斬りならば、粉河の右に出る者はいないとされる。

 粉河もなかなか整った美しい顔をしているが、真面目一筋の男で、いつも口を一文字に結んでいるから、人に冷たい印象を与えるのである。ただ物言わぬ中に情熱を持っている男でもあった。

 粉河は、夜遅く捜査会議を終えて、前橋の自宅のマンションに帰宅するところであった。

 六月にしては、今夜はやけに冷えるな、と粉河は思った。根来は訳のわからない理由で休みを取っている。根来がいないと同じ職場も違って見えてくるというものだ。

 夜空を見上げれば、月と星が輝いていた。視線を落とすと、ただ街灯の明かりが悲しみを誘う。

 夕食も食べずに働いていたものだから、粉河は自宅で食べる夜食を買おうとして、マンション近くのコンビニに入店した。すると、聞き覚えのある声がした。

「粉河さん」

 粉河は、その声にはっとして振り返った。

 そこには、まっすぐにこちらを見る美しい瞳をもった色白の美女が立っていた。誠実で一本気な印象を与えるのは、その瞳のせいだろうか。まだ二十代中頃だろう。そして、粉河にとって見覚えのある女性だった。


「根来さんの娘さん、ですか」

「お久しぶりです」

 それは根来ねごろの娘のすみれだった。根来が男手一つで育てた娘というのは、このすみれのことであった。粉河はこのすみれのことをあまり知らない。ただ二、三度、会ったことがあるという程度のものである。

「粉河さん。お仕事の帰りですか?」

「そうです。すみれさんは?」

「私もなんです」

 何の仕事をしているのだろう、と粉河は思ったが、あえて聞かなかった。

「根来さんは今、新潟県ですか」

「そうなんです。埋蔵金が何だとかおかしなことを言って飛び出して行きました」

「埋蔵金ですか。確かにそんなことを言っていましたが、寝言だと思っていました」

「私も寝言だと思います。それで父の依頼されたことがどうしても気になるんです」

「山梨県の武家の遺産金に関わることに、立ち会うとか言ってましたね」

「そうです。それがおかしいんです。何か父の命に関わる気がしてならないんです」

「命が……。ここには人が大勢いますから、ちょっと場所を変えましょう」

「ええ」


 粉河とすみれはコンビニの外に出た。

「おかしなことだらけです。その島にある埋蔵金を見つけた人が、その遺産を全て相続できるとか言っていました。こんな非現実的なことがあるでしょうか」

「そうですね。しかし、命に関わるほどのことではないような……」

「それでも、そんな場所に居合わせたらひどい修羅場でしょう。父の身に、恐ろしいことが起きるんじゃないかと思うんです」

「確かにそうですね」

「粉河さん。ちょっと山梨県警に問い合わせてみてくれませんか」

「山梨県警ですか? 何故」

「父はろくに調べもしないで、ただ島で揉め事が起こらないように対処すればよいと思っているようでした。でも、これはもっと恐ろしい秘密がある気がするんです。尾上家のことについて洗い直した方が良いんじゃないかと思って」

「そうですね。何か事件が絡んでいないか、問い合わせてみることにしましょう」

 粉河修二はそう言うと、すみれに、

「やはり根来さんの娘さんですね」

 と言った。

「どうして?」

「鋭いからです」

 粉河はそう言って微笑むと、すみれと別れた。


 すみれは粉河を見送ってから、何だかひどく寂しい気持ちになった。

 夜の闇の中で、いつか遠い昔の記憶が蘇ってくるようだった。あれは、すみれがまだ高校生で、根来と激しい口論になった夜のことだ。すみれが買っておいたケーキを食べようと思って帰宅すると、根来が自分のプレゼントかと思って、すでに食べていた。このことから口論となり、だんだん二人はヒートアップしてきた。

 すみれは「お父さんは何も分かってくれないよ」と叫んで、竹刀を振り回していた。根来は「どうしてケーキぐらいで、そんなに怒るんだよ」と言った。その言葉が許せなくて、すみれは一瞬の隙を見つけると、思いきり父の頭に竹刀を打ち込んだのだった。

 すみれは、父に頭ごなしに怒られるのではないかと思った。そして、捨て子になったような気持ちになって、たった一人で夜の街に駆け出した。その時に彷徨った夜の街はネオンの光が綺麗だった。ただ悪者にされる自分が、そして、そう決めつけてくるだろう父親のことが嫌いだった。父は毎日、凶悪犯と戦うことに夢中になるあまり、人間らしい心、繊細な心を失ってしまったのだと思っていたのだった。

 夜の街は暗くて寒かった。この静けさは何かを分かってくれそうにも思えたけど、自分の心の苦しみを分かってくれるという安心感までは持てなかった。ただ、その静けさの中で時間ばかりが経ってゆく。

 あれは、本当に寒い夜だった。

 すみれが、寒さにいたたまれなくったのと、気持ちが変化したのとで、恐る恐る、自宅に帰ると、父の靴が土間から外れた場所に無造作に転がっていた。相当、自分のことを探したらしい。見れば、父は母の仏壇の前で悲しげに座り込んでいた。頭には見事なたん瘤ができていた。

 すみれは、なんだかひどく哀れに思って、お父さんと呼ぶと、振り返って、しばらく気まずそうにしていたが、娘が帰ってきたことにほっとしたのか「やっぱり、お前も俺の娘だなぁ」と言いながら、しきりにたん瘤を撫でていた。根来はポツリと「ケーキは……また買ってくるからさ」。すみれは、いや、そこじゃないと思ったが、まあ、いいかと思った。

 あんなに怒られないと、かえって私が一方的に悪いみたいではないか、とすみれは思ったが、どうにも一人娘には弱い父なのだった。

 そんな父が、今夜はどこか遠くに行ってしまったようで、すみれは、ひどく懐かしく、寂しく感じられたのだった……。

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