Part7 それで良いのか?
「朔耶くん」
藤原先輩に声を掛けられた。
顔を上げると、既に鞄を持った藤原先輩が、俺を見下ろしている。
「そろそろ下校時刻だよ。いつもの事ながら、君の集中力には参るなぁ」
窓の方を見ると、昼間は、閉められていると言っても光を透過せずにはいられないカーテンが、蛍光灯の光だけを反射していた。外はすっかり日が暮れてしまったようだった。
「放って置いたら、夜中まで読んでいたりしそうだね」
「そんな事にはなりませんよ。もう一時間くらいで読み終わりましたから」
俺はその本を、書架に戻した。
鞄を持って立ち上がり、藤原先輩と一緒に入り口まで歩いてゆく。
入り口の手前で、杉浦先輩が待っていた。
杉浦先輩はどうしてか、俺の顔を見ると嫌そうに表情を歪めて、
「早く出ろよ。鍵、閉めらンないだろ」
と、顎をしゃくった。
俺は杉浦先輩の不機嫌の理由が分からず、首を傾げつつも、言われた通りに廊下に出た。廊下も、図書室の前は電灯が点いていたが、奥の方は真っ暗になっており、果ての見えない闇の洞窟を覗いているようだった。
藤原先輩が図書室内の電気を消して、杉浦先輩が準備室に鍵を掛ける。
「じゃあ、僕、鍵返して来るから、先に帰っていて良いよ」
藤原先輩が、杉浦先輩に手を差し出した。施錠に使った鍵は、職員室に戻さなければいけない。しかし杉浦先輩は、すぐに鍵を手渡そうとはしなかった。
「いや、その……」
「どうしかした?」
杉浦先輩は藤原先輩を見て、俺を睨み付けるようにした。視線をあちこちに彷徨わせる杉浦先輩を見て、俺は、
「俺が返して来ますよ」
と、半ば杉浦先輩から引っ手繰るようにして、鍵を受け取った。
杉浦先輩は、見た目こそあの不良グループとつるんでいても変ではないが、その実は真面目で責任感が強い。藤原先輩よりも先に図書室にいたという事は、彼女が準備室の鍵を職員室から持って来たという事だ。持って来た自分が、返却しなければいけないという考えなのだろう。
しかしご覧の通り校舎は真っ暗で、女子としては些か怖いと感じているのかもしれない。だから藤原先輩の申し出はありがたかったものの、俺と一緒では頼りなくて不安である。
だから、素直に鍵を渡すのを躊躇ったのではないか。
俺はその気持ちを察して、杉浦先輩から鍵を取り上げたのだ。
「良いのかい。何だか、使い走りにするようで悪いな」
「いえ、俺も図書委員ですから。先輩たちは、先に帰って下さい」
そう言って職員室に向かおうとした俺の肩に、杉浦先輩が手を掛けた。そして耳元に口を寄せて、小声で、
「気が利くな、お前……」
「え? そうですか?」
と、何の気なしに返事すると、杉浦先輩は言葉とは裏腹に又もや表情を歪めて、俺の頸に腕を回して来た。ぐぇーっ!
「てめ……変な事考えてたら、ぶち殺すぞ!」
今朝の石川に続いて、女の腕で今度は頸を絞り上げられる。俺は杉浦先輩の腕をぱんぱんと叩いて、ギブアップした。
その様子を見て、藤原先輩がぽかんとしている。
「駄目だぞー、杉浦。幾ら怖がりがバレたからって、そんな事しちゃあ」
「はぁ!?」
とぼけたような藤原先輩の言葉に、杉浦先輩が激しく動揺する。どうやら図星らしい。
「別に、怖がってなンかいねぇし」
吐き捨てるように言うと、ずんずんと近くの階段まで歩いてゆく。
藤原先輩は俺を見て、肩を竦めるような動作をした。
「それじゃあ、よろしく頼むよ」
「はい」
「おーい、杉浦ァ、待てよー。怖いんなら僕も一緒に帰るからさー」
階段の闇に飲まれて消えゆく二人の先輩。
俺は、職員室が近い真ん中の階段に向かった。
校舎の中の静寂と異なり、表に出ると、下校時刻ぎりぎりまで部活に勤しんでいた生徒たちが、続々と校門から吐き出されて賑やかな様子であった。
運動部が多く、ジャージやユニフォーム姿である。その中で学ラン姿の俺は、却って目立つような気がした。それが何となく居心地が悪かったからか、俺は肩を竦めて背中を丸め、早足で校門を出てゆく。
学校を離れると、すぐに人の気配がなくなった。民家の生活の色が、高い塀の向こうの窓から明かりとなって漏れているが、その近くを歩いている人間はいない。下校時刻と言っても、会社勤めの人間が帰宅するにはまだ早い時間なのだろう。多分、母さんもまだ家に帰っていない。
加えて、俺の家は本来ならば、牡丹坂中学とは正反対の位置にある
しかし菊水学院は小中高一貫の私立校であり、俺が通った小学校から進学する人間は僅かで、殆どが牡丹坂中学へゆくのだろうという両親の配慮から、今の学校へ通う事になった。
なので、俺の帰宅ルートと、牡丹坂中学の他の生徒の帰宅ルートとは微妙に重ならず、時間によっては、俺は全くの孤独と共に家に戻らなければいけないのだった。
そしてこの寂しい道は、いつもあやちゃんと分かれる商店街前の十字路まで続くのだった。
俺は、塀の並んだ通りをぽつぽつと歩く。街灯が設置された間隔は意外と大きく、やろうと思えば不審者が不埒な事をして逃げ出す事も難しくない。いつだったかは、牡丹坂高校の生徒が、あわや車で連れ去られる所だったとも聞く。
そんな道を歩いているのは、いざという時への想像力が足りないと言われるかもしれない。その時が訪れても、自分には大した事が出来ないであろうと自覚しているにも拘らず、その一方でそうした状況を脱出出来ると思い込んでいる。
そもそも、自分だけは絶対に大丈夫だという、何の根拠もない自信のようなものが、薄っすらとあった。
誰だって多少は、そういうものだ。
普段から、いつ不審者が襲ってくるかもしれないとか、事故に遭うかもしれないとか、そんな事ばかり考えていたら、日常のどんな些細な事にでも敏感になって、生き辛い事この上ない。生き易く生きる為には、多少、鈍感であるくらいの方が良いのだろう。
――それで良いのか?
そう割り切ろうとしているのだが、妄想に優れた俺は、余計な事まで考えてしまう。
思い出したのは、昼休み、不良グループに脅されていた彼の事だ。
彼の事を放置して良いのか?
若し自分がそういう立場だったらどうするんだ?
それは勿論、助けを求めたい。
誰かに助けて貰いたい。
あの状況を快く受け入れる人間なんて、いる訳がない。
けれど自分の力だけではどうにもならない時、風のように颯爽と現れた誰かが、どのような手段を採るかは分からないが、力になってくれたのなら、それは嬉しい事だ。
その救いの手が差し伸べられなかったら?
誰かに見て見ぬ振りをされてしまったら?
それは……とても、辛い。
辛いという言葉では言い表せないが、その程度に留めて置かないと、俺の心まで引き摺られる。
人の心の、特に負の感情は、他人を引き摺ってしまう。嬉しさや楽しさよりも、ずっと強い力で、他人を巻き込んでしまう。マイナスの力は、強い。
それに過敏であると、こちらの心までマイナスに引き込まれてしまう。負の感情に引き込まれると、こちら側までもが負の感情を発するようになる。
それが嫌なら、眼を向けない事だ。
負の感情を発する人間や事象から眼を反らして、自分とは別世界のものとして扱う事だ。
言い訳がましく、心の中でぶつぶつと言葉を紡ぎながら、俺は商店街前の交差点までやって来た。
この時間だと、あやちゃんがそろそろ帰って来る頃だろうか。
俺は、横断歩道の向こうの商店街に、眼をやった。
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