Part6 図書室

 睡魔と必死の戦いを繰り広げ、どうにか帰りのホームルームまで終えた俺は、漸く教室から出る事が出来る。


「やったーっ! ぶっかつー、れんしゅー!」


 と、誰に聞かせるでもない下手な歌を口ずさみながら、俺の後ろから飛び出してゆく石川。


 しかしその気持ちをまるで理解しないでもない。石川にとっては、バレーボール部の活動が、退屈な授業を受けているよりもずっと楽しい時間なのだろう。


 俺も、黒板の文字をノートに写し取るだけの時間なんて面白くない。何がどうしてそうなるのか分からない数式を漠然と書き綴ってゆく事の、何と意味のない事だろう。


 俺は図書委員会に入っており、放課後は図書室に入り浸っている事が出来た。司書をやらなくてはいけないのは月曜と木曜だけなのだが、それ以外でも俺は下校時刻まで図書室で本を物色しているのが日常だった。


 両親はどちらとも余り本を読まない人間で、俺が好みの本以外はうちに置いていない。しかし図書室には、俺が好んで手に取る以外のジャンルが膨大に保存されており、そういうものを手に取る機会というのはイコール新しい妄想力の糧となるものとの出会いという事だ。


 図書室は、二階の北側にある。俺は校舎の真ん中の階段で上にゆき、上級生らを突っ切るような形で、図書室へ向かう。


 すると、階段であの男子生徒とすれ違った。昼間、不良グループに脅されていた、ひょろりとした先輩だった。


 背中を猫のように丸め、視線を足元にのみやり、階段を一つ下りるたびに溜め息を吐いているような彼は、すれ違っただけだと言うのに、俺の皮膚を陰気で撫でてゆくような気がした。


 学ランやズボンが薄汚れており、若しかすると服の下には殴られたり蹴られたりした痕があるのかもしれない。


 俺はその背中を追いそうになりながら、やめた。


 俺にどのような声掛けが出来るだろうか。彼に下手気に関わって、あのグループに眼を付けられるような事があっては堪らない。あの人には悪いと思うが、俺の知った事ではないというスタンスを貫き通す以外に、俺に出来る事はなかった。


 若し、俺がああいう事のターゲットになったら、両親が嫌な思いをするだろう。俺の問題で、仕事で忙しい二人を学校まで呼び付ける訳にはいかない。


 いや、それでも……。


 例え他の誰に迷惑が掛かるとしても、この俺自身に不利益が生じるとしても、彼の事を誰かに相談した方が良いのだろうか。


 しかし相談したからと言って、状況が解決するという保証は?


 あの人を脅していたグループが口裏を合わせて、そんな事はしていないとしらを切ったらどうなる。それで先生たちが、あのグループを信じてしまったらどうなるのか。


 俺にもあの人にも、良い事はない。


 けれど、最初からそうと決め付けて諦めるのは、どうなのだ。あの人がああやって脅されているのを解決する糸口になるのなら、先生たちに相談するべきではないのか。


 だが、教師と言っても聖職者ではなく、公務員だ。役人だ。今まで、役所に通報したり相談したりして、けれども役人がどのようにも動いてくれなかったという例は、ニュースでしょっちゅうやっている。ネグレクト然り、DV然り……


「何しけたツラァしてんだよ、飛鳥」

「うわっ」


 いつの間にか俺は図書室の前まで来ており、丁度そこから出て来た杉浦すぎうら先輩と出くわした。


 金色っぽい髪に手を突っ込んで、ごりごりと掻き毟っている。人と会う時に片方の眼を閉じる癖があり、それとは逆に右眼はぎろりと剥き出している。ガムを良く噛んでいて、グロスを塗った唇は常にもぞもぞと動いている印象だった。


「杉浦先輩、今日は早いっすね……」

「ン、便所だよ便所、まだ帰れねぇだろ。それとも、当番変わるかい」


 制服も着崩しており、ぱっと見はあの不良グループと変わらないように見える。しかしこれでも俺と同じ図書委員であり、少なくとも、誰かを使い走りに使った上でお金を渡さないというような事はしない。


 それに今の発言も、彼女が悪い人じゃない事を仄めかしている。俺が“早い”と言ったのは、


“図書室にもう来ているなんて早いですね”


 という事だが、先輩は俺が、


“こんなに早く帰るなんて”


 と嫌味を言ったと思って、トイレへゆく途中だったのだと返したのだ。


 杉浦先輩は宣言通り近くのトイレに入った。


 俺は図書室に入り、人が勉強をしている五、六人と少ないのを見ると、お気に入りの席に移動した。


 図書室は教室の二、三倍は広く、入り口に近い方には長テーブルが並んでおり、腰の高さの本棚が設置されている。壁は北側の一部を除いて全て本棚になっていた。その本棚でない壁には窓があるが、基本的にはカーテンが閉められており、蔵書の日焼けを防いでいる。奥の方から、四角いテーブルが三つあり、椅子がそれぞれの辺に置かれていた。又、背の高い書架が並んでいる。


 俺は、突き当り側のテーブルの一つに陣取ると、早速本を物色し始めた。今日は何にしようかな……。


「朔耶くん」


 そうしていると、声を掛けられた。

 藤原ふじわら先輩だ。


 藤原先輩は去年まではボクシング部に入っていたが、総体の前に脚と拳を痛めてしまい、フットワークが使えなくなって引退したらしい。


 それまで坊主にしていた頭を、髪を伸ばして、襟足なんかはすっかりうなじを隠している。


 しかし身体を鍛えるのはやめていないらしく、細身の長身の、まさにアスリートという体形だ。


 どうして図書委員になどなったのかは分からないが、良くしてくれた。


「毎日、熱心だなァ君は」

「熱心、ですか?」

「うん。当番でもないのに毎日来てくれて……」

「いや、俺は、本が読みたいだけですから」

「充分、勉強熱心さ。僕だって、部活をやめる前まで、小説の読み方も分からなかったんだからね」


 そんな人が、どうして図書委員になどなろうと思ったのか。


 確かに、図書委員の仕事と言えば貸出のチェックくらいで楽だという話は聞いていたが、それならば逆に、真面目で爽やかな藤原先輩が選ぶとは思えない。


「そう言えば、杉浦はまだ来てないのかい?」

「いや、さっき、トイレに行くって……あ、戻って来ました」


 入り口の方に、特徴的な金髪が見えた。

 藤原先輩がそちらへ歩いてゆき、ついでに俺もその後を付いてゆく。


「よ、杉浦」

「ウス、先輩」

「ウスはないでしょ、ウス、は。女の子なんだし、もっと可愛らしい挨拶してくれよ」


 冗談めかして、藤原先輩。


 杉浦先輩はふんと鼻を鳴らすと、入り口のすぐ横にある貸出カウンターの内側に入って行った。カウンターの中にはキャスター付きの椅子が二つあって、一人が貸出のあれこれをやっている間に、もう一人は履歴の確認をやったりする。


 委員会の先輩二人が揃った所で、俺は漸く自分の事に打ち込める。


 最初に決めた席に向かいざま、適当に踏み込んだ書架から一冊抜き取ってみる。


 どうやら宗教関係の本らしいが、特定の団体の教義を書いたものではなく、宗教を如何に生活に活かすかという内容のものであった。


 席に着いた俺は、早速、そのページを捲り始めた。

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