第7話 若者たちよ、団結せよ。
「グルウォオアァァァァァッ!」
黒火熊の咆哮が上がると同時に動いたのは、剣を持つダンテでもなく、未だ地面に転がっているジュリオでもなく、ハイリーだった。
彼女は黒火熊に真っ直ぐ向かって走り出す。そして互いがぶつかりそうになった寸前、姿勢を低くし右足を軸に一回転。黒火熊の凶悪なパンチをかわした。
「たぁっ!」
勢いそのまま、強烈な肘鉄を相手の脇腹に叩き込む。ズシンッ、という重い音とともに黒火熊は数歩後ろへよろめいた。すかさず、高く跳躍してからの踵落とし。
しかし今度は攻撃を耐えた黒火熊に突飛ばされ、彼女は地面を転がり勢いを殺して対応した。
僅か十秒程度の出来事であった。
「なんか……剣無い方が強くね?」
「同感」
なんと勇猛果敢。あまりにも豪胆不敵。キリリと表情を引き締め拳を構えるハイリーを、男子たちは唖然として眺めていた。
そして再びハイリーと黒火熊の猛攻が始まったところで、ダンテは気がついた。
「あっ!アイツ!」
「え?」
「あの、ほら!ディッキーだっけ?!いない!」
そう言われて、ジュリオも慌てて周囲を見渡す。来たとき同様、ディッキーは忽然と姿をくらましていたのであった。
トドメを刺しておけばよかった。という思いを込めて舌打ちした二人のもとに、砂埃と共にハイリーがスライディングで飛び込んできた。
「お二人とも!避けて!」
その声が鼓膜に届くのとほぼ同時に、ダンテの目の前に黒火熊の爪が迫る。
咄嗟に聖剣を前に突きだし、爪と爪の間に切先を捩じ込む。何とかガードすることはできたのだが、しかし
「あっつ!熱い熱い熱い!!死ぬっ!」
黒火熊の纏う悪臭のヘドロから醜悪な炎が産み出され、容赦なくダンテを襲う。直接触れてはいないのに、顔や体が尋常じゃなく熱い。聖剣を握っている手だけが平穏を保っており、そこ以外はまさに地獄のようだ。
このままでは焼け死ぬ。
そう思った時、横から飛び出してきたハイリーが低い姿勢でタックルを決め、黒火熊を押し倒した。その隙に戦線離脱し、肌を確認する。
聖水の雨で冷やされているからまだましなものの、黒火熊に近かった部位は赤く腫れ、ヒリヒリとした痛みを発している。
火傷部分を見たジュリオが「うわっ」と声を上げ、なけなしの魔力で治癒魔術を掛けてくれた。おかげで、聖剣をしっかり握れる程度には痛みが引く。
「ガアッ、ガ、グオァァァァァッ!」
絶叫が鼓膜を揺らし、黒火熊が地面を転げ回った。苦しんでいるようで、何度も何度も転がっては、爪を突き立て地面に穴を開けている。
そんな黒火熊の様子をよそに、ハイリーがダンテたちのもとへ走ってきた。呼吸は荒く、全身汗と砂にまみれて疲労しているが、ダンテのような火傷の痕はまったく見当たらない。
「お前、大丈夫か?」
「ええ。肋骨を数本折って目を潰してきました。暫くは動けないかと」
「素手の方が強えーってどういうことだよ。ていうか火傷とかは?怪我はないか?」
ジュリオの質問に、ハイリーは鎧の胸部分を撫でた。その拍子に谷間に挟まっていた煤が汗で流れ落ちるのを、思わず目が追いかけてしまう。
「前勇者様の鎧のおかげで、炎は受けていません。戦うだけでしたらこの拳で充分です。ただ、当然私も疲労しますし、それに……」
ぬちゅ、ぐちょ、と不愉快な音が鳴る。
悶え苦しんでいたはずの黒火熊に、ナメクジのようなヘドロが纏わりついていた。ヘドロは脚に巻き付き、顔に巻き付き、黒火熊を無理矢理立ち上がらせる。
「グオッ、ガウォォッ!」
苦痛混じりの鳴き声。
その様子を見てハイリーは顔をしかめた。
「どれだけ叩いても、あのヘドロが勝手に動いて、黒火熊を操ってしまうのです。何度倒しても、その度に」
「えっぐ。じゃあアイツは死ぬまでヘドロの操り人形なのかよ」
「いや、死んでも操り人形な可能性すらある。どうしたもんか……」
「ただ私、気が付いたことがあるのです」
ずいっ、とハイリーはダンテに近寄る。
それと同時にチカッと聖剣が光ったのだが、ハイリーは気がついていないようだ。
「聖剣に切られた爪の間。そこだけヘドロが塞ぐこともなく、血を流し続けています。それがどういう意味か、わかりますね?」
「ヘドロは聖剣を嫌がっている?……聖剣ならヤツを倒せると?」
「その通りです!」
ハイリーが聖剣の力に目を輝かせる一方で、ジュリオは渋い顔をして意見を述べた。
「でもアイツにはおっかねー炎がある。鎧に守られてるお前ならともかく、ダンテは焼けちまうぞ」
「では私の鎧をお渡ししましょう。聖鎧と聖剣が揃えば無てきでっ」
言葉の途中で急に伏せたハイリーの頭上を、火の塊が掠めていった。
その後も次々と火の塊は頑なにハイリーを狙い、乱れ撃ちされる。先ほどまで軽快な動きで避けていたハイリーも流石に疲れてきているようで、絶え間ない攻撃に翻弄されていた。
そしてついに、ほんの少し躓いたその瞬間を逃さず、火の塊が彼女の脇腹に命中した。
「「ハイリー!」」
黒火熊との対面。
脳裏をよぎるのは、先ほどの地獄のような熱さ。手の力が抜けそうになるが、怯えていては守るものも守れない。
フッと息を吐き、敵をしっかり見据え、聖剣を強く握り締め、小さな声で「冷静に、冷静に」と自己暗示をかける。
そして、黒火熊が腕を振り上げた瞬間、聖剣がダンテを導いた。
疾風の如く走り、黒火熊の腕の下に潜り込む。黄金の輝きが一閃。雷のようなその光の後、黒火熊の腕が振り下ろされることはなかった。
切り落とされた腕が地面を叩くと同時に、黒火熊は悲痛な叫びを上げ、倒れ込む。再びヘドロが全身を覆い尽くすが、腕の傷口を避けているのは明らかだった。
一方でダンテも、火傷の痛みで膝をついていた。顔や腕に水膨れができ、針で刺すような痛みが彼を苦しめる。
癒しを求めて天を仰ぐが、頼みの綱である聖水の雨は弱く、既に止みつつあった。
「雨が……」
バッと振り向くと、ジュリオが首を横に降った。ハイリーに治癒魔術を掛けているようだが、その魔力も今まさに尽きようとしていた。
「限界だ、悪い」
「マジかよ……。もう焼けるの覚悟で突っ込むしかないのか」
「ですから、私の鎧をですね」
「なんでか知らんけど、ずっとお前狙われてるじゃん。今鎧を剥いだらマジで死ぬって!」
「ジュリオの言う通りだ。いくら強くたって生身で黒火熊に襲われたら死ぬだろうし、死なれたら俺が死ぬほど後悔する。鎧と聖水があったからなんとかなっ……て……」
ダンテの頭の中に、閃光が走った。
強敵に勝てるかもしれない道筋が、微かに照らされる。
「ジュリオ、ハイリー」
死の危機に、そして秘密を暴露した羞恥に震えていた体が、今は興奮に震えていた。一発逆転の可能性に、口の端が吊り上がる。不謹慎だ、とは思いつつも、ゾクゾクする感覚が止まらない。
そんなダンテを見て、ジュリオはつられて笑い、ハイリーは不安げに見つめてきた。
「もうちょっと無茶しようぜ」
◆
血と炎とヘドロを巻き散らかし、黒火熊は起き上がった。生命の危機に火力が上がったのか、はたまた聖水の雨が止んで本来の力を発揮しているのか、先程よりも激しい蒸気を上げている。ボコボコ煮たつヘドロが、より一層猛烈な悪臭を放つ。
そんな黒火熊の目が、ターゲットを捉えた。
そんな黒火熊を、ターゲットは見つめ返した。
「あら、困ります。そんなに熱い目で見つめられても」
ハイリーは正直不安だった。作戦が上手くいくかどうかは、自分の役目にかかっているとプレッシャーを感じていた。
しかし、それを相手に悟られてはいけない。言葉は通じなくても、雰囲気で理解できるくらいの知能はありそうだ。
だから威風堂々、勇者らしく。胸を張り、息を吸い、声を張る。
「なんで私ばかりを狙うのかはわかりませんが、そろそろ終わらせましょう?飛び道具なんて使わないで、全力で」
「グルルッ」
「さあ、かかってきなさい!」
「グガァッ!」
ハイリーの言葉に応えるように、黒火熊は真っ直ぐ走り出した。対するハイリーは腰を落とし、拳を引いて構える。
そして衝突する寸前、研ぎ澄まされた神経がハイリーを超人的感覚に引きずり込んだ。
全てがスローになった世界で、ゆっくり迫り来る爪を皮一枚で躱す。鋭い爪先は頬を引っ掻き、痛みが遅れてやって来る。
「ごめんあそばせっ!」
そして鋼拳が、黒火熊の顎にクリーンヒットした。
重い一撃を喰らった黒火熊は脳震盪を起こしたのだろうか、ぐらりぐらりと揺れ立ち尽くす。その場から動かないのを確認して、ハイリーは合図を出した。
ジュリオの背中をベチッと叩き、ダンテは笑う。
「頼んだぞ」
「言われなくとも」
その手からジュリオへ、身体中の魔力を全て余さずかき集め、受け渡す。その魔力はジュリオによって、繊細に正確に紡がれた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■
■■■■■■■■■■■■■■■■■」
流麗な聖歌のような詠唱詩。願いを込めて、組み上げた魔術が空へ打ち上げられる。
2秒、3秒、4秒。
「今だっ!」
5秒。
バケツをひっくり返した、では足りない。
滝のような、もしくは金槌を振り下ろしたかのような。とんでもない量の、聖水の柱。
ジュリオの声に応えダンテは手を離すと同時に、黒火熊の真上から、地を割る勢いの水が降り注いだ。
本来広範囲に長時間降らせるはずの聖水を、詠唱詩をコントロールすることで、瞬間的に一ヶ所に降るよう調節したのだ。
流石にそれだけの水圧には耐えられなかったようで、莫大な聖水に晒された黒火熊の炎は弱まった。
恐ろしい地獄の炎はもういない。
最後の仕上げだ。
ダンテは地を蹴り、全身全霊で、黒火熊の喉へ刃を突き刺す。
すると
突然、聖剣が黄金色に輝きだした。
その光はダンテも、黒火熊も、辺り一帯を柔らかく包み込み、黒火熊を覆っていたヘドロが塵のように消えていく。
そして、ダンテの脳内にある言葉が浮かび上がった。
「真聖宝剣・エルサルト……」
その言葉を発した刹那、光は爆発的に明るくなり、目を開けていられなくなる。
五秒だったのか、一分だったのか。眩しさが収まり再び目を開けたとき、手に握られていた聖剣の姿は変わっていた。
刀身は更に厚く、長く。
放つ光は、より清らかに、鮮やかに。
柄の部分には、七色に輝く乳白色の宝石が埋め込まれている。
突然すぎる出来事に言葉が見つからないまま、ダンテたち三人はただ立ち尽くしていた。
足元に転がる黒火熊の死骸。
安らかにも見える表情のそれに、ダンテは小さく話しかける。
「……終わった、か?」
その声に反応するように聖剣が明滅し、静かに
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