二度目の家出

ゆずりは わかば

第1話 パステルカラーミルクティー

人間は、大きく2つの種類に分けられる。

雨の日に憂鬱になる人と、雨の日に安心する人だ。どちらかといえば彼女は前者で、私は後者だった。彼女は流行のものが好きで、パステルカラーな服を好んだ。私は自分の好きなものが好きで、モノトーンカラーの服を好んで着ていた。

彼女と私が、たった3ヶ月といえど共同生活を送れていたことは、地球が太陽から8分ほどの距離にあるにもかかわらず、炭素系の生物が繁茂する星になったことと同じくらい奇跡だったし、きっと彼女と私が再び共同生活を送るようなことは、もう二度とないだろう。


***


彼女と初めて出会ったのは、歌舞伎町の片隅。ベロベロに酔って、捨て猫みたいに座り込んでいた。その時は私も酔っていたから、どうやって彼女を家に連れてきたか、どうして家に連れてくることにしたのか覚えていない。

ただ一つ。彼女の肩を抱いた時、ほのかにたばこの匂いがしたことは覚えている。


「おねーさんは、どんなふうに生きてるの?」


目が覚めて、最初に彼女が放った言葉に、私はこう答えたのだ。


「夜空に浮かぶ星がどこから来たのか、それを調べているのよ」


「それって、とてもすてきだね」


明るい色の頭を揺らしながら、彼女は、私の眼鏡を見透かした。


「おねーさん、しばらくあたしをここに住ませてくれない?」


そう歳が離れていないはずなのに、彼女はとても幼く見えて。図々しい彼女のお願いも、見知らぬ子供が駄々をこねているところを見る感覚だった。


「別に……いいけど」


見ず知らずの女の子を拾ってきて、一緒に住むことにしたのは何故なのか。もしかしたら、成果の出ない研究に嫌気がさしていたのかもしれない。見知らぬ女の子を拾ってきたという漫画のようなシチュエーションに興奮していたのかもしれない。単純に、人肌寂しかったのかもしれない。いろんな理由を思いつくが、あの時の正確な気持ちを、今は思い出せない。

ともあれ、私は東京の小さな部屋で、彼女と肩を寄せ合って暮らすことにしたのだ。


***


彼女は近くにある高校に通う2年生で、私は近くにある大学に通う院生だった。

彼女は新しいものや流行のものが好きで、よく彼女に引っ張られて、甘い飲み物やキラキラした服を買いに行った。彼女は、お金をかけずに自分を着飾るのがとても上手で、本物によく似た偽ブランド服だったり、小物だったり、食べ物だったり、そういったものの写真をたくさん撮って、自分を自分以上に見せて、『いいね』を集めることに必死だった。


「認めてもらわないとダメなの。友達にシェアしないと、聞いてもらって見てもらって共感してもらわないと、あたしは生きてる感じがしない。だれかとつながってないと、ダメなの」


彼女は、SNSで友達と『繋がって』いた。


「これに載ってる画像とか、投稿した内容とか見れば、だいたいどんな人かわかるよ。直接会わなくても、会えなくても、あたし達はこれで繋がれてるんだ」


メール以外のSNSを利用していない私には、彼女の感覚はとても理解できなかった。


***


あの日、雨が降り始めたので出掛けることにした。薄暗くて気分がのらないとグズつく彼女の手を引いて、アパートから出た。

アパートから歩いて20分。新宿御苑は私にとってオアシスだった。特に、6月のこの時期の平日かつ、雨が降っている時は、誰にも教えたくないほどに完璧な場所になる。


「寒いし帰ろうよぉ。雨降ってる日はどこにも出たくないんだってば」


「たまには私のわがままにも付き合ってよね」


霧のように細かな雨粒が空中を漂い、風に流されて傘に積もった。積もった霞は露となって傘を伝い、雫となって肩に垂れる。

2人を守るには、この薄く透明な屋根は少々小さくて頼りなかった。でも、霧から身を守るためには、2人で肩を寄せ合う他に術はなくて。私の偶然と、彼女の気まぐれ。この2つが合わさって今の状態があるのだと、この状態はそう長く続かないと、この時ふと気付いた。この時、すでに彼女はこれに気付いていたかもしれないし、そんなことは全く考えていなかったかもしれない。


「雨の日なのに公園なの? しかもお金かかるし」


文句を言う彼女の分もお金を払って、中へ入る。普段はまばらにいる人も、雨の日は姿を消す。音も立てずに積もる雨を感じながら、彼女の手を引いて、苑の奥へ進んでいく。

御苑の葉は雨に濡れて、くっきりと青さを見せる。空気に含まれた塵が減るからなのか、植物が水を得て生き返るのか。理由はわからないが、雨の日の御苑は、木々の輪郭がはっきりする気がした。


「実はね、雨の日にしかないものがあるの」


「なにそれ?」


「後でのお楽しみ」


道には、あちこち水たまりができていて、舗装されていない道を歩くたびに、靴に泥が跳ねた。私の白いスニーカーにも、彼女の偽物の革靴にも。

土と、雨と、彼女の匂い。淡い匂いが混ざり合って、溶け合って。あの匂いをもう一度嗅ぐことができたら、そう思うことはしばしばある。でも、彼女がどんなシャンプーを使っていたか、どんなファンデーションを使っていたか、今となってはわからない。


***


「着いたよ」


どこにでもある、なんの変哲も無いベンチ。大きな木々に遮られて、霧もここまではやってこれない。濡れたベンチに厚手のハンカチを敷いて、傘をさしたまま座った。

これ、と私はポケットウォークマンのイヤホンを、片方差し出す。2人で片方ずつイヤホンをつけて、どこを見るわけでもなく、遠くを眺めた。


「音楽は?」


「流さない」


木々から垂れる雫を傘が受け止めて、時折ポツポツと音を立てる。


「音楽は、いつでもかけられるんだよ。かけてもいいし、そのままでも良い。でも、側から見たら私達は音楽を聴いている人に見えるの」


「どういうこと?」


「いつでもできることをやらないっていう優越感を味わうってこと」


「なにそれ」


彼女は笑いながらウォークマンのスイッチを入れた。

イパネマの娘が、軽快に流れる。


「お姉さんは、いつもこんなことをしてるの?」


「いつもしてるわけじゃないよ」


私は、笑いながら答える。


「たまになんとなく不安になった時、こうやってここに来るんだ。夜に眠って朝目が覚めなかったらどうしようとか、急に好きな食べ物が食べられなくなったらどうしようとか」


急に君がいなくなったらどうしようとか。


「お姉さんって、以外と小さいことで悩んでるんだね」


「小さいかな? 未来に対するボンヤリとした不安を言葉にすると、今みたいなことになっちゃうだけだよ。君は感じないの? 未来への不安」


「そりゃ、ちょっとは感じるよ。いつまでもお姉さんと一緒にいて良いのかなとか、まだ大人になってないのに大人みたいな顔して変じゃないかなとか」


「大人みたいな顔してたの?」


「してた」


彼女は子供っぽく、悪戯に笑うと、イヤホンをつけたまま立ち上がった。


「お姉さんは、あたしのこと子供だと思う?」


偽物のブランド品で身を固めて、自分を自分以上に飾って、あやふやな繋がりを求めて。


「子供だと思うよ。17歳は、まだ子供だ」


「お父さんとおんなじこと言った」


傘から出ていく彼女の耳から、イヤホンがぽろりと外れる。


「あたしのお父さんね、結構有名な哲学者なんだよ。本とかいっぱい出して、難しいことを沢山知ってるの。でもあたしはお父さんに比べたら、いや、比べられないくらい不出来でね。でもお父さんは、どれだけあたしが不出来でも、不良でも、優しく見守ってくれた。いつまでも待っててくれて、なんでも怒らずに聞いてくれて、どんなに迷惑かけてもニコニコしてた。わがままだけど、あたしにはそれが耐えられなかった。だから家出したの」


なんだか、急に彼女が遠くなってしまった気がした。このまま彼女の話を最後まで聞いたら、彼女は二度と私の前に姿を現さないんじゃないか。そんな考えが頭をめぐる。


「お姉さんも、お父さんと同じ。ネットの繋がりとは違う。あたしとお姉さんは、もっとしっかりと繋がってる。だから、あたしにはこの繋がりが耐えられない。現実としてくっきりと繋がってて、強くて優しくて、窮屈だよ。あたしは、ネットで薄くなんとなく、楽に繋がっていたい。そんな安いオンナだから」


そんなことない。という言葉は声帯を震わせるには至らずに、胸の内側にストンと転がった。


「これは、二度目の家出だね」


そう言って、彼女は私の前から姿を消した。あの雨の日。柔らかくて、優しい雨の中を軽やかにかけていく彼女が眼に浮かぶ。

あの日、彼女と別れてすぐに、嘘みたいに雨が止んだ。あの日の夜は星が綺麗に見えてら彼女もこの星空を眺めているのかな、なんて思いながら開け放した窓から空を見ていた。


***


あれからもう随分と経ったけど、未だに彼女のことを思い出す。彼女と暮らした狭いアパートを去った今も、雨が降ると御苑に足を運んでいる。

甘い揺れは心の隙間。隙間だらけて噛み合わない、彼女との触れ合いをたまに思い出して、泣きたくなる時もあるけど、私は、今日も未来に対するボンヤリとした不安に立ち向かう。


いつか彼女が愛を感じられるようになった時、収まりきらないほどの愛をあげられるように。

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