第六話 溢れる想いが、雨で流れて

 「おはよう、早苗」

 いつも通りの挨拶に顔を上げた早苗の顔が、一瞬強張った気がした。その後すぐに返ってきた挨拶を受けて、小さな違和感を感じながらいつも通り自分の席へと座る。最近早退も多いのに加え、昨日学校を休んでしまったことに気をもみながら、机の中の教科書を整理しようと数冊手前に引き出した。いつもは左に教科書、右にノートと分けていたにも関わらず、なぜか左右がシャッフルされている机の中身に気付いて手が止まる。

「ねぇ、さな……」

 昨日誰かが席を動かしたりしたのか聞こうと振り返ると、早苗は窓の外をぼーっと見つめていて、まるでどこか遠くの世界へ意識が向いているようだった。私は何もなかったかのように前を向き直り、教室の前方にある時計に目をやった。魔法は、もうすぐ解けるんだろうか。私がかけた呪いから、早苗はもうすぐ開放されるんだろうか。そんな安心とも不安ともとれるような想いが胸をいっぱいにして、それからしばらく早苗の方を向くことはできなかった。

 お昼休みになってから、私はいつもの癖で早苗とお昼ご飯を食べる準備を始めていた。早苗はこないのではないかとふと思ったときにはもう目の前に彼女はいて、名前のわからない感情に自然と顔がほころぶ。笑顔で席の準備をする彼女も私の席に着いて、なんだか久しぶりにこうして向き合った気がした。

「優衣、また傷が……」

 お弁当の包みを広げようとしていた私の左手に、彼女の細い指先がそっと触れる。しっとりと柔らかい熱が私の左手から全身に広がる気がして、すぐに手を引いて顔を逸らした。

「……大丈夫」

 強くなり始めた自分の鼓動に言い聞かせるように、小さな声でそう言った。じめっとしたその空気を変えられたのは、早苗が卵焼きを交換しようと提案してくれたからだった。自然と笑えた自分がいたことに、少し安心した。お弁当を食べながらお互いに美味しいねと笑い合う時間はいつも通りで、もう少しこの時間が続けばいいのにとまた笑った。

「さな先生! 宿題お願いします!」

 ちょうどそんな風に考えていた頃に現れた早苗の友人は、私の想いを知ってか知らずか、半ば強引に早苗を席に誘導してしまった。少ししょんぼりとしていた私に、進んでいく早苗の後ろでその友人は両手を合わせて笑いながら口元を「ごめん」と動かした。きっと彼女が、この先早苗を魔法とは無縁の世界へ連れて行ってくれるのだろうと、そう感じた。

 「優衣、一緒に帰らない?」

 放課後になって早苗に声を掛けられて、一緒に下駄箱へと向かう。靴を履きかえてドアに向かった足を止めたのは、ざーっという雨の音だった。早苗に傘を持っているか聞かれたとき、なぜか脳裏を「ごめん」と笑ったあの女の子がよぎった。

「あー……、今日は持ってきてないや」

 申し訳ないと思った。魔法が弱まっているとはいえ、まだこうして私を帰りに誘う行動をとらせてしまうこと。あの女の子に早苗をとられた気がして小さな嫉妬を感じていること。

「じゃあ、私の傘一緒に入りなよ」

 そう言ってくれることを最初からわかっていて、鞄の中にある折りたたみ傘の存在を口にしなかったこと。私がありがとうとお礼を言って笑うと、早苗もにこりと笑って傘を準備し始めた。空を見上げながら、分かれ道まで降り止まないよう願っていると、早苗が飴玉を差し出してくる。受け取った飴の包みをその場で開いて口に入れると、罪悪感でいっぱいだった体がいちごの甘さで満たされていくようだった。

 玄関を出てすぐに見える狂い桜の妙な咲き方はそこで誰かが亡くなったかららしい、と早苗が話したのは、ちょうど狂い桜が目の前に来たときだった。そういえば先日見たときは麗奈と一緒だったと思い出す。あのときの麗奈を頭に浮かべながら、「そうなんだ」と呟き俯いた。

「優衣、よかったら家まで送るよ」

 そう声をかけられて顔を上げると、早苗との分かれ道にきていたことに気が付いた。もうずっと私と一緒にいる必要ないのに、と断ろうと早苗を見た瞬間、早苗の右肩が濡れているのが見えた。「私のために傘を……」なんて考えが過ったのは一瞬で、私は早苗の右肩から目が離せなくなった。華奢な肩にぴたりと張り付いた濡れたブラウスの向こう側に、彼女の柔らかな肌が見える。この雨に私の鼓動の音は紛れてくれているだろうかと不安になる。もう少し彼女といればその肩に触れることもできるのだろうか、と思ったのと同時に私はこくりと頷いていた。見ているだけで理性が飛びそうな肩から視線を外して早苗と目を合わせる。傘を持つ彼女の左手を上からできる限り優しく握り、そっと彼女の右側へと倒した。

「送ってくれるなら、家までは早苗が濡れないようにして」

 体の熱さが伝わらないうちにと、左手からそっと手を離す。雨でしっとりと濡れた早苗と見つめ合うことに緊張がピークに達して、私は前を見て歩き出した。

――……良くないよね、こんな気持ち

「良くないどころじゃない……、絶対にだめ」

 小さな声は雨に流されて、早苗が横にぴたりと追いつく頃には消えていた。追いついた早苗の左肩が私に触れたときには、どうかこの鼓動が伝わらないようにと願った。

「そういえば優衣、昨日は大丈夫だった? 何か、辛いこととかしんどいこととかあった?」

 触れた肩から伝わる振動は声とぴったりと合っていて緊張したが、どうにか心を落ち着かせる。昨日休んだことを心配してくれた彼女に大丈夫だと返事をすると、彼女も安心したようだった。

 長かった帰り道の終わりへと辿り着いて歩みを止める。私の家を見上げる早苗の横顔と首筋がとても綺麗で、私は耐え切れずに小さく手を振って勢いよく傘を飛び出した。玄関の柵を開けて入り、すぐに閉じる。

「優衣! キーホルダー嬉しかった! ありがと!」

 早苗を見ないようにと玄関まで走った私は、この一瞬で濡れてしまった髪を耳にかけてから振り返った。少し段差を上がった玄関から見える早苗はいつもより小さく見えて、駆け出したせいではない鼓動の強さを押さえようと左手をぐっと胸の真ん中へと押し付けた。気付けば口の中の飴はもうなかった。

「良かった! 絶対早苗に似合うと思って!」

 ルーズリーフに書いたものと全く同じ言葉を言ってしまった、と思った瞬間、早苗はいつもみたいに楽しそうに笑った。良かったと、安心した。この気持ちはまだ早苗にバレていないようだ、と。私の帰宅に気が付いたらしく急に現れたミャアが右肩にすとん、と乗る。

「昨日体調悪そうだったけど安心した。あんまり食べ過ぎちゃだめだよ! じゃあまた明日!」

 早苗がそう言って元きた道を歩いて行くのを目で追いながら、首を傾げて今日の帰り道のやりとりを思い返し、はっとした。

「……色々聞きたいことが出てきたから、とりあえず部屋行こっか」

 右肩のミャアを見てにっこり笑い、逃げ出す前に左手で掴む。じたばたと暴れるミャアを抑えながら、傘の下の二人きりの時間を思い出して少し表情がほころんだ。

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