彼女が読書を拒む理由

クロロニー

彼女が読書を拒む理由

 大病とは無縁な人生かと思いきや、どうもそう上手くはいかないものらしい。

 いわゆる盲腸炎に罹患してからこの数日の間に様々な「初めて」を経験した。初めての救急車、初めての入院、初めての手術――どれも出来れば経験したくはなかったことだが、いざ経験してしまえばそれほど抵抗感もないものだ。過ぎてしまえば全ていい思い出、命があれば勝利である。人類が病に侵され打ち勝ってきたその歴史の重みを、この一身で受け止めた数日間だった。初めてといえば、あの腹痛もある意味初めて――今までに経験したことのないような激痛と言っていいだろう。いい思い出ではないが、貴重な体験だ。あの時の脳裏を駆け巡った生への執着心を、私はしばらく忘れないであろう。

 自分はどちらかと言うと不摂生な方ではあるが、これまで大きな病気になったことはないし、身体は丈夫な方だと思っていたから、勝手に無縁なものだと決めつけていた。私は不死身の生命体などではない、あくまで人間であって、脆い生き物なのだ。いついかなる時も病とは隣り合わせであるし、不摂生なら尚更だ。避けようのない病というのは存在する以上、せめて常に覚悟を持って生きていきたいものだ。そして出来れば避けるための努力はしていたいものだ。

 腹部の手術痕を擦りながら、数か月後には忘れてしまいそうな決意を大事に大事に温める。

 しかし、まあ、なんとも暇なものだ。

 手術が終わってしばらくは両親が付き添ってくれたものだが、共通の趣味があるわけでもなく話題に乏しい。口を開けば大学のことばかり聞いてくるのだが、こちらとしては提供できる話題はあまりなく、心苦しい思いをするのみであった。

 そんな両親も仕事があるため昨日帰って行った。見舞いに訪ねてくる友人はいない。別に友人が存在していないというわけではない。手術に際し隣県の大病院に移ったためであり、テスト期間中というこんな忙しい時にわざわざ来る必要はないと予め断っておいたからだ。

 ともあれ私は必然的に暇になるわけである。ある程度外出が許されるようになり、私は暇つぶしに病院周りを散策するようになる。初めて来る地であり、身体に負担を掛けない程度に歩き回るのは中々楽しいものだ。国道沿いに歩けばコンビニや飲食チェーン店が数メートルおきに並んでいる何の新鮮味もない風景だ。しかし国道から一つ道を逸れてみれば、何に利用されているかわからない芸術的なまでに壁が反り立った小さなビル、ピンクの塗装で屋根が植物の蔦でカツラみたいにびっしり覆われている家屋、レゴブロックを組み合わせたかのような無機質なシルエットのアパート……見たことあるようで見たことない風変わりな建物が所々に発見することができる。それはこの地が特別だからというわけでもなく、目的地なく歩いている今、周りの建物に目を向けてそれを特別なものとして受け入れる余裕が自分の中に生まれているということなのだろう。目的地があったらきっと、目の前を素通りしてしまうに違いない。

 その風変わりの建物の中の一つに、市立図書館があった。

 風変わりと感じたのも、道向かいにより風変わりな外装をした美術館があったからなのかもしれない。その市立図書館は草木で出来た巨大迷路のように四方がびっしりと樹木で覆われ、一辺の中央に人一人が通れるほどの大きさの入口がある。中の建物自体はZ字をしており、入口から入るとそのZの上辺に当たる部分が目の前に現れる。Zの脇の部分には二人掛けのベンチが二組ずつあり、右側の方の一つに老夫婦が仲睦まじそうに座っている。

 樹木が外からの音を遮ってくれるのかひどく静かな感じで、なるほどこれは落ち着いて読書することが出来そうだ。

 私自身読書は結構好きな方で、特に現代のベストセラー小説を好んで読むのだが、読みたい本は大体買ってしまうため図書館とはあまり縁のない人生ではあった。高校生時代の学校の図書室は足繁く利用させてもらったが、こういう図書館というものは似たような感じで利用するものなのだろうか、それとも――

 まあ気になるのなら、入ってみればよい。そう思って図書館に入ってみると突然子供の嬌声が響く。幼稚園くらいの男の子だ。右手に絵本を引っ掴みながら受付カウンターの前を走り去ろうとする。図書館へのイメージとはあまりにもかけ離れていることに面食らっていると、母親がすっ飛んできて男児を抱きかかえながら小声でそれを必死に諫める。すると男児が大声で泣き始めるもので困ったものだ、母親は受付の司書に「すみません、すみません」と平謝りしながら、そして私の方にも一言「すみません」と謝りながら、急いで図書館を出て行った。どうやら午前中に子供向けの絵本読み聞かせのイベントがあったらしい、イベント案内のポスターが受付カウンターの前面に貼り出されている。館内を回ってみるとまだちらほらと子供連れが残っているようで、これから似たような状況が多発するのだろうなと思うと母親の大変さに身が引き締まる思いだ。

 図書館広しと言えど本の分類はされているわけで、自分の関知しない分野に関してはざっと本棚の配置に思いを馳せたり、あるいは時折窓の外の景色を眺めたりするだけであるが、それだけでも新鮮味があって中々楽しい気分にはなるものだ。

 さて、ようやく自分の勝手知ったる分野に差し掛かり、色々とタイトルに目を通していくと、なるほど、人気の作家の作品はやはり歯抜けが多いようだ。新しければ新しいほどその傾向は加速する。まあ、当然の話ではある。残っているのは大体読んだことあるか自分で買って積んでおいてるものばかりなので、ならばいっそと普段あまり読まない類の本――ライト文芸と呼ばれる書籍群――に手を伸ばしてみることにした。そう、こんなのはどうだろうか、『小説家の作り方』、中々惹かれるタイトルだ。一般人が小説家になるまでの軌跡を描いた作品なのだろうか、私自身作家になりたいという思いは微塵もないのだが、しかし誰かが何かを成し遂げる物語にはやはり興味があるし、それがより身近な作家というゴールであればなおさらだ。作家自身の名前もちらほらと耳にすることがあって、皆こぞって高い評価をしていたような覚えがあり、中々期待は持てそうだ。いっそのことこの作家のここにある本全部読んでみようか。とりあえず私は手当たり次第に引き出していく。この図書館は何冊まで一度に借りられるのだろうか。そこまで置いてある著作が多いわけでもないのだが、流石に五冊六冊と借りられるわけではあるまい。まあ借りられない分は棚に戻せばいい話か。

 さて、とりあえず持てる分は貸出受付に持っていくと、借りるのには図書館利用者カードというものが必要らしい。そして図書館利用者カードを作成するにはこの市に在住していることを示す住民票が必要らしい。なるほど、そういうものか。もちろんそういったものは持ってないし、そもそもこの市に在住しているわけではないので諦めるしかない。私は幾分か落胆しながら踵を返そうとすると、受付の司書さんが慌てたように付け加える。

「あ、でも閲覧は自由なので館内でしたらご自由にお読みいただけますよ」

 そりゃあそうだろう、何を当然のことを。そう思ったのも束の間、自分の頭の中に「図書館で読む」という選択肢が存在していなかったことに気付く。これは驚きだ、別にわざわざ病室で読む必要はないじゃないか。読み切れなかったら明日も来ればいい。私はあまりにも単純な選択肢を見逃していたことに腹を抱えて笑い転がりたい気分に駆られた。勿論、公衆の面前でそんな痴態を晒すわけもなく、あくまで脳内で楽しむに留めておく。

 さて、では戻しやすいように先ほどの棚の近くで読もうか。そう思って閲覧スペースを探すと、先客が一人いた。ニット帽を被った中学生くらいの女の子だ。彼女は本を読むわけでもなく、デスクに肘を立てて頬杖を突きながら窓の外を見下ろしていた。外に何があるのだろう、そう思って私も覗いてみると老夫婦がちょっと険悪そうに言い争っているのが見えた。とその時だった。彼女はちらっと私の方を振り返ると、どういうわけかニヤッと笑った。どうだ、面白いだろう? そう言いたげな笑みだった。

 まあ、いいか。少し居心地の悪いような気分になったが、気にせず読書を始める。なにせ時間は有限なのだ。読みたい本を全て読み切るには短すぎる。なら今すぐ始めるべきだ。

 そう思って私が本に取り掛かると、彼女は椅子を逆向きに跨り、私の読書する姿を不躾に眺め始めた。何が面白いのか、にやにやとした笑みを浮かべながら。

 初めのうちは無視してページを手繰っていたのだが、どうにも文字が頭に入ってこない。読んだところから抜け落ちていくので、特に複雑でもないのにページを行ったり来たりしてしまう。

 目の前の彼女は依然としてふやけた笑みを浮かべている。読みたい本がたくさんあるのに集中できないもどかしさ、苛立ち。彼女のしていることが悪いことではなく、あくまで個人の自由の範疇であるのが、なお一層私を苛立たせる。私は荒々しくならないように慎重な手つきで本を閉じると、万感の思いを込めて彼女を睨みつけた。あくまで個人の自由だから「何の用なの? どういうつもり? 用がないなら邪魔しないでくれる?」なんて言葉は決して口には出せないが、ただこれだけで伝わると信じたい。

 そう思っていたのだが、その期待はあっさりと裏切られた。

「あれ、お姉さんどうしたん? 別に本読んでてくれてええんやで?」

 椅子に跨った彼女は不思議そうな顔でそう言い放った。全く伝わっていないらしい。まあ「目は口程に物を言う」とはあっても、本当に目だけで伝わるなら言葉なんて世界に存在していないわけで、私の想定が全く現実に即していなかったのは完全に落ち度である。やはり言葉を交わさなければ人と人は分かり合えない。私はやや自分自身の楽観に呆れながら本を脇によけ、周りに人が居ないことを確認してからはっきりと口に出した。

「あのね、人にじっくり見られていると集中できないことってあるでしょ? 読書ってまさしくそれなの」

 どうやら話の通じない相手ではないらしい。少女は驚いたような顔を浮かべて、

「そうなん? ウチは本読まんからね、それは知らなかった。悪いことしちゃったみたいやね」

 そうは言いつつも止める気配は全くなく、それに対する苛立ちからつい私の悪い癖が出てきてしまう。

「随分と『見る』という行為が好きなようだけど、大して動きのない人間を眺めるのって面白いの? 何か別の理由があるわけ? それともただの暇潰し? こんなに本が並んでる中で一つも手を取らず? 全部既に読んで飽きたって言うなら、それは申し訳ないけど」

 友人はこの悪い癖をよく『疑問マシンガン』と呼ぶ。言い得て妙だ、と私も思う。この癖が出るとき、私は明確に敵意を持っているのだから。

「ううん、別の理由なんてないよ。面白いから見てるだけ。大して動かないって言うたって死んで完全に止まってるわけじゃないんやし。暇潰しって言葉はあんまり好きじゃないんやけど、今この時間を費やしてもいいと思うくらいには『人を眺める』って行為が好きなんよね」

「だからと言って不躾にじろじろと奇異の目を向けるのは――」

 自分でももう何に怒っているのかわからないが、しかしこのなんとも思い通りにいかない反応が私の声を荒らげさせた。

 そう、「自分がどういう場所に居るか」というのを完全に忘れていたのである。

「図書館ではお静かに」

 確かに図書の整理をしていたはずの司書さんは、音一つ立てずに私の背後に立っていた。振り返った私の目には、眉を顰めつつ唇に人差し指を当てる女性の姿があった。

 自分が100%悪いわけではないのに――などという思いもあるにはあったが、しかし自分が全く悪いとも思わず、掠れた声で「すみません」と謝る他なかった。

 しかし彼女との話はこれで終わったわけではなかった。勿論このまま読書に戻ったところで元の木阿弥だ、没入できない読書に私は価値を感じないし、読書だって動機は暇潰しのようなものだ。彼女がなぜそのような行動を取るのか、もし彼女にとって本当に面白いことであるのならば、それを知るのもまた読書と同じくらいの価値はある。

 彼女の方も話をするのは大歓迎といった様子で、とりあえず図書館を出て外で話そうということになった。

 外に出てしばらく木陰のベンチでお互いのことを話し合った。驚くべきことに、実は彼女は私と同じ病院で入院しているとのことだった。しかし彼女は私と違ってかなり長期の入院のようである。もう5年ほど闘病生活を続けているらしい。

「小児がん、なんだって」

 「がん」を冠するその病名は、病気とは縁遠い私でも流石に知っている。その病気の深刻さも、少しはわかっているつもりだ。彼女はまるで他人事のように話すが、そうやって自分の気持ちに一旦の整理をつけるのにどれだけ掛かっただろうか。私には想像もつかない。

「こんなこと聞いていいのかどうかわからないけど、それは今後治る見込みがあるものなの?」

「いきなり核心を突くんやね」

 彼女は苦笑いを浮かべ、それから少し苦しそうに顔を歪めた。

「本当は最初の手術で完璧に切除されるはずだったんやけどね、転移しちゃって、それからは手術と転移の繰り返し。もうこの生活もとっくに飽きてんけどね」

 そんな彼女がどうして病院を抜け出して図書館にいたのかと言うと、どうやら担当の看護婦と喧嘩してしまったらしい。

「まさかウチがこんなところにおるとは思わんやろって」

「本が嫌いなの?」

「別に、嫌いってわけじゃないんやけどね。嫌いなら隠れ先の選択肢にすらなんないよ、こんなとこ。それに文字もちゃんと読めるし。ただ読まないと決めてるってだけ、少なくとも今はね」

「でも図書館に来て本を読まないなんて、ちょっと勿体ない気がするけど」

「勿体無いことなんてなんもないよ。そこに人の営みがある、それを見れるだけで十分ウチには価値がある」

 自分より年下なのに、ここだけは随分と達観した考えだ。やはり人は困難に直面すると一種の悟りを開いてしまうものなのだろうか。

「読書してる姿を見るのが好きっていうのは、読書に対してある種の憧れや敬意があるように私は感じるんだけど、それでも読書を避けるのは中々興味深いというか、理解しがたいというか……。能力的に問題があるわけでもないんでしょ?」

「せやね」

「でも折角ならその理由が聞いてみたい。理由がないならきっかけを聞いてみたい。理由もきっかけもないなら、その信念に行きつくまでのメカニズムを探してみたい。無理強いは勿論出来ないけれど」

「別に大した理由じゃないんだけども」

「あなたにとって大した理由じゃなくとも、私にとっては読書観を揺るがす衝撃的な観点かもしれない」

「笑わないって約束してくれるなら、言ってもええんやけど」

「生理現象に対して確約は出来ないけど、精神性に対する約束なら出来る」

「なんだか信用しづらい言い方やなぁ」

 自分と相手に対して極限まで誠実であろうとするとこういう物言いしか出来ないのが自分の歯がゆいところではある。

「えっと、何から話すべきなんやろ。まず最初に断っておかないといけないことがあるとすれば、ウチはきっと長生きするということ、少なくともウチはそう信じてるってこと」

「長生きって、100歳くらいまで?」

「いや、もっと」

「もっとって、120歳とかそのあたり? あるいは医療の発達傾向から将来的に最長寿命が更に延びて130歳とか140歳とかそのあたり?」

「ううん、そういう規模の話じゃないんよ。もっともっとずっと先、人類が何度も何度も世代交代を繰り返して、徐々にその総数を減らしてそして最後の一人になったそのずっともっと先まで、ウチはそれでもきっと死なない。今まで全ての手術に打ち勝ってきたウチは、きっとそういう風に出来ている。これはそういう話なんだけど、それでも聞きたい?」

 私には話の着地点が全く読めなかったし、簡単に信じられるはずもなかった。だが、だからといってその話が突然無価値なものになるはずはないのだ。たとえ到底ありえないような仮定の話でさえ、彼女がそれを心の底から信じているのであれば、それは意義のある話だ。オーケイ、自分も一旦は信じるとしよう。今の私は自分の世界の真実が知りたいわけじゃなく、彼女の世界における真実が知りたいのだから。

 私が真剣に聞き入っている様子を見て、彼女は少し安心したように顔を綻ばせた。

「ウチだって自分が死なないということを100%の純度で信じてるわけじゃない。だけど、ただ、死んでしまう自分を想定することは、死なない自分を想定することよりも意味がないことだと、ウチは思うんよ。だって、もしいずれ死ぬんだとしたら、ウチという存在はそこで終わり、その先に続かない。『もし死んでしまったら?』それはその時死ぬだけで、想定したところで何も変わらないし、何も備えられない。それよりも『もしうっかり生きてしまったら?』何年も何年も続いてしまったら? その時を想定することで救われることは多分あるし、それならきっと想定する意味があるんよ」

「でも、到底起こりえないことについて想定するというのはやっぱりあまり意味がないように思えるけれど」

「それが到底起こりえないことのように感じるのは仕方ないけれど、逆に言えば、人間の未来に対する想像は、想像として存在している限り起こる可能性は0ではないとウチは思う。この宇宙で経験則として演繹的にいろいろな物理法則が発見されたけれど、ただ次の瞬間までその物理法則が保たれたままであるという保証は誰も出来ない。永遠に続くものだと仮定しているだけに過ぎない。不変で普遍なルールだと信じているに過ぎない。だから物理法則に逆らった現象というのは到底ありえないことのように思えるかもしれないけれど、でもそれを未来として想定するならやっぱり可能性は0ではない、そういう風にウチは思う。全ての未来は可能性として存在している限り、実現する可能性が限りなく0に近かったとしても、それは0ではない、なんて」

 その考えは、偉大な先人達が時には命を賭して解明したこの世界の法則を蔑ろにした考えだし、つまりその偉大な先人達が流した血と汗を無意味だと足蹴にしてその上で自分が正しいと傲慢にも信じているわけだけれど、きっと彼女はそんなことには気がついていないのだろう。まあでもそれは彼女の正しさが誰の上にも立っていないだけで、自分のことを正しいと信じることはきっとそれに反する意見を蔑ろにすることでもあって、そんなものなのかもしれない。

「観念的な話をするのに慣れてへんから、なんか思ったことを100%言葉に出来てるか不安やな。聞いてて退屈やない?」

「ううん、こういう話は、まあまあ慣れてるから。それこそ小説とかでね。今のところはちゃんと伝わってるし、ちゃんとついていけてる。まあ、だからと言って信じてるわけではないのだけれど……」

「まあ、ある意味信じるという話でもないからね。ウチは自分という視点で世界を眺めてるわけで、続いてもらわないと困るし、そうだった時にウチはどうするか、ちゃんと備えられているか、そういう話やから」

「何を備えるの?」

「それが話の肝なんよ。もしウチがずっと生きられるとしたら? まずは100年後に何してる?」

「若返りの技術とかが発達していなければ、きっとよぼよぼのおばあちゃんになってるね」

「とりあえずずっと死なない想定で考えるわけやから、身体機能は衰えないという想定で行こうか。きっと孫とかおって、もしかすると子供の死を経験したりして、まあそれでも周りに知ってる人がおってそれなりに楽しく暮らしているんちゃうかな。じゃあ200年後は? もしかするともう知ってる人は居らんかもしれないけれど、新たに知ってる人が出来たりしてそれなりに変わらず楽しく暮らせているんちゃうかな」

「ずっと生きてる人間ってことで気味悪がられたりするんじゃない? すると誰も寄り付かないかも?」

「まあでも相当意地が悪くならない限り、ちょっとくらい人付き合い出来るんちゃう? 楽観的かな? まあでも別にそれならそれでええんよ。そこに人間がいて、毎日違った変化を与えてくれる、それを外側から見るのだって内側から見るのだって楽しいことには変わりないんやし。まあそういうことで何百年も何千年も人間の盛衰を目にするわけや。そして、もし他に永遠の命を持つ人間が存在しないなら、いずれ人類は滅ぶ。それは人類が愚かだからとかじゃなく、永遠の命という例外を除けばいつか必ず訪れる終焉。その時ウチはきっと一人になる。さあ、何をしようか?」

そう言って彼女は目を瞑った。私もそれに倣って目を瞑って考えてみる。そうだね、私ならきっと――

「まずはきっと色々な思い出に浸る。レコードが擦り切れるみたいに、思い出が完全にぼやけてしまうまで何度も何度も思い出に浸る。楽しかったこと、辛かったこと、人に纏わるすべての思い出を可能な限り思い出して、零れ落ちていく記憶を必死に繋ぎ止めて、そして記憶がどんどん不完全になっていくことに耐えかねて、思い出すのをやめてしまう。――それから多分ウチは学問を始める」そうだ、きっと何千年何万年ぽっち生きていたところで全てを知り得ることはないのだ。「あれだけ面倒くさがっていた勉強をウチは始める。きっと人類史の中で解明されたことを順番に再解明していく。何千年掛けて納得するまで理解に努めて、咀嚼して自分の血肉にして、時間を贅沢に使って知らなかったことを理解する。そして人類史を超えて新事実さえも解明するかもしれない。でもきっとそれにもいずれ飽きてしまう。いずれインプットが尽き、アウトプットも儘ならなくなって考え込む時間が異常に長くなって、ついには理解を諦めてそこできっと終わりにしてしまう。いや、終わりにまではしないかも。でも保留はきっとしてしまう。んで、その保留の間にきっと学問以外のところから慰みが欲しくなる。そこでウチはきっと書物に手を出す。人間の手によって書かれた全ての文章を1センテンスも余さず読み尽くす。それだけの時間は十分にある。なにせ永遠なのだから」

「でも、書物がそれだけ長い時間に耐えるとは思わないけど」

「書物というのは情報の集合体であって、情報を保存する手段さえあれば物質の状態である必要はないんよ。電子書籍がまさにそれに近い。そして近い未来にきっと全ての書物が電子化されて概念化される。ウチはその保存された情報から復元していくだけでいい。学問をある程度修めた後ならそれはきっと可能やと思う。さしずめ電書蒐集家ってところやね」

 ただそれは確かにそうかもしれない。この電子書籍の普及具合からして、少なくとも私が生きているうちにはすべての書籍が電子化され、新しい書籍もすべて電子で発表される時代が来るに違いない。

「まあただそれでも、書物、いや文書は有限や。きっとそれもいずれ尽きてしまう。そしてウチはようやく孤独になる。生の恐怖が始まる。それまで味わわずに済んだ生の恐怖がようやく押し寄せてくる。何も始まらないし何も終わらない、長い長い無変化の時間が訪れる。その時ウチはようやく死ぬ、生きたまま。光の中で生きながら、まるで死んだような長い長い暗闇を経験する。光の中にいたところで、何の変化がなければそれは暗闇にいるのと同じなんや。――いや、実際には微々たる変化があるのかもしれない。でもその変化を知覚するまでの間に経験する長い無変化が、ウチには怖い。だからね、1時間でも長く、1秒でも長く、無変化から遠ざかっていたいんよ。だからウチは今この退屈じゃない間は本を読まない。老後の楽しみに取っておきたい。別に読んでもいいんだけれど、他に一人じゃ出来ないことがある今は、出来るだけ一人じゃないこの時間を堪能したい。ウチはそう思ってる。たとえウチの命が永遠じゃなかったとしても、一人じゃないこの時間を堪能出来てるならきっと悔いはないよ」

 彼女はそう言うと、私の目を見つめながら頬を緩める。命が永遠であることを無邪気に望むその姿は、どこか都合の悪い部分を無視してるような気がして、私は少しばかりの反抗を試みた。

「永遠の孤独が怖いなら、どうして永遠の生を望むの? それこそ永遠の命を題材にした色んな創作品で問われることだし、だからこそ死こそ救済だと結論付けるものも多いわけだけど」

「まあ、確かに永遠の孤独は怖いんよね。でもね、死だって永遠だから。生だって永遠の孤独、死だって永遠の孤独。それだったらウチは永遠の生を享受したい。それにね――常にこの頭の中を当たり前のように支配してる自分の意識が、永遠に失われてしまう、そのことの方がとてもとっても怖い。いや、怖いというよりは気持ち悪いと言った方がええかも。想像してみて、一瞬に凝縮された永遠の無意識を。朝はもう決して来ないのに朝の目覚めを永遠に待ち続ける夢のない睡眠を。意識のないまま意識が戻ることを永遠に待ち続けるのはとても気持ち悪いと思わない?」

 私は想像してみた。それはまるで底の見えない真っ暗な穴を覗き込んで足が竦むような、意識が身体から離れて爪先から頭の先まで感覚が消えるような、そんな奇妙な感覚が去来した。

 痛みとか未来とかそういうことを抜きにして、死に対する生理的な嫌悪がしっかりと頭に刻み込まれていることを自覚した。


********


 死の淵にありながら永遠の命を信じた彼女は、先月の末に帰らぬ人となった。

 自分が退院した後も、彼女の病室に何度かお見舞いに行った。彼女はやはり命が永遠であると信じ続けていた。いや、心の中は恐怖に侵されながら信じるしかなかったのだろう。私も彼女が永遠の命であるかのように信じていたのかもしれない。でも、やはりそんなはずはないのだ。

 無邪気に自分の命を信じた彼女の笑顔を思い出す。

 ああ、ごめんよ。人間はあっけなく死ぬんだ。だから私たちは物語を読む。限られた人生の中で、別の人生も欲張るために。

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