さよならとその音は砕けた
溝口 あお
*
ある日の放課後。美術室の一角
台の上に鎮座した、デッサン用のマルスの石膏像。
一緒に帰ろうとその背中に声を掛けると、像の前に立つ花が此方を振り返った。
「ねえ、ずっと思ってたんだけれど」
マルスのつるりと白くまあるい肩に手を掛けた。
「この人、井戸田先生に似てる」
花は笑いながらそう言った。真っ白で彫りが深くて、石膏像なんてみんな同じ顔に見えるのに。
「井戸田先生そんなにガタイ良く無いよ」
井戸田先生は現文の教師で、歳は30代くらい。先生は少し心配になるくらいひょろりと痩せているから、とてもじゃないけどこんな立派な胸板はしていないし、強そうにも見えない。加えて身体が180センチ以上あって、いつも屈んだりするにも歩くにも色んな事が窮屈そうで、どこか伸び過ぎた身長を持て余している感じに見える。
花はじいっとマルスを見つめていた。
真っ直ぐにこちらを見ず、左斜め下に俯くその白く硬い眼球に自分の顔を映そうとするみたいに顔を傾けると、花の肩まで伸びた、緩くウェーヴのかかった髪が夕陽を受けて亜麻色に光った。
「昔の人って、よくこんな物作ったよねえ」
「作るにしたって大き過ぎるよね」
「大き過ぎて土の中で崩れきれなくて、だから今の時代の人に見つかっちゃった。昔の人も現代まで残るなんて思わなかったんじゃない?」
「そうだろうねえ」
「もしかしたら土に埋めたまま見つけて欲しく無かったかもしれないよね」
「何で?」
「理想の形に作るなんて、もっと美人なら、もっと自分好みの体付きなら、もっと巨乳だったらっていう妄想の産物でしょ」
「それって…」
「要するに、昔の人はこれを見ていやらしい事考えてたんじゃないかなって。春画あれだってエロ本なのに、今じゃ芸術品だもんね」
わたしと同じ14歳の中学生なのに、色々なあれやそれを経験してきた大人みたいな顔だった。周りのクラスメイトなんて、男子は男子同士、女子は女子同士で語り合い下品にけらけら騒ぎ立てるのに、花はそういう事はしない。どこかそういった物事を寂しそうに、憂鬱そうに、何かを諦めたみたいに俯瞰で眺めていた。
花はマルスの首に腕を回した。恋人同士がするそれと同じみたいに。
「ねえみづき、色んなものもこんな風なら良いのにね。静かで、綺麗で、壊れない限りずっと傍にいてくれたら良いのにね」
そしてその硬く冷たい唇に自分の唇を重ねた。
その瞬間の花の顔が何故か、今にも泣き出しそうな顔に見えた。
(この人、井戸田先生に似てる)
ああ、そうか。わたしはこの時悟った。
花は、井戸田先生の事が好きなんだ。
「ねえ、みづき」
唇を離して、花はその首に抱き着いた。マルスの胸板に、花の胸が柔らかく押し潰された。
「井戸田先生、結婚するんだって」
それはもう新学期に入ってから学校中みんなが知っている事だ。先生の左手薬指に真新しいシルバーの指輪が光っているのを見れば、誰だってすぐ気付く。
「誰かのものになっちゃうんだって」
微かに震えて、お菓子やおもちゃを欲しがって愚図る幼い子供みたいな声だった。
「本気で好きだった?」
「うん、好きだった」
「そんな話初めて聞いた」
「そんな話初めてした。秘密にしてたから」
「どんな所を好きになったの」
「わかんない。一目惚れだったもの」
「…残念だったね。結婚なんて」
残念だなんて。掛ける言葉を探して探して、そのくせ出た言葉はそんなものだ。花の表情は髪に隠れて見えなくて、その言葉をどう受け取ったのかは分からない。
「好きなものを自分のそばに置いておきたいって、それは当然の事だと思う。だから好き同士が夫婦になる。でも、そばに置いてあるものは好きなものばかりとは限らない。取るに足らない取替の効くものだって沢山ある。沢山ありすぎる」
花は顔を上げた。泣いていると思っていたその顔はひどく乾いていて、なんの表情も浮かんではいなかった。
「わたしは、先生の好きなものの中に入れて欲しかった。それだけを願ってた」
それなのに言葉全てが、窓越しに降る雨みたいに静かで激しかった。
「花…」
「でも、わたしはただの…先生のラブドールに過ぎなかった」
花のその一言で、にわか雨の後みたいに、余韻を残す不意の静寂がその場の空気を支配した。
「…えっ?」
何を、言ってるの?
ラブドール、と聞いてわたしは訳がわからなくて花の顔を見返した。花はそれに対して説明はしてくれなくて、表情を変えずに黙ったままになってしまった。そして暫くして、理解が及ぶと胸にひやりとした心地がしてはっとした。誰かがそんな話をしていたのを聞いた事がある。それがどんな使われ方をされているものかを考えれば、もう辿り着く答えは決まっていた。でもまさかと打ち消そうとすると、花はそれを見越したのか、わたしが口を開く前にすっぱり言い切った。
「わたしね、あの人の体も味も知ってるの」
花はにこりと笑った。虹みたいに。わたしは逃げ出したい気持ちになった。
「そんな…どうして、花…」
「不潔だと、思った?」
「そうじゃない、そうじゃなくて、何で?先生、相手が居るのに」
「わたしが、誘惑したの」
「誘惑…」
「男の人って、意外と単純で簡単なんだね。性欲擽ってやれば、好きでもない相手とキスもセックスも出来るらしいよ」
ほとんどわたしは泣きそうだった。何でだろう。ただの失恋話なら2人で悲しい気持ちを少しずつ分け合い慰めて終われたはずなのに。
「ねえ、花。これ、誰か大人に言おう。こんなの、わたし達2人だけじゃどうにもならないよ。こんなの、犯罪だよ」
「同意の上だよ。わたしが誘惑したんだから」
「花!」
「先生の不幸なんか欲しくない。絶望の顔も欲しくない。わたしが欲しいのは、先生そのものなの」
でもそれも叶わなくなっちゃった。花はまたマルスを抱いた。力が入り過ぎて、ほとんど首を絞めているみたいだった。
「ねえ、みづき。わたし欲しいもののためなら、今なら何でもできる」
マルスの首がじりじり絞まっていく。腕が、髪の毛が、もう二度と取れなくなりそうに絡まる。
まるでサロメだ。わたしは思い出した。少し前に観に行ったオスカー・ワイルドの戯曲。相手を殺してでも、自分の欲望を叶えようとしたサロメの狂気が花の姿に重なった。どこまでも間違っていて狂っているのに、その目はどこまでも透明で、美しく純粋なのだ。
花はそのまま左右に身体をゆらゆら揺らした。台がその度にキシキシ鳴った。その揺れと音が次第に大きくなって、もう止めなよとわたしは言おうとした。
でもそれより前に、花はマルスと、一緒に身投げするみたいに身体を前へ傾けて、その重さに引き摺られるように床へ倒れた。
あっ、と思った瞬間。篭ったような鈍い破壊音が美術室に響いた。
マルスの破片の中に、花は倒れ込んだまま動かなかった。
「花!」
わたしは弾かれたように花の元に駆け寄った。花は倒れても、腕の中に大切にマルスの顔を抱えている。叫んでも花の応答がなくわたしはいよいよ焦燥に駆られてその身体を激しく揺さぶった。すると、花の身体が細かく震え出した。まるですすり泣くような震えだった。
そんなに悲しかったなら、こんな突拍子も無い事をせず思い切り泣けばよかったのに。
可哀想になって、わたしは花の頭を撫でようとした。
しかし手が触れるその前に、花は顔を此方へ向けた。泣いてなんかいなかった。鼻血を垂らしながら、笑っていた。
「みづき、欲しいものを手に入れるって、こんなに痛い思いをするんだねえ」
花は能天気にそう言ってみせた。もう全部訳がわからないけれど、わたしは兎に角早く花を保健室に連れて行くことしか考えられなかった。
「花、ねえ、もう…」
「ねえ見て。鼻血。それとこれ」
花は左腕を見せた。破片が刺さったのか、5センチくらいの切り傷が出来ていた。自殺志望者の躊躇い傷に似ている。わたしの言葉は、花の心をただひたすらに上滑りしていた。
「わたしはもう、綺麗な体じゃない。汚されて、傷だらけの体のまま将来そんなことも知らない誰かに抱かれる」
鼻血がぽたりと床に落ちた。
「先生の痕跡。欲しかったものを手に入れた」
腕の中のマルスは首から下が砕け、顔は辛うじて無傷だった。花は起き上がり、その顔を両手で持ち上げて、満たされた表情でその唇に口付けた。
わたしはとうとう呆然となって、それを眺めるしかない。
夕陽が沈みかけて薄暗い美術室の中。
恋心を自らの手で殺す儀式。それはひどく静謐で神聖なものに見えた。
何で泣きたくなったのか、分かった。
恋はもっと綺麗なものだと、どこかで信じていた。
終わる瞬間の事など考えずに。
その瞬間なんて存外美しくも無いのだ。
あんな風にぐちゃぐちゃで間抜けなものに成り下がる。
それでも、とわたしは思う。
マルスの砕ける音だけは、美しかった。
終
さよならとその音は砕けた 溝口 あお @aomizoguchi
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