Chp.1: WATCHMEN

 まだ完治していない、うっすらと残った顔の痣に無意識に手が伸びる。勉強で手を動かしている間も、怖いもの見たさ、とでも言うのだろうか、固まったかさぶたを剥がしたくなる様な感覚と似たものを感じた。なかなか治らないなあ、この前見たアクション映画の主人公が終盤でこさえた痣に似てるかも、とか無駄な事を考えてから、ペチンと頬を叩いて集中し直した。

 古い映画が好きだ。今の映画撮影技術では決して見られない試みや挑戦的な技法が幾つもあり、斬新な発想に目が回る。女の子で映画鑑賞が専らの趣味だなんて口にするのは恥ずかしいから止めなさい、とお母さんは言う。小さい頃から言われるものだから、自然と誰かに自分の趣味について口にする事は止めていた。

 それでも、映画を観る事それ自体は決して止めなかった。そんな私を、お母さんは少し心配そうに見ている事も多いけれど、流石に近年では口では何も言わなくなった。尤も、受験シーズンの始まった最近はまたちょくちょくと小言を言うようになったけれど。

 確かに、家でヘッドホンとバイザーを付けて、お菓子や飲み物を摘みながらただ座っているだけの光景は、両親世代の人からは不気味な光景かも知れない。だが、二〇四〇年代の古い映画の紡ぐあの美しさは、最早大スクリーンかヘッドギアセットによる仮想空間での視聴でなければ味わえない。

 何してるの、と呼ばれた気がして、私は宿題をする手を止め、顔を上げた。だが、両親が帰ってくる時間にはまだ早く、日もまだ長い。十秒くらい首を捻っていると、隣からドタバタ、と親子の叫ぶ声が聞こえた。ああお隣か、と合点して、私はついでだからと一息つく事にした。

 レベル1の集合団地では、世帯を隔てる壁も少し薄い。レベル2の団地はまだマシだと級友からは聞くけれど、実際どうだかは分からない。レベル2の団地は、レベル1の世帯数と比べて二倍も開きはないだろう。管理費や維持費、そしてレベル1から2の居住者が国民の七割を占めると統計で出ている現状、大差は無い筈だ。級友には悪いが、恐らく「少しでもいい住まいだと思いたい」という願いを捨て切れない家庭が、そうした表に出ない政策意図に嵌り、無駄な出費を重ねているのだと私は推量している。

 私は赤本を閉じ、席を立ってリビングに向かう。まだ日が出ている内は電気を点けないという我が家のルールに従い、私は西日が強く差し込むリビングの、しかし危うい足元に気を付けながら冷蔵庫まで辿り着く。ディズニー映画キャラのマグネットで冷蔵庫に貼られたメモに目を通し、中に何があるかを確認した。お茶がもう残っていない事が分かったので落胆し、諦めて水道の蛇口を捻った。そうして、口元までグラスを持っていって逡巡する。

 いつか、この水に大気中の成分が吸収されたりはしないだろうか。その時、人類は何を頼りに日々を生きていけばいいのだろう。

 それでも飲まないわけには行かない。私は今日も死を覚悟して、水を一息に飲み干した。そうして、部屋で一番大きな、決して開かない強化ガラスが嵌め込まれた窓まで歩く。地上七十一階という、そう高くない部屋から、私は遠い地平に沈んでいく太陽を、ビルとビルの隙間から覗き込む様に見つめていた。

 日本史で、空調チェンバーが存在しない時代の家屋の構造について学んだ事がある。嘗ての家屋にはベランダと呼ばれる、部屋から外界へとせり出すスペースがあったらしい。寝ぼけた頭で聞いていたから分からないけれど、一体どういう理由で作られたものなんだっけ。ああ、復習しなきゃ。志望校判定考査で出題されるかも知れない。

 と、自室に置いた電子端末が通信を受信した。慌てて戻り、画面を確認する。お母さんからだった。もしもし? と耳に当てて連絡を受けた。

『ああ、秋穂。悪いけど、夕飯作ってくれる? 簡単でいいから』

 お母さんは少し声を張り上げてそう伝えてきた。後ろではアナウンスと人々のざわめきが流れ聞こえてくる。

「いいよ。どうしたの」

『ホームで事故だって。しばらく動きそうにないわ』

「ホームで?」

『爆発して、チェンバーが使えなくなってどうだとか。緊急封鎖されて、途中駅の人が外に出られないって。確か今冷蔵庫にね……』

 我が家の食料備蓄状況について、お母さんは詳細に把握している。何も見ずに、今晩作れそうな料理を独り言の様に話して説明してくるが、私はキッチンのラジオのスイッチを入れ、お母さんの説明を半ば上の空で聞いていた。丁度ニュースで、地下鉄駅出入り口で起きた爆発についての報道をしている。

 詳細はまだ不明だが、空調チェンバーが爆発により損壊し、外気がホーム内に流入する恐れありとして緊急封鎖がされ、推定二百人が当該の駅施設内に閉じ込められたという。両隣の駅へ移動して出る他無いのですぐ再開するだろうが、事実確認を急いでいるとの事だった。

 安全対策を何より優先し、ここ三十年で大きな事故など無かった国内の空調チェンバーで、爆発による破損事故はこれで今月三回目だった。公式発表は何も無いけれど、どうしても第三者の手による妨害工作を疑ってしまう。

 例えば『渚』か、それに影響されたシンパ達。

 生活環境が脅かされているこの現状に、勿論警察も対処している筈だけれど、『渚』メンバー逮捕の報道がされる事は少ない。警察が郊外区画に潜伏する『渚』のアジトを特定して踏み込んだ時には、彼らの多くはその場で自害するのだ。

 自殺に抵抗を見せる人間も勿論居る。だが死を選ばないメンバーは皆、『渚』の中枢に関わる情報は何も知らされていない、まだ入団して日の浅い者だったり、『渚』から構成員としての適性無しと判断されてロクに各支部のチームリーダーにも出会えなかったりする程度の小物でしかない……と噂には聞いている。

 この半世紀、SNSと個人主義の台頭により意見を発信しやすくなったこの時代に、彼らは未だにあらゆるメディアから情報を発信しようとしない。だから、こうして曖昧模糊とした形しか一般市民に伝聞されない状況では、実際のところ、彼らが国から反社会的組織として暴力団に準じる扱いをされたテロ組織である、と言われてもピンと来ない。特に私達みたいな、学校という狭い限られた社会で活動を続けてきた少年少女にとっては。

 だが私にとって、『渚』は確かに存在していると強く認識出来る組織だった。

 ネットで新作映画公開の情報や公開スケジュールをチェックして、私の敬愛する監督の新作映画が急遽公開されると知り、三年前の私は小躍りして喜んだ。高校受験を目前にしたストレスからのリフレッシュの為だった。だがその映画は極小規模の少数館上映で、自宅や学校の最寄り駅からは電車で三十分以上掛けなければ行けない距離。余程の用事が無ければ、空調システムのある屋内に篭り外出を控えたい、という世間一般の常識など何処吹く風で、映画バカの私はわざわざ遠くの街まで足を運んだ。

 そこで、私はテロリズムを見た。

 その地区の市長が、確か企業との連携協定を公表し、官民の垣根を超えた新しい行政と研究開発の在り方を唱えていた、そんな演説だったと思う。興奮して早く到着し過ぎた私は、嘗て人も多かったという旧東京中心部最大規模の公園に足を運び、時間を潰しながら散歩をしていた。少し離れたところで、わざわざ業務提携先のマスクをアピールする為に屋外でそこそこ大きめの規模の演説をしていたのだ。マスクの吸水口からストローでジュースを飲んでいた私は、その光景をボーッと見ていたのだけれど。

 そんな私の見ている数十メートル先で、少女と市長の体は爆散した。

 何が起きたのか分からず、ただ阿鼻叫喚がこだまする公園で、メディアや聴衆はパニックに陥り、ただ逃げ惑っていた。私は突然の一方的な虐殺と破壊に恐れをなし、足がすくんでベンチから立ち上がれず、そして目の前の光景から目を離せずに、ただ震えていた。

 その日の夕方、映画を観る気にもなれず憔悴して帰宅した私はニュースを見て、爆発の原因が花束に仕込まれた二百グラムのプラスチック爆弾であった事、事件を起こしたのが反社会的組織『渚』であった事、『渚』の活動理念の概要、そして花束を渡したのは公園に来ていた親とはぐれてしまった、事件とは何の関係も無い少女であった事を知った。

 例え『渚』の活動理念や信条を知っても、私が心に抱いた感情は怒りと、そして悲しみだけだった。どれだけ彼らがご大層なお題目を唱えても、それは人を殺す犯罪行為に相違無い。罪の無い、関係の無い人間の命を犠牲にして叶える理想が長続きする筈など、あってたまるか。

 そう思っているのは、しかし身近には私以外に居なかった。

 その翌日の学校では当然、日本で爆弾テロが起きたという事に対する興奮と高揚、そしてその感情を煽り立てる流言飛語のオンパレードが起こる。SNSでは被害を案じ、脅威に対する不安を情感たっぷりに吐露する一方で、現実では友達との間で、どれくらい人が死んだのか、どんな爆発だったのか、テロを起こした『渚』に興味を持ち、一部生徒は「自分達が出来ない事をやった人達」などという感覚を抱いて尊敬の念を口にしたりなどする始末だ。

 皆、笑顔で楽しそうに、何人死んだのか、怪我をしたのか、自分の想像がさも事実であるかの様に振りまき、現実を誇張させていく。

 でも私は、どれだけ脚色された彼ら彼女らの作り話も、目の前で起きた現実の脅威や恐怖を表すには力不足に過ぎた。

 言ってやりたかった。どれだけ凄惨だったか。どれだけ恐ろしかったか。どれだけ悲しかったか。

 でも、私は嘘をついた。その他大勢の友達や級友と同じ様に、死んだ人間を嘲笑い、爆弾テロに興奮した素振りをし、そしてみんなの意見に自分を合わせる。「実際に人が弾けるトコ見たかったね」と笑う彼女達に、笑って同調する振りをする。

 ……SNSで、友達のアカウントは全て紐付けされている。誰かが何かの発言をすれば、その発言や情報の拡散に応じた対応が成される。同調を集める発言があれば瞬く間に意識と理念は共有され、和を乱すものを一人が指摘すれば、瞬く間に炎上、尾ひれをつけて拡散され、ネット上でも現実世界でも、翌日には謝罪を求められる。

 私もそんなネット社会に生きる一人に過ぎなかった。

 みんな、口には出さないけれど裏のアカウントを持っている。何人かの裏アカウントは特定しているものの、それが本人のものである確証は無いから、誰も見て見ぬ振りをする。だけど一度本人のものと確実に証明されてしまえば、翌日からその生徒は現実世界で執拗な排斥行為を受ける事となるのだ。

 誰も、人と違う意見を言えなくなっていた。発言の皮切りは、もうクラスや学年で決まった人間しかしない。自ら率先して動き、皆を先導し、それで嫌味を感じさせない、ムードメイカーやリーダー気質の生徒達がそうだ。

 違う意見を発言して議論を重ねていくなんてもっての外。例えそれがどんな正論でも、倫理や道徳に沿った真っ当な意見でも、少数派は糾弾され、そして居場所を無くす。

 私は、女の子らしくない映画趣味も私生活の不満も、現実の友達と相互に支持しているアカウントで発言する事が出来ない。「いいね」を押される回数もクラスでかなり少ない方で、そんな人間の発言力など無いに等しい。学校や私生活の関係者が誰も知らない裏アカウントで大好きな映画、俳優、女優、役者、監督、映画界の情報、新作ニュース……そんな映画関係のクラスタに所属し、そっちで自分の本音を吐き出している。

 一体、自分は誰なのだろう。

 本音を言えない現実の自分。素顔も素性も一切を隠した本音しか言わない自分。

 私を知るのは、家族と私自身だけだ。

 長谷川秋穂という私の本質は、毒の大気で満たされた外の世界の、一体何処にあるのだろうか。

 ……いや、もう一人、私の本音を吐露出来る相手が居た。

 大川美里、その人である。



 俺が目の前の男の言葉に従う様になったのはいつの頃からだっただろうか。

 海外への再利用品として横流しされる予定だった空調チェンバーをかっぱらい、ひび割れや隙間を可能な限り埋めたこの薄暗い廃墟と化した地下駐車場のアジト入り口に隠れる様に設置し、人知れず活動を続ける俺達『渚』の指導者は、静かに俺達を見つめていた。

 ワンフロアの車両収容台数約百台の駐車場、その地下三階。老朽化した壁や柱に支えられたそのフロアの一角で、俺達は雁首揃えて彼を注視していた。

「残念ながら僕らの要求を、彼らは聞き入れなかった。僕らの理想を彼らは拒絶した」

 静かにそいつ、雨宮・アンバー・達也はそう言った。浅黒い地肌の中で輝く緑の瞳は、自然と彼の話と言葉に耳を傾けさせる魔力を放っている。きっと俺も、あの緑の炎に焦がれてしまったのだろう。雨宮は続ける。

「君達の中で、今すぐこの愚かしい連中に一泡拭かせようと勇む者も多いと思う。でも僕は、今回は静観しろと指示をした。……何故だか分かりますか?」

 誰も答えない。答えられないのではなく、雨宮の発する言葉を誰も遮り、自分の言葉で汚したくなかったのである。俺も同じ気持ちだったし、だからこそ、皆がそうであると手に取る様に分かった。

 しばしの沈黙の後、雨宮は口を開いた。「彼らは自然に抗い、自然の摂理に従う事を拒否し続けている。三年前の警告さえも無視し、寧ろ頑なになってその理念を追い求めようとしている様だ。だからこそ、どんな手段を用いて彼らがこの星で生き抜こうと画策するのか、しかと見届ける必要があると考えました」

 肝要な部分の口調を変えて話し、相手にその部分を印象付ける。単純な手だが、深い思考をする事を放棄してしまったこの掃き溜めの住人に、その効果は覿面だ。殆どの『渚』メンバーは雨宮の発言に酔い、恍惚とした表情を浮かべる者さえ居た。

「なればこそ、今日は皆さんと、企業提携の発表を見届けたく思います」

 言い終わると、傍に立っていた若い男が急いで台車を押し、雨宮のすぐ隣、俺達観衆から良く見える位置に、台車に乗ったテレビの電源を入れた。ザワザワ、とメンバー達の興奮冷めやらぬ声がそこかしこから漏れ聞こえるが、それもすぐに終わってしまった。俺は腕時計で時間を確認する。午後三時。もうそろそろだろう。

 テレビに映し出されたのは、生中継の映像だった。前回の俺達の警告が再びあると警戒しての事だろう、今度は屋内での放送だ。テロップによると、場所はフジカズの旧東京支社広報会場との事だ。恐らく入館に際しての警備も厳重で、プレスリリース関係者以外の入場も禁じられているに違い無い。あの事件があった所為か、関係者の顔は何処か精彩を欠いていた。緊張に強張ってもいる。

 下らないリポーターの簡単なレポが終わり、フジカズの幹部らしい三十台後半の男と、三年前死亡した前知事の後釜に座った新知事が登壇した。幹部が、簡単な挨拶を済ませた後で本題に入る。

『本日、こうして皆様にお集まり頂いたのは他でもありません。長年世間を騒がせているテロ組織により命を奪われた大林前市長の掲げた、研究職、開発職、そして芸術分野で活動をする芸術家といった、技術職に就く人々の労働環境や資金援助等を目的とした条例とその理念に基づき、それを政策へと推し進めて下さった、市役所、区役所の皆様方の成果の一つを、この場で広く周知して頂きたいと強く願った為です』

 厳粛で立派なお題目を唱える男の言葉に、中継会場はカメラのシャッター音以外は静寂に包まれる。だがその中継を見る俺達の中からは、所々でバカにした様な鼻息や笑い声が聞こえる。ああ、そうとも。人間が変えてしまった自然環境により淘汰された俺達人類が、技術力で尚も繁栄を続けようとする。その行為を肯定する事自体が滑稽極まりないのだ。

 そんな俺達の正論など知る由も無く、男は愚かしくも言葉を紡いだ。

『複数企業による合同研究、政府からの資金援助額の引き上げにより、我々は一年前より遥かに優れた技術を研鑽する事が出来ました。取りもなおさず、我々フジカズコーポレーションが主体となって、そして大気局と合同で取り組んでいる事業……大気中の毒素の中和・若しくは消滅についての研究開発と対策製品の販売についてです。世界の大気が変異して半世紀が経過し、我々は長年研究を重ねてきました。……本来であれば、この大気の中和或いは消滅についての成果を公表出来る事が人類の望みでありましょうが、今回公表致しますのは、それに対しての答えではありません』

 その言葉と同時に、会場の空気が弛緩し、落胆するのがテレビ画面越しにも伝わってきた。途端に、俺達は堪え切れなくなって大笑いした。

 一体、これ程のメディアを呼び込んで何を発表するかと思えば! 警告を聞き入れなかった愚かな行政が、自分達が心底間抜けであるという事を世間に広めただけではないか。見ろ、あの雨宮でさえクスクスと笑っている!

 そんな呆れ果てた俺達や肩を落とした報道陣を前にして、男は静かに、しかしよく通る声で言葉を続けた。


『この度我々は、大気と共生する技術についての成果を、発表致します』


 瞬間、水を打った様に駐車場の中が静まり返る。皆、自分の耳を疑った。この老いぼれは何を言っているのだ?

『我々の研究は、ガスマスクやその吸収缶、空調チェンバー、住居用建造物の密閉性の向上、酸素の効率的生産方法など、メディカル技術、メカニカル技術の発展に集約しており、バイオテクノロジーの研究を疎かにしておりました。これを反省し、研究レベルや費用の増強を機に、我々はより視野を広げ、大気そのものの研究を加速度的に推し進める事に成功したのです。人類がその生息域を拡大出来た最たる技術である、「環境を自分達の最適なものへと作り変える」というこれまでの文明スタイルを、「我々自身を環境に適した肉体へと作り変える」という逆転の発想に至りました。……ホモ・サピエンスのゲノムを、世代交代無しに作り変える技術開発とアイデアは二十年前からありましたが、実用化一歩手前の段階にまで技術は進んでいるのです』

 幹部の男は、しっかとメディアを見据えてそう明朗に答えた。それまで一言も発さずにじっと静聴していたメディアが、次第にざわめきを見せた。伝播するその動揺にも構わずに、男は話を続けた。『非常にセンシティブな問題の為、試作品第一号の完成以降も三ヶ月近く、発表をせず研究を重ねてまいりました。マウスへの投与実験では現在、九十九パーセントの確率で遺伝子変化に成功しています。マスクや濾過装置無しで試験薬を投与したマウスを屋外に出した結果、彼らは最低一日三時間、最長八時間を生き延びました。チンパンジーに同様のテストをし、同様の成果を確認しております。そこで次は我々ホモ・サピエンスを被験対象とした実地テストを試みるにあたり、広く治験希望者を……』

 ざわめきが混乱に変わり、報道会場の混乱した空気がテレビ越しにも伝わってくる。

 展望は、具体的なデータは、人権は、倫理は、道徳は、安全性は……

 普段律儀に質疑応答の時間に順番に質問をするメディアが、霰も無く騒ぎ出した。そうした単語が飛び交い出した瞬間、テレビは強制的にスタジオへと戻り、動揺を隠し切れていないキャスターやコメンテーターの顔を映し出す。

 それは、俺達も同じだった。

 無論、俺ら『渚』が掲げる理念と正反対を行く今回のプレスリリースに、皆が、そして雨宮が黙っているわけが無かった。彼はいつに無く険しい顔をして、テレビの電源を切った後に俺達に向き合い、言った。ランタンの灯りが、彼の横顔に濃い陰影を作り出していた。

「これは、単純な僕らへの抵抗宣言ではない。かくあるべしと定めた大自然と、この星が定めた筈の運命に対する侮辱だ」

 俺達は、彼の言葉にこそ傾注した。彼の言葉が、広く暗い地下駐車場に響き渡る。

「生きるも死ぬも、自然のなすがままに」



 私がこうして世間から騒がれる様になったのは、いつのタイミングの頃からだろうか。ただ、親父やお袋と同じ様に生活し、働き、生きてきただけなのに。今では、一部の人間は私を生き神様だなどと持て囃そうとする始末だ。

 そもそも、私がまだ子供……つまりはまだ十歳かそこらだった頃、六十二歳まで生きる大人などというのは珍しくもなんともなかった。その歳で足腰曲がらずしゃんと立って歩く事さえ出来ていればまあ、お若いですね、と言われるかどうか、という程度のものだろう。

 六十歳を過ぎたこの老人が社会に貢献出来る事など何一つありはしない。時々メディアのインタビューや取材の依頼が来る程度であり、それが社会貢献に役立っているかと言えば疑わしい。ごく普通の一般市民であれば受けられない社会援助や生活環境が少し優遇されるだけで、寧ろそれは多くの者からすれば妬ましく、そして嫌味に捉えられかねない。

 事実、娘である瑞希は独り身となってしまった現状故に、私の世話を余儀無くされている様なものだった。

 四十を過ぎて足に痺れが来る様になってから、私は医者をこれでもかと質問責めにし、自分でも多くの事を調べた。それによると、症例自体は少ないが、現在の地球上の大気に対してその殆どを高性能防塵マスク……いわゆるガスマスクで遮断は出来るものの、それでも僅かに吸引されるものや毛穴から吸入される外気に至っては、完全な対策を講じるのは困難だとの事が分かった。全身防護用の防毒スーツを購入・外出時に常時装備していれば話は別だというが、現在一般家庭で販売されるそれはレベル3の集合住宅区に住める程の富裕層でなければ、金銭的にも手段的にも不可能に近いと言われる現在、その解決方法は極めて難しい。

 脚が動かなくなり車椅子の生活を始めた五十より以降、私の免疫力は加速度的に下がった。介護の無い一人暮らしが難しくなり、友達の誕生日を祝うよりも葬式に行く回数が遥かに多くなった頃、瑞希が出戻りして来た。だが、あの子が再び家族として暮らしてくれる事で生活が楽になったかと言えば、そうではない。

 私の世代が幼少の砌から、世間では年金制度が事実上崩壊し、その結果現在貰える年金月額では、一週間をまともに生活する事も不可能な生活であった。私の場合そこに辛うじて、四十八歳以上の法的に定義される高高齢者専用の援助費用も適合されていたのだが、瑞希が戻って来た事で世帯収入が増えたと判断され、支給は打ち切られた。

 瑞希一人の収入で、要介護の老人と二人暮らし。しかも彼女ももう四十を目前としており、本来であれば楽に働ける頃合いでは無い筈だ。だが、健康上の問題が無い事を理由に生活保護は認められない。

「瑞希」

 私は、久し振りの休日に家でくつろぐ娘を呼んだ。小じわの目立ち始めた細い顔が私を見る。ニコリと笑い、彼女は腰を上げようとしたのでそれを手で制する。「ああ、いや。外の天気はどうかなと思ってな」

 私の目は光に弱くなった為、昼間でも寝床はカーテンを引いたままだ。瑞希は刺繍の手を止めて、リビングの明り取りの窓を見やり、答える。

「いいみたいだけど、外出は……」

 ここ最近、やたらと散歩に出たがる私に、不安そうな顔をした。私の体を気遣っているのだろうか、それとも自分が私の車椅子を押さなければならない事を嫌っているのか。どちらでもいい。娘に迷惑を掛けるつもりなど無い。

「ううん。『屋上』でゆっくりしようかと思ってただけさ」

「一緒に……」

「いい、いい」

 私は丁重に断り、すっかり弱った両腕で何とか体を動かし、ベッド脇の車椅子に腰を下ろす。正直な話、一日の内でこれが最もハードな運動だ。車椅子のリモコンを操作して、リビングに出る。格別広いわけではないし、車椅子では正直不便な点も多い間取りだったが、私達に引越しをするだけの余裕は無い。体力的にも、経済的にも。

 最近、一層瑞希の目のクマが濃くなった気がする。白髪も、去年より確実に増えた。出戻って来た十二年前に比べれば、あれだけ瑞々しかった肌や髪も、今はカサカサだ。当時であればまだバツイチでも嫁の貰い手は幾らもあっただろうに。

 私が、娘の未来を奪い去ってしまっていた。

 何か買い与えるだけでもしてやりたい。だが財布を気にする瑞希にそれは却って無礼になる。私は胸の内にもやもやとした気持ちを抱えながら、非常用のマスクを膝の上に置いて一人、家の玄関を出る。

 レベル2住居区画は、レベル1よりも比較的優遇されている。居住区内に入る為のチェンバーは東西南北に一箇所ずつあるし、区画内でペットを飼っても余剰分を生産出来るだけの大気生成器を常設・管理出来る。レベル1に居た頃……高校を出て就職したての数年間は、月末の建物内残存酸素供給量限度がいつ限界になってしまうかとビクビクしていたものだ。尤も、当時はまだ各住居棟の気密性が完璧ではなかった時代だから、無理の無い話かも知れない。まだ、外気を完全に遮断する技術が未熟で、毎年全国で数千人単位が屋内での防毒不完全で死人を出していた時代だ。

 レバーを操作し、四十メートル程離れたエレベーターホールまでゆっくりと進む。途中、何人か犬を散歩させている住民に出会うと、彼らは皆一様に私に会釈をした。私は彼らの事を知らないし、特に日常生活で関わりを持っているわけでもない。だが、向こうは私を知っている。

 ちょっとだけ居心地の悪さを感じるも、当たり障りの無い笑顔と会釈で皆をやり過ごした。そうしてエレベーターに乗り込んで、私は屋上、百六十五階を目指す。165、とテンキーのボタンを押し、長い長い旅路に身を委ねた。その間、エレベーター箱のドアの向かいに広がる、ガラス越しの広い世界に目をやった。この住居棟は、私が政府から生活を少しだけ支援されているだけあって同じレベル2の住居区画と比べても居住快適性は良質な方で、建物の高さもこの辺りだと二番目を誇る。そんな高階層から眺める外界は、墓標か卒塔婆の様に百階を超える住居棟が点在しているのが見て取れた。三キロ程先に見える巨大な居住棟は、レベル3の住居区画だろう。

 子供の頃は、まさか東京のそこかしこにこの様な巨大建造物が立ち並ぶとは夢にも思わなかった。辛うじて夢物語として空想していた未来都市図がこれに近い様な気はするが、それは都市全体の生活レベルが平等に引き上げられた事を前提とした上で妄想していた光景だったのだと、今は思い知らされる。

 現実は、五十年近く前に急ピッチで建造せざるを得なかった、機密性こそが最優先に求められるコンクリート製の檻に人々を収容する事しか出来ない、荒廃した世界だった。

 住居区画を始めとする商業施設も、そうしたコンクリートの巨大な檻に収容された形でしか存在出来ない。各店舗毎に空調チェンバーを設けても、店は維持費と営業環境変更の為の莫大な投資を余儀無くされるのだ。そう言えば私が小学校を卒業してからは、外気の存在する場所で買い食いをした覚えは無い。車椅子で行動に制限が掛かってからは行かなくなってしまったが、丁度その頃になって建物と建物を地下で結ぶトンネルが徐々に開通し始め、商店が改めてそのトンネル内に門を構える事となったらしいが。

 今度、迷惑じゃなければ瑞希を誘って買い物にでも行こう。そう考えて少し年甲斐も無くワクワクしたが、それを彼女が喜ぶだろうか。迷い、嘆息する。

 そうこうしている間にエレベーターは屋上に到着し、扉が開く。そこは、強化ガラス製の天井張りがされた、植物園を兼ねた公園だった。私は一つ深く呼吸をし、車椅子のレバーを倒して前進する。

 植物は、私からして見ればさりとて珍しいものがあるわけではない。だが『大災厄』以降地球上の二酸化炭素を酸素へと変換する機構を持つこの生物が、私より下の世代の者にとっては得体の知れない怪物にさえ見える、という者も居るとか居ないとか。

 少なくとも私が見回す範囲に、室内温風器で揺れる椿の葉に怯える様な臆病な客は居なかった。そう言えば瑞希がまだ小さい頃、私が小学校低学年の時分に、「これは自然と人間と、まあまあ上手く共生していたんだよ」と口にしたところ、彼女は苦虫を噛み潰した様な顔をして(この表現も皆知らなくなった)、どくを作るわるいやつなんでしょ、と身も蓋も無い事を言った事がある。その後笑いながら、植物はするべき事をしているだけだよ、と答えた覚えがあった。だが困った事に、中学に入って少し経つまで、私の教えを信じてくれなかったのである。

 まあ、人間、興味を持たない事に関しては、誰しも懐疑的だったり不信感丸出しだったりするので、むべからぬ事ではあるが。

 大気が人類を攻撃するようになってからの防護手段は、密閉空間と酸素の生成、そしてガスマスクだけだった。この三点の技術開発をひたすらに研磨してきたのが、『大災厄』の始まりごろから十年間における人類最大の躍進と言って過言ではないだろう。

 一ヘクタールの占有面積を誇るこの植物公園にこの時間から居る者は、大抵この住居棟の古株だ。四十台を中心とした『年配』が大多数である。百六十五階という最も雲に近いこの場所で皆、光合成で循環させている汚染されていない普通の大気を、肺の奥底まで染み渡らせようとやってくるのだ。

 車椅子をしばらく進め、園内の中心部に近い開けた場所に来た。園児を連れた母親が、子供と共に笑っている。私は屋根付きの休憩スペースまで行き、そこで一息ついた。改めて背もたれに体を預け、静かに親子を見つめていた。子供はゴムボールを投げながら楽しそうな悲鳴を上げていた。

 私が中学に上がる、まだ大気の汚染が騒がれ始めでマスクも必要では無かった時分、既にこの光景は珍しいものだったが。ちょっとでも子供が騒げば、自分の生活環境の保持に躍起になる近隣住民が声を上げ、子供のこの明るい声を騒音だと文句を言うケースが極めて多かった為だ。まだ六十歳以上の高齢者の人口が圧倒的に多く投票率も高い為、彼らの意見を聞かなければならない自治体や市役所が彼らにおもねる行政をする必要があった。

 そう考えれば、老人が殆ど居なくなったこの世界は或る意味、これからを担う世代に必要な環境なのかも知れない。と、そこまで考えて疑問に思う。

 緩やかに世界人口が衰退しているこの星に生きる我々に、残された未来など如何程もあるだろうか。私は視線を落とし、自分の膝の上に置かれた全面体のガスマスクを見る。ファッション性を廃した実用性重視のデザインは、ただ無気力に佇む老人の様にも、死期の迫った私の一挙手一投足の変化を見逃すまいとする監視人の様な気さえする。

 これは私のデスマスクなのだと、思い知らされた。



 私はただ、首を縦に振るだけだ。

 自分の意見をちゃんと口にする事は許されない。そうすればきっと、今まで目の前で笑いあっているこの友達は一瞬にしてその笑顔を取り去って、気のふれた相手を見る様に見下げ、そして私の居場所を取り上げる。たとえ反対意見でも様々な意見を取り入れて視野を広めようなどという寛容さは、普通高校生が気にする気遣いではない。ただ、自分達が生活しやすい環境を作る為に一番効率的で時間の掛からない、排斥・執拗な徹底攻撃という形を取る。

 そうして自分の環境を「改善」してきた実例を、私は嫌と言う程見てきた。もとい、私だけじゃない。十七、八年を行きてきた私達は如実にその実態を目の当たりにし、そして日々恐れているのだ。自分が誰かに嫌われていないかを。そして、自分の身が危うくなったら立場の弱い者から彼らを犠牲にしていくその状況に転じる事に、何よりの安堵感を覚える。

 もう、今私達が何の話題で盛り上がっているのか、まるで覚えていない。いつの間にやら話はあちらこちらへと脱線し、『楽しい』話題に夢中になる振りをする。

 自分だけは、と誰しも思う。敵を作るまいとし、そして弱者を一緒になって責める事で共犯関係を作り出して仲間意識を深める事に、私は強くストレスを感じていた。勿論、そんな事を誰に話せるわけでもない。

 そして、そんな愚痴を聞かされる方もストレスになる事だろう。

 ちょっと不満があれば、すぐに口に出してストレスを解消する。その繰り返しが、私達の年代。それは受験生であっても変わらない法則だった。

 昼休みは、あっという間に過ぎていく。盛り上がっていた話も少し退屈になって、私は引き寄せていた椅子をちょっと傾けながら、夏も近付いてきた陽気な天気に眠気を誘われ、一つ欠伸と共に伸びをした。「オッサンくさいー」とクラスメイトにからかわれながら、私は苦笑いする。と、傾けた椅子が背後の机にカタンと当たり、止まる。

 振り返ると、私が引き寄せた椅子の主、大川美里の机に当たっていた。

「今日で何日目だっけ」

「一週間くらいかな」

 美里ちゃんは、都合一週間くらい学校に来ていない。仕事が忙しいのだろう。良く見ると、机の上に埃がうっすらと積もっている。後で掃除をしなければ。

「大川さん、凄いよね。最近一気に人気上がってんじゃん」

「ようやく認められたんだよね、きっと」

「陰から応援してた甲斐があるわー!」

 皆、美里ちゃんを褒め称え、その成功を喜び分かち合う。皆が笑顔でそう話し合っていたが、こればかりは、彼女達の様に大きな声を上げて笑う事が出来なかった。彼女達は、三ヶ月前まで目立った役に出ずテレビにも出られなかった美里ちゃんに苦言を呈し、女優としての苦労を知りもせず、ただ美里ちゃんに「才能が無い」と無責任に陰口を叩いていた事を、私は知っている。

 私だけじゃない。きっと美里ちゃん以外の誰もが知っているし、そして誰もが、彼女を嘲る言葉を口にした。或る者は自主的に、或る者は私同様、流れに逆らう事が出来ずに同調して。

 だから私は……笑みを引きつらせながら突如彼女との会話から意識を離した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

 昼休みが終わり、移動教室の準備をしようとしたところで端末に通知連絡があった。メッセージを確認すると、送り主は美里ちゃんだった。

『放課後、地下モールで遊ぼ』

 私は教科書と筆箱を抱えながら教室を出て、高速で画面をタップし、返信する。

『いいけど、撮影は?』

『今日は上がり。五時間超えちゃう』

 主語が足りないが、恐らく外気滞在時間の話だろう。未成年は防毒マスク、あるいはオールワンの防護服を身に付けていても、一日の屋外待機時間が五時間以内でなければならないという法律を守らなければならない。違反すれば学校を通しての厳重勧告があるし、何より内申に響く。美里ちゃんにはあまり関係の無い話だろうけれど。

 忙しくないのであればと、私は快諾した。やった、という可愛いステッカーがメッセージウィンドウに現れる。ふふっ、と微笑んで、私は端末をポーチに仕舞った。



 ホームルームが終わり、私はロッカーから自分の半面マスクを取って教室を出る。ピンクのカラースプレーで装飾されたマスクは、屋内で何度もぶつけた所為で色が禿げ始めている。塗装し直す必要があるだろう。そんな事を考えながら靴を履き替え、マスクを装着した。三つある空調チェンバーに生徒がそれぞれ二十人程入り、チェンバーの扉が閉じる。お決まりのアナウンスにじっと耐え、多くの生徒は友達とお喋りをして時間を潰していた。

 ランプが緑になり、屋外へ続く扉が開く。私達はぞろぞろと、満員電車から降りる乗客よろしく屋外へと身を投じる。暖かい陽気ではあったが天候は雨で、不要不急の外出は控えたいところだ。だが、私達「年頃の」中高生がこんな事で外出を控える筈も無く、多くが同じ方向へ、同じ場所を目的地として歩き出す。私達のこの学校の近くで娯楽と言えば、地下モールくらいしかないのだ。

 死んだお祖父ちゃんは晩年になっても、「中高生の時なんか、寄り道で色んな所へ遊びに行ったんだから、それくらいの遊び心は持ちなさい」なんて口癖の様に言っていたけれど、およそ現代の感覚ではない。特にレベル1の居住区に住んでいる身としては、本当に居住スペースしか設けられていない自宅居住棟に戻ったところで、やる事が無いのだ。勉強でもしたらどうだ、という意見も今は聞かない事にする。ここ五日程、深夜を回っても赤本の過去問を解く生活が続いている。息抜きくらいしてもバチは当たるまい。

 私は差した傘をちょいと傾けて、三キロ程先にあるレベル3居住棟を仰ぎ見る。百階建という、高さは低いが敷地面積はレベル1のそれの三倍近くあり、レベル2居住棟が保有する屋内テナント数の三倍の店舗がある他、病院、銀行、学校などのパブリックビルディングが最低一つ、設けられている。そこに住む子供達は、私達の様に日々外気の毒性に身の危険を体感し怯えながら登下校する必要など無い。数は極めて少ないが、レベル住居棟で生まれた子供の中には、レベルの外側を一切知らないまま小学校に上がった子供も居るらしい。例え尾ひれのついた噂だとしても、その噂を信じさせるだけの土壌がこの社会にはあった。

 私や私以外の、勉学で身を立てようと必死に努力する学生が、いつかレベル3に住む事が出来るだろうか。ここ十年の統計では、レベル1相当の所得世帯の子供がレベル3に上がる確率は、二十五歳までで〇・一パーセント以下。三十歳で二パーセントらしい、政経の授業でやった事だ。

 その現実を知って尚、必死になって勉強をする生徒・学生が殆どだ。が、明確な目標を持って勉強している生徒は少ないだろう。自分達の努力の多くが、将来的に報われる事など無いと、既に現実を知ってしまっているのだから。職業選択の自由は半世紀以上前から謳われている文化だけれど、高校生になって或る程度現実が見えてくる中でそれを疑いも無く盲信する子供は少数だ。

 学生の熱意を奪い去り意識を引き戻す程の現実が、常に私達の眼前に横たわっている。

 しかし大川美里は、そんな現実から一歩脱却した場所に居る。生徒はそれに尊崇の念を抱き、同時に強い嫉妬心を抱く。私は浅ましくも、そんな彼らとは違う、という優越感を独り占めし、彼女と肩を並べるのだ。



 学校から一番近い地下モールは、歩いて二十分の距離にある。少々遠いが、住居棟以外に活動を続ける民間建造物が無くなり廃墟も多いこの国土に、一つでもモールがある事を喜ぶべきだろう。

 地下モールへと続く階段を降り、十基あるチェンバーの順番を待つ列に並ぶ。皆、薄暗いチェンバーホールの中で時間潰しに端末に目を落とし、フリック操作を繰り返していた。私と同校の生徒か、または違う学校らしい生徒が、一人だったりグループを作って談話したりしながら、のろのろと前に進んでいる。私はと言えば、一定のリズムで開閉を繰り返し、人を飲み込んだり吐き出したりするその扉を、何とは無しにじっと見つめていた。また昨日のニュースの様に、このチェンバーが空気漏れを起こしたりしないだろうか。或いは扉の機能が壊れ、マスクの吸収缶の有効時間が切れる前に毒を吸い込み死んでしまう人が出ないだろうか。そんな突拍子が無いような、しかし今や有り得る可能性の話として私の現実を飲み込んでくる。

 ガーッ、ガシン。ポーン。

 扉の開閉音。緑と赤のランプの切り替わる音。

 生き甲斐ってなんだろう。私はふと、そんな事を考えた。



「ごめん、待った?」

 まるでデートの待ち合わせの決まり文句の様な言葉を口にしてしまい、自然と笑いが込み上げてしまう。美里ちゃんも同じ事を感じたのだろう。アハハ、と笑って「全然」とこれまたお決まりの文句で返した。二人して笑い、まずは近くのカフェに寄る事にした。

 私が唯一、家族以外に素顔を晒せる相手は、平均より身長の高い私より更に背が高い。百七十は超えてるんじゃないだろうか。二重三重の化粧で素顔を隠す必要の無い、薄化粧で充分綺麗と言えるその顔に、私を含めた全校生徒、いや、全国で沢山の人が魅了されている。

「顔隠さなくていいの?」

 顔を近付け少し声を落として訊くと、美里ちゃんも声を小さくして答えた。

「気付いて騒がれる程、まだ有名じゃないわ」

「またまた、ご謙遜を」

「いえいえ」

 ケラケラと笑う彼女は、年相応の十八歳。いや、早生まれだから、厳密にはまだ十七歳だ。とにかく、世間で認知されている大人びた印象を抱かせるテレビ越しの彼女と目の前の彼女は、いい意味でとても似ていない。そのギャップ故に、誰も彼女が大川美里その人であるとは分からないだろう。が、その笑顔が一瞬にして曇る。

「ねえ、その痣……」

 言いながら美里ちゃんは、自分の右目の下辺りをトントン、と指で叩く。私は咄嗟に指で隠し、学校で転んで思いっ切り机にぶつけちゃった、と嘘をついた。心配そうに私の頬を触るのが少し恥ずかしくて、私は彼女の手を引いた。「ほら、行こう」

 ……レベル1の世帯がその生活水準を引き上げる方法は、二つある。一つは大多数の中高生が選択する様に、大学へ進学する事。もう一つは、自身の才能を開花させる事。

 前者では、厳しい受験競争を生き残らなければならない。後者の道は、受験競争以上に厳しい道が待っている。特に、金銭的にも精神的にも余裕の無くなった現代人にとって、特殊な才能を生かそうとする道は「現実的ではないから」と断ち切られてしまう場合も多い。美里ちゃんもそれで小学校の頃は苦労したと、笑いながら話してくれた事がある。ただ、彼女が一言でそう語るよりも、その苦労はずっと大きかっただろう。レベル1に居住する世帯の親としては、夢など見ずに現実に生きてくれ、と願う他あるまい。特に女優業というものは。

 美里ちゃんは、最近美味しいアップルパイのお店を見付けたんだ、と言って私をその店へと連れて行く。いいね、と笑って私は最近の学校の話をしながら、地下モールを歩いた。

 レベル3の居住者が居住棟を出る機会は滅多に無い為、特にモールにはレベル1の住民が多く足を運んでいる。その為か、モールに並ぶ店の平均価格は若干低めで、商品のクオリティもそこそこである事が多い。特に殆どの中高生や大学生は、そうした店で時間を潰す。だが美里ちゃんが私を連れてきたのは、そうした標準価格より少し高い洒落たカフェだ。何でも、『大災厄』前の地上で開いていた店のレイアウトを、残された写真データから図面を書き出してこの地下二階フロアに建造したという。

 二人してアップルパイを注文し、美里ちゃんはコーヒーを、私は紅茶を注文した。

「美里ちゃん、大人だねー。私コーヒーとか無理だわ。一生飲める気がしない」

「一度でいいから試してみなよ! スイーツのお供だよ?」

 高校に他の友達と話す時は、こうした相手の意見を批判する事も嫌われる対象となる。余程の、親しい間柄でなければ。だから私は、美里ちゃんに対してだけ少しだけ、自分の意見を押し通せる。

「絶対無理」

 わざとムッとした風に答えたが、ものの数秒さえ持ちこたえられずに笑ってしまう。美里ちゃんも、ケラケラと笑った。そうして、パイをフォークで突きながら訊いてくる。

「学校は、最近どう?」

「あんまり変わらない。就職組はクラスの三分の二くらいになって、遊んでる子が増えたくらいかな」

 大学への進学自体がそもそも狭き門である今の御時世、屋外労働従事者として危険手当を貰いながら生活するのが、レベル1居住者の高校生としてはごく自然な選択の道なのかも知れない。だが、だからこそ外気が毛穴から体を犯し、年々人類の平均寿命を縮めているのだ。それが証拠に……とまでは言い切れないけれど、情報管制が敷かれているのかレベル3居住棟の情報は滅多に入って来ないが、そこの住人は世間の平均寿命の一・三倍になると耳にした事がある。あくまで風の噂だが。

 そんな実情だから、政府がいう「真っ当な職業」に就く事の出来ない低所得者層が増えるばかりだ。そんな現実に耐えられない私の様な人間が、わざわざ大学を受験する。

「勉強、集中出来るの?」

 美里ちゃんが少し心配そうに訊いてきた。うーん、と私は唸った。

「私美里ちゃん以外に友達殆ど居ないから……五月蝿い子は多いけど、仲が良くてわざわざ構いにくる子も居ないから、それ程邪魔じゃないよ」

 安心してこうして愚痴を零せる相手も、美里以外に居ない。そう、と彼女は少し安心した様に言い、そしてひとりごちた。「今の撮影が終わったら、ひーちゃんにも会いに行こうかな」

「あ……」

 ひーちゃんの名前を聞いてうっかり声を漏らしてしまった。慌てて隠そうとしたが、無駄だった。私の反応を見て、美里ちゃんは顔を曇らせる。何があったの、とその目力のある視線で私を正面から見据えた。

 どう答えたものかと逡巡するが、私は結局正直に答える事にした。黙っててもいい事は無いだろう。私は周囲を見回し誰からも注目されていない事を確認し、テーブル対面に座る美里ちゃんの方へと少し体を傾け、囁く。

「クスリ、やり始めたっぽい。学校にもあまり来なくなったし、グループチャットにも全然出てこなくて……」

 戦争以来、国連からの圧力により難民の受け入れ制限を緩和せざるを得なくなったこの国では、中東アジアやユーラシア一部地域から武器の密輸や麻薬の流入が増加した。政府が罰則を年々強化させているけれど、法律による刑法や罰則は『善良な市民を守るもの』ではなく『犯罪を抑制するもの』である事が本質にある都合上、嘗て先進国でトップクラスの治安を維持していたこの国も、その平均値は著しく下がる事となった。麻薬の目に見えるレベルでの一般層への浸透も、その影響の一つだ。それでも世界トップクラスの治安維持をしている点は流石というべきだろうが、その甲斐甲斐しい努力も、戦後に生まれた世代が社会進出を始めている昨今では辛酸を舐めている状態だ。

 ……ひーちゃんこと大葉光は、数ヶ月程前までは私と変わらない、どちらかと言えばクラスメイトに対して影響力を持たない、日陰者のグループの一人だった。だが、春休みを挟んでから彼女は受験のストレスからか、麻薬に手を出し始めた、と噂が立った。

 そんな馬鹿な、と皆始めは疑い、信じようとしなかった。でも彼女が久方振りに登校して来た時、その疑惑は確信へと変わる。明らかに肌の艶が衰え、サラリと伸びていた髪が酷く痛んでいた。服も、地味なりに清潔さを大切にしている印象を受けたそれは皺が寄っている。綺麗に出来ていないというよりも、容姿に気を遣う余裕が無くなっている印象を受けた。時たま挙動不審気味にキョロキョロと周囲を頻りに見回す様子が見ていていたたまれなかった。

 皆、ひーちゃんに近付かなくなった。それでも私の数少ない友達の一人で、美里ちゃんとも仲は良かったから、何とかして人目を盗んでこっそり彼女に声を掛け、せめて力になろうとしたのだけれど。

「ねえねえ、友達、友達なんだよね? なんか力になってくれる、くれるの?」

 一ヶ月近く前、最後に学校に登校して来た頃には、最早日本語さえも怪しくなっていた。笑顔が素敵だったのに、その歯茎は黒く醜く染まっていた。髪を整える気概はとうに消え失せている様だ。そんな変わり果てた姿のひーちゃんを正視出来ずに、ただ涙目になってガクガクと頷いたのだが、

「じゃあ何で、こんなこんな誰も居ない人の居ないところで説得してる? ねえねえ?」

「え?」

「友達? 友達? だったら人目なんか憚らないでさ注意してよ助けないの? 誰かに私と一緒のトコ、見られるの嫌? 近付かずに済むならそれでいいと思った? 思った? その程度の信頼? 友情? 絆? 信じる? 信じる?」

 最早疑問を心の中に押しとどめる事さえ出来ずに吐露するその姿が痛々しい。そしてそれ以上に、私は心を掻き乱された。彼女のその疑問は、間違い無く的を射ていた。ひーちゃんと必要最低限以上の事を話している姿を誰かに見られたら、もうそれでお終い。私も彼女と同じ様に、学校に居場所が無くなる。目に見えない誰かから、全員から、攻撃されるのだ。

 ひーちゃんは心の底で、自分の身を犠牲にしてでも彼女を救ってくれる、そんな相手を求めている。

 自己犠牲という最上の献身。でも、それが常にベストな選択となる保証など無い。

 ましてや、見返りを求められた上で行う自己犠牲など。そう思ったからこそ嘘をつく。

「誰も居ない所じゃないと話せない事って、あるでしょう」

 苦し紛れ。幾らでも論破されそうな稚拙な言い訳。聡明な本来のひーちゃんなら気付けた筈だが、こんな事にも気付けない程に彼女の心と体、そして頭は弱っていた。

「うん、うん、素敵素敵。そうだったね。ありがとう。友達、友達。……助けてくれるんだよね? 力になってくれるんだよね? じゃあさじゃあさ、先輩に会ってくれる? 絶対楽しくなるよ。約束する! 来てくれればね、紹介料でちょびっとだけど上物くれるんだ。ね、助けてくれると思って。そうだ、今夜行こうよ何時がいい? 八時空いてる?」

 私の手を握って、純粋な目を輝かせてそう話してくる彼女に、今度こそ耐えられなかった。そうして、ごめん無理だ、と答えた瞬間、ひーちゃんは目をひん剥いて私に飛びかかり、手入れのしていない伸びた爪で私を引っ掻き、奇声を上げて腕に噛み付いて来た。一秒前まで純朴な子供の様な目をしていた所から一転、野獣の様になった彼女に恐怖し、私は大声で悲鳴を上げる。そんな事には御構い無しに、ひーちゃんは私の髪の毛をひっ掴んで、頭を引き寄せたり廊下に叩きつけたりして、何事かも分からない叫び声を上げながら暴れた。

 悲鳴と奇声を聞きつけた生徒と教員がひーちゃんを引き剥がし、押さえ付けた。恐怖と痛みに震える私を何人かの同級生が引き寄せ、急いで保健室に連れて行ってくれた。

 まだ、私の頬には痣が残る。また私の手は無意識に頬まで伸びた。

「家には、帰ってないの」

 そんな美里ちゃんの声でハッと我に返る。私は意識を戻し、ううん、と首を振った。

「一ヶ月近く前に……学校で暴れちゃってからドラッグセラピーを受ける予定になったんだけど、施設から抜け出してもう二週間くらいになるって……どの住居棟にも入館記録が無いし警察が追跡出来てないっていうから、もう放棄区域に……」

 それ以上は、何も言わなかった。ただ、もう私達がひーちゃんの為に出来る事は何一つ無いという事だけははっきりしていた。

 何か出来たかな、と一ヶ月前からずっと引き摺っている疑問を吐露した。クラスメイトだったらこの言葉に対し、絶対に「何も出来ない」「だから気に病む必要なんて無い」と何の建設的な言葉も無い返事をするだろう。

 結果として助けにならなかったのなら、ただ慰める言葉など要らない。それで救われるのは仮初めの私の善意であって、ひーちゃんの体と心ではないのだ。だが彼女達は、同調する事を条件反射的に口にするのみ。自分の言葉など最早必要としない。

 でも、美里ちゃんは違う。

「分からない。出来たかも知れない。次にそれが出来る様に、出迎える準備だけしてあげよう」

 自分の、確固たる意見を口にした。それが、ひーちゃんの救いになる事を信じて。そんな私の様子を伺いつつ、美里ちゃんは私に話し掛けた。

「実はね、相談があるんだ」

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