第152話 心は嫌がっても体は正直みたいな
20メートル。
「……ひーっ!」
大した距離ではないように思うかもしれないが、防災斧というそこそこの重量物を抱え全力疾走とくれば、この歳では拷問に近い。
”あの日”以降にライフワークであった死体運びで筋力は鍛えられたかもしれないが、肺はそれでは鍛えられない。長年の怠惰で弱り切ったソレが悲鳴を上げる。
先ほどまでは、迫るゾンビどもを打倒しながらの行軍であった為に全力疾走なんてことは無かったから、ここまで僕の肺が弱り切っているなんて思わなかったよ。
黒人ゾンビの大暴れのお陰で、この辺りには立って動いているゾンビは少ない。
しかしながら全く居ないというわけでもないし、黒人ゾンビに吹っ飛ばされたゾンビ達も流石に復帰し始めている。
なんとか地下鉄の出入口直前まで辿り着いたのだが、そこで二体の元気なゾンビと対面することになったのだが……
いつもなら、少なくとも「面倒臭い」という感情が先に来るのだが、この時ばかりは、もう走らなくて済むことへの安堵が先に来ていた。
「ほえ~い……」
ドスッ!!
息絶え絶えの情けない掛け声からゾンビの胸あたりに繰り出されたのは、防災斧の先端からの打突であった。もう、自分でブレーキをかけることでさえ億劫になっていたが故の突進攻撃である。黒人ゾンビと対峙する前も同じような突進攻撃を行っていたが、それが効率と破壊力を追求したが結果の選択であるのとは対極の理由からの選択であった。
その攻撃を喰らったゾンビは後方に倒れ込むと地下鉄の出入口奥の階段まで吹っ飛び、そして下りの階段の暗がりの中に音を立ててて落ちて行った。
そして僕は、勢い余って片膝と地面に着くことにはなったが、自らの労力はほぼ使うことなく停止することに成功していた。
……うむ。攻撃の極意とは脱力と見つけたり。
そして、もう一匹! とばかり、その体勢のままで防災斧を横なぎするのだが……
スカッ。
「あれ?」
空振りである。
「あれれ?」
そして、防災斧の重量に振り回されるまま、視界が傾いていく。
「あれあれ!?」
手足に力が入らない。
脱力じゃないぞ。流石に脳が「倒れる」と認識したいまは、踏ん張ろうと力を込めるような命令を全身に出している。
「あーれー!?」
とうとうドサリ、と完全に地面に倒れ込んでしまった僕。
あかん、これは良くない。目の前にゾンビが居るにもかかわらず、無防備な体勢を晒してしまっているのだ。まずい、早々に立ち上がらねば……と理性では思うのだが、体と心がこう囁く。「動きたくない。このまま寝たい」と。
……ああ、この感覚は、過去にどこかで感じたことがあるぞ。
アレだよ。目標達成寸前で、勝手に心と体が弛緩してしまうアレだ。特に、緊急事態的な試練を乗り越えれそうな直前に起こる、悪魔の現象だ。
こんな経験が二回程ある。
小学生低学年頃、下校中に便意(大)を催し、ギリギリの状態で耐えに耐え抜いて家まで辿り着いたまでは良かったが、トイレのドアを見た瞬間、どんなに肛門括約筋に理性で「早まるな、まだだ!」と命令を下そうにも、ヤツは勝手に大決壊を引き起こしてしまったのだ。
強烈な「理性と心身の乖離」という現象だった。
皆さまも経験あるのではないだろうか? あるでしょ?
……あるよね?
いま僕は、それに近い感覚を覚えていた。
理性では、まだ地下鉄の出入口まで辿り着くというミッションは途中で最後のひと踏ん張りが残っていることを理解してるし、それを遂行しなければ終わらないことは理解している。
しかしながら、おっぱいちゃんに殺されかけ、今までに無いくらいの数のゾンビも群れ、そして黒人ゾンビの脅威に対応したというのは、僕の心身に思った以上に大きなストレスをかけていたらしい。ただ「地下鉄の出入口に辿り着いた」というだけで、心身はミッションコンプリートとばかりに弛緩してしまったというところだろう。
残ったもう一体のゾンビの開いた口が迫る。
くそっ! なんだよ。やっとここまで辿り着いたのに、こんな雑魚に……
パアン!
ゾンビの左肩あたりが吹き飛ぶ。そして一瞬間が空いて吹き飛び、彼も地下鉄の出入口の下り階段の暗がりにもんどり打ちながら消えて行った。
「ちょっと!」
おっぱいちゃんの飛び蹴り気味の蹴りによるものであった。
「何寝てるのよ!?」
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