シノブシ ~忍武士~

九里方 兼人

忍武士 前章

プロローグ

 間違いない。

 誰か付けてくる気配がする。

 またあのストーカー?

 接近禁止命令が出されたにも関わらず、性懲りもなく現れたのか?

 もう夜も更け、このオフィス街は人通りも少ない。

 人の多い繁華街や駅まではまだ距離がある。

 こんなにも堂々と後を付けてくるという事は……。


 残業を終え、帰路を急ぐ女は最悪の事態を想像して身震いする。

 普段の帰り道から外れた路地を曲がり、少し進んでまた曲がる。

 要は今来た方向、会社に戻っているのだ。

 もう会社で仕事をしている者はいないが、管理人はまだ残っているはずだ。

 走り出すと相手も走って追ってくるかもしれない。

 ストーカーなら自分の帰り道も知っているはず。忘れ物をしたようにさりげなく戻っているように見せているつもりだが、心臓の鼓動と共に歩みも早くなってしまう。

 背後の足音はやはり付いてくる。

 顔を上げると勤め先の通用口の扉が見えた。

 ここに逃げ込んでしまえばひとまずは安心だが、帰る事も出来ない。管理人に頼んで警察を呼んでも、その時にはいなくなっているだろう。

 もう何度も警察を呼んではお騒がせ事件を起こしているので、下手をすると来てくれないかもしれない。

 ドアに走り寄り、暗証番号を押す。

 今追いつかれたら終わりだ。努めて冷静に押そうとするが手が震える。

 ガチャリ! という音を確認すると重いドアを力いっぱい引き、中へと駆け込む。

 廊下を走り、後ろを見ると閉まるドアに差し込まれた手が見えた。

 入って来る気? でもそれは予想済みだ。

 そのまま建物内を走り抜け、対面の通用口に向かう。

 静かな廊下に響き渡る足音は二種類。あいつも走って追って来た。

 出入口の横の読取機にカードキーを通す。

 ここはセキュリティが厳しく、この時間は内側からもキーがなくては開かないのだ。

 同じく重いドアを開け、外へ出るとありったけの力を込めてドアを閉める。

 閉まるドアの向こうに走って来るストーカーが見えた。

 見たくもない顔だが、今日は口の端を上げて正面から見据えてやった。

 こちらに向かって伸ばされた手がドアに届く前に、分厚いドアは音を立てて閉まる。

 電子音と共に扉は施錠された。


 ……やった。ザマを見なさい。

 これでアイツは出られない。

 管理人に助けを求めて通報されるか、朝まで隠れているしかない。

 明日は理由を付けて午後から出社してやろう。

 バン! とドアの内側を叩く音。

 いい気味だわ。

 女はふんと鼻を鳴らすとドアに背を向ける。


 ガン!

 一際大きな音が響く。

 驚いて振り返った女は訝しげな笑みを浮かべる。

 馬鹿な奴。そんな事をしても管理人が飛んで来るだけなのに……。

 不法侵入に器物破損が加わって好都合だ、せいぜい長く拘置されなさい。

 尚も叩かれるドアを尻目に帰路に付こうとした所で、ボコンと聞き慣れない音と共にドアの一部が拳大に膨らんだ。

 一瞬何が起きたのかも分からず固まっていると、また別の部分が音を立てて膨らむ。

「な、な、な、何これ?」

 三つ、四つと増えていく隆起を見ながら女は声を震わせる。

 ガコン! とドアと壁の継ぎ目になっている部分が盛り上がって割れる。

 その割れ目から黒い指が飛び出した。

「ひっ」

 女は尻餅を付く。

 やがて、ぎっ、ぎぎぎ……と重い軋みを上げてゆっくりとドアがひしゃげる。

 開いた隙間からは真っ赤な目が覗いていた。

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