健全な精神は健全な肉体に宿

最近は痛風気味

健全な肉体は健全な精神に宿✕✕✕

標題の意味合いは、ウイキペディア等によると間違った解釈が現代に伝播されているようだ。それは割愛する。

「健全な肉体は健全な精神に宿る」というフレーズが一般的だが、私が大学の体育の授業では

「健全な肉体は健全な精神に宿れかし」だと教わった。

当初、あれ?と思ったのは事実だが、「宿る」はある意味「イコール」であり、「れかし」は「〜ならよい」とか「〜であるべき」という、希望的観測の意味合いがあるという。

上記、最初の文言で例えて言えば「ボディービルダーは皆健全な精神を持ってるよね」という事になる。

逆にボディービルダーは皆素晴らしい人間だと言うのは極端だが、そう言う意味合いに取れる。

二番目の文言では「ボディービルダーみたいな人だったら健全な精神を持ってるといいよね〜」という解釈になる。

こんな御時世、見てくれでは人を判断出来ない事は否めないので、ある意味現代にフィットしていると言えるだろうか。

この「健全な肉体は〜」のフレーズは、体育会系によく出てくる言葉であるが、最近「なんちゃってスポーツマン」が多く見られるような気がする。

私がどれ程の人間であるかは、読者の酌量に依るので触れないが、そんな私でさえそう思うのだから、結構由々しき現象である。

有名な逸話で、1984年のロス五輪に於いて、柔道の山下泰裕選手が無差別級決勝に臨んだとき、右足を負傷していた。相手はエジプトのモハメド・ラシュワン選手。この時、山下選手が足を負傷している事を知りながら彼は右足を攻めなかった。結果、ラシュワン選手は銀メダルに終わった。

という話だが、実際は違うようだ。それより重要なのは、表彰台に登るとき、

「山下選手が表彰台に上がる際に手を貸した」

という点だ。

皆、そこに上がって金メダルを掛けて貰う為に自分の時間をとことん削って練習や試合に臨む訳だが、その機会をあと一歩の所で手が届かず、後塵を拝して居るのに、相手を讃えるという姿勢、行動は素晴らしいと思う。これが真の「スポーツマンシップ」

だと私は思う。

その事を踏まえて、現在はどうだろうか?

「俺は✕✕をしてる(してました)」とか言って、スポーツ自慢している勘違いしている輩が多すぎる。これはスポーツに限らない話だが、

「だから何なのか?あなたは優秀な成績(があったとして)以外に何を得たのか?」と言いたい。

そう言う輩が大抵、社会人になって仕事をする時、他人を簡単に卑下したりする。大体その事を鼻にかけている。そんな人間が挨拶もせず、遅刻を平気でする姿を見ると頭にくるのを通り越して

「可哀想に」と思う。

時間の無駄遣いだね。


結局のところ、色々頑張って来て残るものは目に見えないものが多い気がする。それでいいと思う。

思い出であったり、礼儀作法だったりする。

「真のスポーツマンシップ」とは何か。試合に勝てばどういう手段をとってもいいのか。

正に答えは「〜かし」だと思う。そういう視点で来たる東京五輪を観ていただきたい、とカッコいいことを言う、かくある自分はどうだろうか。

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健全な精神は健全な肉体に宿 最近は痛風気味 @Kdsird1730

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