第3話 幻影


 存在を確かめるような甘いキス。ほんとうに、憎らしくなるほど上手い。ときどき目を開けて、フィルが彼女の様子をさぐっているのがわかる。そうやって、唇をはむ角度も、舌をからめるタイミングも計算されている気がする。そういう男だ。

「フィル……」

 唇を離すと、リアナはあえて苦言を続けた。「あなたは戦時の英雄だし、いまはわたしの夫なのよ。もっと自分に自信を持ってほしいの」


「……それがあなたのためなら」

 フィルの声には心がこもっているように聞こえた。だが、この嘘つきな男が本心からそう言っているのかどうか、確信はもてなかった。

「わたしのためでもいいから」リアナはつけくわえた。


 女は結婚によって男が変わってくれることを期待するが、男は女が変わらないでいてくれることを期待する――と、グウィナが言っていたっけ。フィルは柔和な物腰に似合わず、一途で頑固なところがあった。簡単には――少なくともたった一年では――男は変わらないのだろう。


「もう少しここにいてもいいでしょう?」案の定、フィルはそう言った。

 すくい上げるように頬をはさみ、じっと目を合わせてくる。「やっと二人きりだ。朝はばたばたしてて……」

 もっとも、ばたばたしていたのはリアナのほうで、フィルのほうはあっという間に準備を終え、焼きたてのパンつきの朝食までこしらえていたのだった。温かいスープの幸福な食卓に、リアナはすっかり慣れきっている。多忙で帰れない日には、調理用ストーブから漂ってくる匂いと、調理中のフィルの姿を思いだしてため息をついてしまう。それに、自分一人だけに向けられるとろけるような笑顔と抱擁ほうようにも。糖蜜菓子を口に押しこむように甘やかされ、抱きあげて寝室まで運ばれ、そしてその先は……。


「そろそろ戻らなくちゃ」

 誘惑をふりきって、リアナは言った。

「イーゼンテルレの使節との会談が残ってるわ。そのあと草稿をチェックするから、今日は二人で城に泊まることになるかも」


「城は好きじゃない。あなたは、いつもほかの人たちに囲まれているし。なかなか二人になれないし……」

 フィルは駄々をこねる調子になった。

 人当たりのいい好青年の顔と、鬼神のような兵士の顔をもつ男だが、子どもっぽい一面も実はあることを後になって知った。実兄のデイミオンも知らない、テオやヴェスランたちにだけ見せていた顔だ。こうやって、命を預けた戦友たちと同じくらい自分を信頼してくれるようになったのだと思うと、嬉しい。

 だから、むげに断って切りあげるようなことはしたくなかった。

 もう少し、フィルと一緒にここに残って二人の時間を過ごすか。政務を優先して城に戻るか。リアナが決めかねているあいだにも、フィルは唇を彼女の喉にすべらせている。

「フィル……」

 しっかりと腰を支えられ、リアナも彼の背に手をまわした。温かく固い筋肉の感触がする。レヘリーンのことでささくれだっていた気持ちがほどけていくような気がする。やっぱり、もう少しこうしてフィルと……。


 背をかがめたフィルの向こうには、さっきまで権力者たちが座っていた野原が見える。タンポポ、黄いろいカタバミ、シロツメクサに、ひなげし。それぞれが少しずつ群生して、春らしい点描を作っている。そのとき、ぶわっと音がしそうなほど強い風が、彼女のワンピースを大きくはためかせた。風にのってきた薄い花びらが顔をかすめる。顔をしかめたリアナは、風が舞いあがる中心あたりを見極めようと目をこらした。


 ――そして、デイミオン・エクハリトスを見た。


「デイ」

 どくん、どくん。自分の鼓動があまりにも大きく響き、声は弱々しくかすれて聞こえた。


 背の高い、長衣ルクヴァの立ち姿。結った髪を切り落してしまったので、顔まわりに黒髪がかかっている。見慣れた革のブーツのなかばあたりまでを草が覆い隠している。表情が見えるほど近くはないが、金色の目が見えないほど遠くはない。金色の目――アーダルとなかば一体化して竜の力を行使するときの、デイミオンだけの特徴だった。


「いま、ほかの男の話はしないで」フィルの声が冷たくなった。

「だけど、フィル、デイがあそこに立ってるのよ」

 フィルの腕をのがれてデイのほうへ駆け出していかなかったのは、頭のどこかでこれはおかしいと感じていたからだろう。デイミオンは掬星きくせい城で、深い眠りに就いている。こんなふうに簡単に目ざめて立っているなら、今リアナはこれほど苦しんでいない。

 それに、あの立ち姿はない。彼はぼんやりと野原に立ちつくしたりはしない。長い脚で大股に歩き、耳をふさぎたくなるような声で号令し、人目をはばかることなく妻を抱きしめる。それが、リアナの知るデイミオン・エクハリトスという男だった。

 でも――でも。


「デイミオンに見えるの」

 弱々しいリアナの声に、フィルはため息をついて顔をあげた。そして、周囲にすばやく視線を走らせると、言った。「誰もいませんよ。随身ずいしん近衛このえ兵以外は。レヘリーン卿たちの集団はまだ離れている」

「たしかなの? だって――」

「俺はあなたより目がいい、知っているでしょう。デイミオンみたいな男を見落とすはずがない」

「そう、そうよね」

 だとすると、いま自分が見ているものは何なのだろう? 

(幻覚?)

 頭によぎった疑いは、おそろしかった。自分は、恋しさのあまり夫の幻覚を見ているのだろうか? 終わりの見えない政務に疲れて、ついに頭がおかしくなってしまったとか?

 視界の端で、デイミオンが長い腕をのばし、口を動かした。

 唇の動きは単純で、短かった。――

 そして、それきり煙のように姿を消した。


「待って……待って、デイミオン」

 消えた幻影に向かって伸ばしかけた手を、フィルが背後からつかんだ。「ダメだ。幻にまで負けたくない」



 晴れていたはずの空で、雲があやしげな動きを見せていた。鼠色の雲の固まりが、すばやく動いている。

 それは、白竜のライダーであるリアナが天候の変化だった。めったにあることではない。


〔レーデルル?〕

 不審に思ったリアナは、近くの岩場にいるはずの自分の竜を呼んだ。十二年前、竜の心臓を一度取りだしてから、レーデルルは人語をかいさなくなってしまった。だから言葉での応答はないはずだった。いつもなら、彼女らしい柔らかい応答の感覚がある。だが――


〔黒い竜〕

 ヒトの声とは違う、平板な固い女性の声が、そう言った。

〔ルル?〕

〔大きな大きな雄竜。わたしの。かわいい、かわいい羽毛の、わたしの羽毛の。みっつの心臓が、息吹いぶきが! おお!〕

〔ルル! あなた、言葉が――〕

〔あなたはパイロット、星の舟に帆をかけて、進むわ、進むわ〕

 声は歌うようなほがらかな調子になったかと思うと、急に年老いた予言者のように不吉さを帯びた。〔王の娘よ、あなたは種守たねもり末裔すえ。最後の種子デメテル


〔どうしたの!? ルル、なにを言っているの?〕リアナも負けじと叫んだ。〔アーダルに……それともドーンに、なにかあったの!? ルル!〕

「リアナ!」

 激しく動揺する彼女を、フィルが引き戻すように呼んだ。「何があった? 誰かいるのか?」


「レーデルルの様子が変なの」ばくばくとせわしげに動く心臓をおさえるようにしながら、リアナはなんとか答えた。「なにかあったみたいなの。ずっと通じなかったのに、今になって急にしゃべりだして」

「待って。――東から飛竜が来る」

 フィルは鋭く言った。リアナの肩から手を離し、すでに剣をさぐっている。「本当に、なにか異変が起きたのかも。俺のそばを離れないで」


 リアナは混乱し、ぎゅっと拳を握りこんで自分を取り戻そうとつとめた。古竜と、ライダーの間には〈呼ばい〉の絆がある。いいかえれば、両者の不安は伝染するのだ。自分の、そして竜の感情を制御する技術は、ライダーとして欠かすことのできないものだった。

(でも、レーデルルが……それに、それに……デイミオンの姿が)

 濁流に浮かぶ落ち葉のように、心がちりぢりになりそうだった。


 すでに曇り空のなか、さらに黒い影がさした。ばさっ、ばさっと規則的な音をたて、飛竜が降下してくる。単騎だ。黒褐色のすらりとしたシルエットは、ハダルクの飛竜だった。


「リアナ陛下。フィルバート卿」

 竜騎手団の副長で、王の副官でもあるハダルクが、急ぎ足で木立のほうに近づいているのが見えた。

「ハダルク卿」フィルバートが呼ぶ。「陛下はここだ」

「どうしたの!?」

 リアナはそう言ってから、はっと口を閉じた。〈呼ばい〉を使わずに直接報告に来るということは、ひとに聞かせたくない機密事項ということだ。


 ハダルクは、副官というよりも父親のような顔で、リアナの肩をしっかりとおさえた。そして小さいがはっきりした声で言った。「落ちついてお聞きを。デイミオン陛下が目ざめました」

 その言葉の衝撃に、リアナはさっきまでの出来事を一瞬、すべて忘れた。

「ほ、本当!?」

「はい」

「アーダルも?!」

「はい。時を同じくして」

 ハダルクは彼女を落ちつかせるように、口端だけを笑ませる。「ですが、どちらもまだ完全には覚醒されておらず、同期もとけておられないようです。アーダルが、第二の竜ベータメイルのレクサを威嚇いかくしています。ひとまず両者を離しています」

「それはどういう――」尋ねようとしたリアナは、いそいで首を振った。「いいえ、自分で確かめるわ。城に戻る。わたしの飛竜ピーウィを呼んで」


 フィルがいつのまにか離れ、また戻ってきていた。

「もう呼んでいます」


〔黒い竜。かわいい仔。わたしの、この船の、最後の種〕

 遠くで、レーデルルの起こした雷が不吉に鳴り響いていた。


【序章 終わり】








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