第三章 敵意

1 ライターの孤独


 関西新聞社の五階フロアの全部を使って、『週刊タイム』は出版業務をおこなっていた。

 そのフロアの東の端にある応接室で、鍋島と芹沢はもう二十分以上も待たされていた。

「――ったく、いつまで待たせるつもりだろうな。人が死んだって聞いたら真っ先に飛んできて、コバエみてえに俺たちの周りから離れねえくせに」

 芹沢は身体を揺らしながら毒づいた。

「それは新聞記者やろ。こっちは雑誌。もっと優雅に構えてはるんや」

「どっちだって同じさ」芹沢は鼻を鳴らし、立ち上がった。

「どこ行くんや」

 芹沢は鍋島を見下ろしてにっと笑った。「このフロアにいた受付のコ、なかなかイイ線いってたろ」

「……よう見てるな。恐れ入るわ」鍋島はため息をついた。

 芹沢は両手でわざとらしく髪を整え、着ていたジャケットの裾の皺を伸ばすと、「じゃな」と手を上げて出て行った。

 鍋島は引き留めなかった。芹沢が本当にただのナンパ目的で出て行ったのではないことを知っているからだ。さしずめ、ここでの佐伯葉子の交友関係あたりを訊き出すつもりだろう。そのついでに女の子と仲良くなれれば儲けものである。ただ、いくら普段は勝率百パーセントに近い彼でも、今日のように目尻に絆創膏を貼り、腕を包帯で巻いていては分が悪いかも知れない。

 そう言えば、一線を越えなければいいというものではないと麗子は言った。もちろん正論だ。しかし、これが芹沢の日常なのだ。それを一条が受け入れるかどうかだ。それが駄目なら(駄目だろうけど)、芹沢が一条のために態度を改められるかどうかだ。案外できるんじゃないかと鍋島は思っていた。そして、今がその過渡期のような気がしていた。根拠はゼロだが。


 ノックがあって、一人の男性が入って来た。肩幅の割に顔の大きな色黒の男で、ピンク色のボタンダウンのシャツに濃紺のスラックス、黒のタッセルシューズを履いていた。ノータイで、シャツの両袖を捲り上げているところが、いかにも俺は忙しいんだと言いたげだ。年齢は四十歳前半、真っ直ぐに鍋島を見る目つきが鋭かった。

「――お待たせして申し訳ありません。手の離せない急ぎの仕事に掛かっていたもので」

 芹沢とは違う、まったく崩れていない標準語だった。

「こちらこそ、事前の連絡も無しに突然押しかけて申し訳ありません」

 そう言うと鍋島は用意していた名刺を差し出した。「西天満署刑事課の鍋島です」

「編集長の福井ふくいです」男も同じように名刺を出した。そして受け取った名刺を見ると「巡査部長さんですか」と言って鍋島を見た。

 鍋島は苦笑いした。相手の考えていることが分かっていたからだ。福井の名刺を覗くと《『週刊タイム』編集長 福井泰弘やすひろ》とあった。

「えっと確か、お二人で見えられたと聞きましたが――もうお一人は?」

 福井は芹沢の座っていた席の前に置かれた湯呑みを見て言った。

「ええ、ちょっとトイレ――かな」

「佐伯葉子さんのことで、お話があるとか」

「ええ。佐伯さんが今、どんな記事を書こうとして取材をしているのか、それを知りたくて」

 福井は怪訝そうに鍋島を見た。「そんなこと、彼女に直接訊いた方が早いんじゃないですか?」

「できればそうしたいんですが――佐伯さんが姿を消したもので」

「ええ?」と福井は目をむいた。「何かやったんですか?」

「まだ分かりません」

「……そう言えば、あなたは一係の刑事さんだ。まさか彼女、殺されたとかじゃないんでしょうね?」

「たった今僕は、『佐伯さんは姿を消した』って言ったばかりですよ」鍋島は低い声で言うと福井を見た。「それとも福井さん、あなたは彼女に殺されるような理由があったとお考えなんですか?」

「いいえ、まさか」

「でしょうね」鍋島は福井から視線を逸らさずに頷いた。

 福井は左手で作った拳を口元に当て、右手を脇の下に挟んで考え込んだ。葉子の失踪の理由を考えているのか、彼女の行方を思い巡らせているのか、それとも彼女との甘い思い出でも回想させているのか、鍋島には推し量りかねた。

 やがて福井は口を開いた。

「彼女はいつも、九割がた完成された記事が書き上がるまで、一切何も言わないんですよ。それでも彼女の記事はこっちを満足させるのに充分なものでしたから、僕もあえて何も口出ししませんでしたね。だから彼女が今、何を追っているのか、うちでは分かりません」

「まったく何も言わなかったんですか? 例えば今度はこんな記事を書いてみたいとか、どんなテーマに取り組みたいとか、何かを調べているとか」

「聞いてませんね」

「姿を消す十日ほど前に、三日ほど津和野に行ってたらしいんですが」

「津和野に?」

「ええ。心当たりはありませんか」

「津和野か……」福井は呟いた。「――あ、彼女は確か、はぎの出身ですよ」

「ええ、それは知ってます。けど萩には行ってないんです」

 その点については、今朝のうちに萩市の彼女の実家に確認済みだった。

「最近、彼女とお会いになったのはいつです? 電話とかでもいいんですが」

「そうですね……今月の初めごろでしたか、ここへ来ました」

「どんな話をしました?」

「いつもと変わらないですよ。最新号の話や、他誌の記事の評価とか。あとはゴールデンウィークの予定なんかを話してました。うちの編集部の連中も一緒にいましたから、何でしたらあとで確認してください」

「編集部で、彼女と特に親しかった方はいらっしゃいますか?」

「はっきりとは分かりませんが――みんな同程度の付き合いだったと思いますよ。昔ここにいた女性とはよく飲みに行ってたみたいだけど、今は特にいないんじゃないかな」

「その女性は今、どうしてます?」

「二年ほど前に結婚して、今はカナダに住んでます。つい先日編集部にメールくれましたけど、佐伯さんはお元気ですかって書いてあったから、今は付き合いないんじゃないかな」

「……そうですか」

 フリーライターとは孤独な商売らしい。鍋島はめげずに続けた。

「佐伯さんは現在、主にこちらの雑誌だけに記事を書いていらしたようですね」

「そうです。彼女は四年ほど前までうちの――関西新聞社のことですが――社会部の記者だったんです。五年前に体調を崩しましてね。一年近く入院して、結局そのまま退職したんです。それからフリーになったんですが、昔のよしみでもっぱらうちの雑誌に書いてもらってます」

「書いてもらっているということは、いつもそちらから依頼されるんですか」

「いえ、正直に言うとその逆です」

「佐伯さんが売り込んできたんですね」

「彼女じゃなくて、新聞社がね」

「関西新聞が?」鍋島は意外そうに言った。「ずいぶん親切な会社ですね。定年でもない退職者の面倒まで見るなんて」

「新聞社がそんなに暖かいところだと思われますか?」福井は笑いながら言った。

「いいえ」と鍋島も笑った。

「新聞記者っていうのは、警察の方たちと同じで決まった就業時間があって無いようなものです。おまけに競争相手は多い。何でも彼女、素晴らしく頑張ったそうですよ。昼夜問わず走り回って、どんどんスクープを獲って来た」

 福井はここまで言うと、一呼吸置くように顎に手をやり、鍋島をじっと見た。「ちょうどそんなとき、熊本の地震が起きて――眠るどころか、二日に一度横になれたら御の字って状態がずっと続いた。そのあと伊勢志摩サミットやアメリカ大統領の広島訪問と大きな出来事が続き、それでとうとう身体を壊したんです。労災ですよ」

「けど、ああいうときはそんな記者は多いでしょう。どうして彼女だけ、後々そんなに優遇されたんですか」

「彼女の場合は特別でした」

「と言うと?」

 福井はゆっくりと身体をソファに倒し、腕組みして俯いた。明らかに言い淀んでいるのだった。


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