わずらい

「珊悟君、こっち」

 薫は僕の手を引いて、外へ出ようとしている。僕は躊躇した。この状況を放っておいて、本当に逃げていいものだろうか。

「おのれ女、よくも私にこんなことを……」

 比丸はまだ生きている。背中に刃を生やし、地に這いずり血を吐きながら、ますます妖怪じみた風貌で睨みつけてくる。その傍へ万代老人が青ざめた顔で駆け寄る。

「か、か、薫! お前なんてことをするんです!」

「叔父様、貴方こそ。このような振る舞いを私は決して許しません。そこに珊悟君を巻き込むことも」

「私はねえ、薫、聞きなさい。私は自分の本分に従って生きているだけなんですよ。この血はどうしようもないんですよ。ねえ、お前も恋をする者ならわかるでしょう。この血の疼き、愛しい者への飢え……。薫、お前にはまるでないというのですか」

「愛しい……? いったい何の話」

「私は知ってるんですよ。坂本さんもよく聞きなさい。あんた方は恋人だの彼女だのと言ってますが、本当に愛し合った仲なんですか。どうもねえ、恋人の真似、らしきこと、幼稚な恋愛ごっこでもしているようにしか思えないんですよ」

「なにを馬鹿な!」

 僕は怒鳴った。けれど、その声はかすれていた。この老人は、僕の一番触れられたくないところに嘴を突っ込んでいる。

「坂本さん、あんたが一番知りたかったことを教えてあげますよ。たまっころが覚醒する条件です。それは恋煩いですよ! 最初の比丸がそうであったように、恋に悶えて、焼け焦げて、死にたくても死ねない苦痛が古い血を呼び起こすんです」

 僕たちは沈黙した。薫も同じだった。僕たちの間にあるものが、おままごとじみた恋愛ごっこに過ぎぬものではなかったのかと、強く言われれば否定しきれぬのだ。

 だが、僕は薫を愛していなかったのか? それは違う。僕は薫を愛している。彼女を守りたいと、彼女の傍にいたいと切に願っている。ああ、だからこそ。僕が強く想っているからこそ、それが一方的なものではないかと不安に思うところもあるのだ。彼女はその優しさゆえに、僕なんかに付き合ってくれているんじゃないかと……。

「黙りましたね? そうですよ。お前たちの愛なんて、精々たまっころを育てる肥やしみたいなものなんです。ウォン君。そっちの親子も放っておきなさい。今は比丸の大事が一番です。そこのお若い二人の相手は、彼に任せましょう」

 老人の命令で、ウォンは押さえつけていた男を解放した。すぐに下野が駆け寄って、父親の胸に飛び込んで泣き出した。あのぐらいの感動が僕らにはない。

 ウォンが厚い唇で口笛を吹いた。すると間もなく奥の廊下から激しい足音が聞こえてきて、大きな塊が飛び込んできた。

 古本だ。

「カオル!」

 血走った目。突き出た牙。おお、こいつこそまさに飢えている。薫への恋が破れ、妖怪変化へ心身を投じた大男が、巨躯を広げて突っ込んでくる。

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