なかないで
ついに出会った妖怪の元。僕の苦悩の源は、艶然と笑って女臭い煙を吐いている。
「ああー、ダメですってば。コロさん。部屋の中ケムくなっちゃうじゃないですか」
下野がつかつかと壁に歩み寄り、掛かっていたリモコンを操作すると、天井の換気扇が勢いよく稼働して、部屋中の臭気を掃き出した。
「閉め切ったまんまで吸わないでって、いつも言ってるじゃないですか」
「あい、すまぬ」
妖怪はころころと笑った。無邪気だ。さっき僕に向けていた、たっぷりの妖気はどこへ行ったのだ。いったいこの二人は相部屋で、どういう関係なのだ。
ころころ。そうだ、この妖怪には聞き捨てならぬ名がある。
「さっき、ころまると名乗りましたか」
「おう、名乗った」
「それはもしや、その……鞠大名の話に出てくる、あの比丸ですか」
「いかにも!」
後から思えば、この時の僕の発言は配慮を欠いていた。目の前の妖怪――比丸は声を震わせるなり、そのぱっちり開いた瞳からぽろぽろと、珠の涙を零し出したのだ。
「ど、どうしました?」
「おお、あの方……鞠……大名……。言うな、言うな、お前ごときが、私の前で軽々しくあの方のことを呼ぶな……」
泣いて、崩れた。恐ろしいほど頼りなく、春の花さえここまで容易に折れやしない。
「ダメですよ坂本さん。乙女心を傷つけたら」
下野は自分のパーソナルスペースであろうマットレスの上に陣取り、呑気そうにバスケットボールを抱いて唇を尖らせている。
「乙女心……? しかし、この人は確か……」
「おお、おお! 確かに私は男だ。しかし、しかし、あの方のためならば、私はいくらでも……我が身など……」
「す、すみません。僕が無神経でした。そんなに嘆かないでください」
「ほらぁー、坂本さんも彼女いるんだったらあ、もう少し乙女心ってものを理解しなくちゃダメですよ」
僕はどうすればいいのだ。何故こんなに責められねばならないのだ。
愛してもいない乙女の慰め方など知るものか。比丸は袂に顔を埋めてひたすらにむせび泣いている。僕はそれを見つめていることしか出来ない。すると下野の奴が、横合いから要らぬ口を挟むのだ。
「あーあ、坂本さんってばある意味、古本さんよりヒドいですね。あの人はピュア過ぎてダメなんですけど、坂本さんは愛の範囲が狭すぎです」
「君に言われたかぁないよ。ねえ、どうすればいいんだい」
「抱いてみたらいいんじゃないですか? そうしたら気持ち通じますよ」
「そんな、ボールじゃあるまいし」
いや、ボールも本来は抱くものではない。今のは下野だけの話だ。つくづくこいつの話はアテにならない。
しかし、荒れる海もやがて潮が引くように、比丸の嘆きもピークを過ぎたようだ。嗚咽は途切れ、丸めた背の震えは鎮まり、代わりになよなよとした肩がゼエゼエと、上下に動いて息を整えている。
「よい、よい。千恵よ、その男を責めるな。私が勝手に取り乱してしまったのだ。それにむしろ、私は嬉しいのだ。あれから千と数百の歳を越えてなお、あの方を想って心の底から嘆けるのだと、我が心根の一途がうれしゅうて――」
また、泣く。堂々と泣く。
僕は話が出来ず困り果てる一方で、比丸の、虫のようにのたうつ姿に対し、しだいに同情の気持ちを抱くようになっていた。人を愛するということを、ここまで真摯に貫ける性分に、憧れの情さえも湧かぬとは言い切れなかった。
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