におやか、たおやか
地獄の釜か、化物の口の裏。下野の後についてドアをくぐった店の奥には、またしても薄暗いコンクリートの廊下が続いていた。どうやらこの辺りの地下街は表の看板こそ別々だが、裏の方では一本につながっているようだ。そのどこまでが万代老人とウォンの所有なのかは知らないが、行方不明の下野が平然と歩いているところを見ると、少なくともここから見える限り、全てのドアが妖怪の支配下にあるのかもしれない。
僕は黙って下野の後についていく。コンクリートの固い足音が響くばかりで、二人とも言葉はない。老人もいない。これから僕が向かい、相対するモノは、老人にとって非常に重要な存在のはずである。それなのに対面の場に同席しようとしないのは、何か魂胆があってのことだろうが、それが何なのかはわからない。
廊下は意外に長く、寒い。
「下野さんはあれ以来、ずっとここに住んでいるのかい」
「そうですよ。まあ、私は元々ネクラなんで、辛いとか全然ないですけどね」
「聞いてない事までわざわざ答えるのは、本音ではないように聞こえるよ」
「違います。ここに居ればバスボがいくらでも貰えるんですから、外に出る必要なんて全然ありません。……ああ、でも、ちょっとは退屈かもしれません。せっかくバスボと存分に遊べる関係になれたんですから、たまには違った形で……山とか川とか、ピクニックのお弁当代わりに持って行ったり、オープンカフェで本読みながら撫でまわしたり、あっ、私飛行機乗ったことがないんですよ、生まれて最初のフライトで、バスボと一緒に窓を眺めながら旅をできたら幸せだと思いません?」
「ウン。君はどこまでも君だね」
こんな環境を喜べるのは、妖怪か変態ぐらいなものだろう。僕はそうならない。ならないためにここに来た。
「もうすぐです。言っておきますけど、これから会う人、私と相部屋なんです。だから私の部屋に入ることにもなるんですが、あんまりジロジロ見ないでくださいね」
「相部屋……? 女性ですか?」
「会えばわかります」
下野が足を止めたのは、何も知らなければ倉庫かと思うぐらい、質素な扉の前だった。
「千恵でーす。入りますよ」
ノックをするなり、返事もきかず扉を押し開けた。
同居人に対してずいぶん失礼な態度だ、と思う間もなく、僕は鼻を覆った。
扉の中から、むせ返るほど強烈な香りが立ち込めてきた。うっすらと視界が曇るほど濃密に、何らかのお香が焚かれているのだ。それは恐ろしく濃く、鬱陶しいほど毒々しい、女の体臭に似た香だった。
「もう一つ言っておきますけど、私は毎日お風呂に入ってます」
「聞いてません。それより、中に入ってもいいんですか」
「どうぞ。……ほら、コロさぁん。例の人ですよ」
下野はするりと扉の内へ消えた。僕もすぐに後を追いたかったが、あまりの臭いに、中を覗くことすら憚られた。
すると、中から知らぬ声がした。
「これに」
怜悧とした、女にしては骨の太い声。その声には引力があり、僕は惹かれた。
畳があった。八畳ほどの部屋の奥に、一段高い畳の一角があり、そこに時代錯誤な和服姿の女が、枕にもたれるように寝そべっていた。その四方を囲むように香炉が煙を上げており、手にした煙管からも同じものが漂っている。
煙越しに見える女の顔は、いかにも妖怪に相応しく美しい。化粧に縁どられた双眸は妖しく僕を見つめている。
だが、これは本当に女か? 僕の本能は違うと告げている。声の感じ。骨の感じがどこか違う。
問う前に、相手が口を開いた。
「ころまる」
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