ひときり

 愛は偉大だった。

 薫を悲しませまいと、愛の力で無理やり食べた、六つのサンドウィッチ。あれが僕に対する薫の認識を決定づけたのだ。

 ――坂本珊悟はたまっころではない。

 そして、たまっころであり、薫を一方的に恋人だと思い込んでいる古本伸一に恨まれ、追いかけられている。

「珊悟君、今のうちにこっちに逃げて来て!」

 そう叫ぶ薫の姿から推測するに、きっと彼女の脳内ではそのような物語が展開しているに違いない。

「せ、ん、ぱ、い」

 虫のような声で鳴いたのは、地に伏した古本だった。この朴訥な巨人はよほど神経が丈夫なのか、はたまた鈍いだけなのか、二度も電撃を受けていながら恐ろしく復活が早い。

「先輩、なんで俺を……」

「まだ動くの、妖怪!」

「俺は、俺は、人間っす。化け物なんかじゃないから、俺から逃げないで……」

「そう? あなたがたまっころでないのなら、これをご覧なさい」

 薫が懐から取り出して掲げたのは、何故そんなところに入れていたのか不明だが、四角いサンドウィッチだった。

「ぎゃあ!」

 それは幽霊に対するお札のような効力を発揮して、古本を震え上がらせた。

「人間だというのなら、何も怖くはないでしょう。だけどあなたはたまっころ。これを食べて、酷く吐いたのを覚えているでしょう」

「やめて、やめてください。それを見せないで。先輩、俺の事好きじゃなかったんですか」

「全然。友達に誘われてラグビー部にサンドの差し入れに行って、あなたの食べっぷりがよかったから喜んだだけ。それなのにあなたは変な勘違いして、つきまとって、挙句に私のサンドを吐き散らして……。あなたがたまっころに変じてしまったのは気の毒だと思う。だけど、私をおびき出すために、珊悟君を利用する事は許せない」

「えっ。勘違い……? 利用……?」

 古本の体からしなしなと力が抜けた。可哀そうに、この初心な大男にとっては、ラグビーが出来なくなることや電撃を受けたことよりも、恋心をへし折られる事が一番の痛みだったらしい。

「あれ、坂本さん? なんで古本さんは唸ってるんです」

 夢中でバスケットボールに齧りついていた下野が、ようやく事態の変化に気が付いた。

「あっ、あの人掃除屋じゃないですか。なんで逃げないんです」

「僕は逃げないよ、下野さん」

「じゃあどうするんです」

「僕はあっちにいるべきだから」

 愛する人へ。僕は駆けだした。何を迷う必要がある。いかなる時も僕は薫の味方だ。

「ちょっと、坂本さん」

「待て、裏切者!」

 二人の罵声を背に、愛しい人の傍に立つ。薫は目元にうっすらと、心からの安堵を浮かべていた。それが僕のための涙なら、ますます僕はこの人を裏切れない。

「珊悟君。無事で本当によかった。怪我はない?」

「大丈夫だよ。薫ちゃんこそ、あの古本からに逃げていたんだね?」

「そう。あいつはストーカーで、妖怪たまっころ。私の一族はあいつらを始末しなくちゃいけないの。……ゴメン、ちょっと目を瞑っていて」

 薫がポケットから出したのは、得意のパン切り包丁ならぬ、人斬りのナイフだった。

「たまっころには刃物が一番だから」

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