Ⅱ 悪魔の召喚

 それから数日後。


 借りた魔導書をしっかり読み込んだエミリオは、自宅の庭の隅に立つ、誰も使っていない物置小屋でさっそく悪魔召喚の儀式をすることにした。


 魔導書に書かれていた記述によると、儀式を行うにはこうした人気のない荒れ果てた静かな場所が最適であるらしい。


 また、儀式を取り行う前の九日間、節制や断食をして身を清めなければなかったり、占星術的に最適な日どりと時間に行わねばいけないようなことも書かれていたが、現実問題、いろいろと付き合いのある貴族の身にそれは不可能であるし、なによりもそんな長くは待っていられないのでそこは無視した。まあ、風呂に入って聖水を体に振りかけることだけはしておいたが……。


 加えて、儀式に必要な道具も自ら作った方がよいとされていたが、そこもダミアから一緒に借りた、セットでついてきたという用具一式を使わせてもらうことにした。マニュアル通り、悠長に道具なんか作っている暇はない。とにかく恋するエミリオは、一刻も早く愛しいアマリアの心を手に入れたいのである。


「まずは魔法円の製作からだな……」


 小屋へ入ると、付近に誰もいないことを一応確認し、彼はさっそく儀式の準備にとりかかる。


 散らかってるガラクタを隅に寄せ、広いスペースを確保すると、石造りの床にエミリオは魔法円を描き始めた。


 三日月形の鎌とナイフを紐で結わえて作ったコンパスを使い、木製の床に大きな同心円とそれを囲む正方形、その四隅に小さな四つの円を描き、線と線との間の空間に神聖な文字や魔術記号、神々の名などを書き入れる。


「フゥ…こんな感じでいいのかな? お次はと……ああ、その前に〝おめかし〟しなきゃ……」


 魔法円が描けると、エミリオは持ってきた大きな袋から胸に赤い絵の具で魔術的記号の記された白のリネン製ローブを取り出し、それを服の上から羽織る。


 さらに白い革製で、やはり赤字の魔術的記号が施されたブーツを履き、頭には神聖な文字とマークで飾られた羊皮紙の冠、胸に仔牛の革の五芒星ペンタグラム、ローブの左裾に六芒星ヘキサグラムの円盤を着けると、彼は魔術儀式用の衣装にドレスアップした。


「さて、魔法円も清めないとな……」


 すっかり魔術師の装いとなったエミリオは、やはり袋の中から真鍮製の小壺を取り出し、近所の森にある泉で汲んできた湧き水でその中を満たす。


「コホン……真実と生命を創造せし神よ、これなる塩を祝福し、聖別したまえ。また、これより行う神聖なるすべに、御助力と御加護を与えんことを心より願いあげる」


 そして、威儀を正すと呪文を唱えながら少量の塩を加え、そこにハーブの一種であるヒソップの葉を束ねたものを浸すと、それを散水器代わりにして魔法円の上に聖水を振り撒いた。


「これで魔法円の準備はOKだな。えっと次は……ああ、お香か……」


 魔法円の清めを終え、エミリオは手にした魔導書で式次第を確認しながら、次に四隅の円に置かれた香炉に火を灯す。


「えっと……火の被造物よ。我は汝を聖別す。あらゆるまやかしが汝から退散するように。そして傷つけることも、欺くこともないように。万能の主よ、この火によって作られしものを祝福したまえ。それを使うものに悪しきこと起こらぬように……うえっ…ゴホゴホ…」


 それから、またも既定の呪文を唱えつつ、市場で買って来た乾燥アロエ、ナツメグ、ベンジャミンゴム、ジャコウの粉末をそこにくべる。瞬間、もうもうと立ち上がる煙に咽かえったが、それまでカビ臭かった小屋の中は甘くいい香りで満たされた。


「でもってえ、今度はぁ……これで全部かな? ……我はこうべを垂れる。万能の主よ、どうか参りたまえ。その僕たる天使達に命じ、この場所を守らせたまえ。どうか我が祈りをお聞き入れたまえ。代々限りなくべられる、偉大なる我らが主よ!」


 続いて、エミリオは魔法円の所定の位置に蝋燭を立てて灯すと、儀式の成功を願う呪文を神に捧げる。


「よーし、これで準備は整った。それじゃ、さっそく始めるとするか……スぅぅぅー…」


 プァァァァァァ~っ…!


 ようやくすべての下準備をすまし、エミリオは魔法円の中心に立つと、やはりセットでついてきたという木製のラッパを開始の合図とばかりに思いっきり吹き鳴らした。


 そんな大きな音を立てて、誰か来てしまってマズイと吹いてから思ったが、今更なので気にしないことして、そのまま本題の悪魔召喚にエミリオはいよいよとりかかる。


「オッホン……霊よ、現れよ。偉大な神の徳と、知恵と、慈愛によって。我は汝らに命ずる!」


 吹いたラッパを置き、今度は魔法円同様に魔術記号の描かれた金属製の円盤――〝ペンタクル〟を取り出してそれを掲げると、緊張した面持ちで一つ大きな咳払いをしてから、東の方角に向かって〝通常の呪文〟を読み上げる。


 ぎこちない調子で、魔導書に目を落としながら、ただただ朗読しただけであったが、事前にしっかり読み込んでいただけあってなんとか噛まずに唱えることができた。


「……………………」


 しかし、正しく呪文を唱えてもこれといって何も起こらず、薄暗い小屋の中はしん…と静まり返ったままである。


「通常のじゃダメか……なら、今度は……霊よ、我は再度、汝らを召喚する。神の呼び名の中で最も力あるエルの名を用いて!」


 〝通常の召喚呪〟では無理と見ると、エミリオは魔導書の記述に従い、左手のペンタクルに加えて右手には短剣ダガーを持ち、〝さらに強力な召喚呪〟というものを唱える。


「……………………」


 だが、ウケない道化師の芸の如く室内は静かなままであり、それでも悪魔は現れようとしない。


「またダメか。ほんとにこれで悪魔を召喚できるんだろうな? とにかく、そういう時はぁ……こうか! えい! どうだ!」


 うんともすんとも言わぬ無反応な状況に、だんだんと手にした魔導書に疑念を持ち始めつつも、それでもエミリオはそのマニュアル通り、右手の短剣をもって空中を力強く斬りつけた。


「霊達よ、我は汝らに強力に命じ、絶え間なく強制する! アドナイ、ツァバオ、エロイムなど、様々な神の名によって!」


 そして、その短剣を地に置くと両膝立ちになり、〝極めて強力な召喚呪〟を声高々に唱える。


「…………クソっ! これでもダメなのか…」


 なおも静寂に支配された室内に、エミリオがそう思って愚痴を零した矢先。


 ……ドドドドドドっ…。


 どこからか、大勢の人間が一斉に駆けているような、低い地響きが微かに聞こえてきた。


「な、なんだ……?」


 その地響きに耳を澄ませると、それは次第に大きくなってきて、何かがこちらへ近づいてきているようだ。


「……なっ!?」


 いや、音ばかりではない。すぐ間近まで地響きが迫った次の瞬間、目の前の石壁が崩れ、古めかしい甲冑や盾で身を固め、槍を手にした多数の兵士達が現れる。


「ぐ、軍隊!? ……い、いやこれは……」


 一瞬、プロフェシア教の革命派〝ビーブリスト(聖典派)〟が反乱でも起こしたのかと錯覚するエミリオだったが、この現象には思い当る節がある。


 ……ヒヒィィィーン…!


「どう! どうどう……」


「はいやっ……」


 押し寄せる兵を前にしても逃げずにエミリオが見守っていると、案の定、続いて馬に乗った将軍らしき身なりの騎士や、男爵、公爵のように煌びやかな衣装に身を包む男達が兵に続いて現れる。


 それは、魔導書『ソロモン王の鍵』に描写されていた、段階を追って現れる悪魔の軍団の姿そのままだったのだ。


 パーパパパパ~パパパパ~パパパパ~!


 そして、その軍団の最後には、楽団の調べに荘厳されながら、明らかに王と思しき風格を持った者っが威風堂々と現れる。魔導書の通りならば、それは見た目どおりに悪魔達の王なのだろう。


 やはり悪魔というからには、もっとこう鋭い角や尖った尻尾の生えた、たいへん恐ろしげな異形の者達のように想像していたが、彼らは一見、生身の人間と寸分違わぬ姿形をしている。


 しかし、その顔は皆一様に蒼白で精気がなく、薄闇の中で爛々と輝く赤い眼からしても、彼らがけしてこの世のものでないことは明白だ。


「……ハッ! そ、そうだ! こ、これを見ろ! 誰もが膝を屈する偉大なる主の御前で、おまえも膝を屈するがよい!」


 突如として目の前に現れた悪魔の軍団に、しばし呆然と立ち尽くしてしまうエミリオであったが、ふと自らの行うべきことを思い出すと、胸につけた五芒星ペンタグラムを見せつけながら、悪魔を従わせる呪文を口にする。


「うむう……恐れ多くも主の名を口にする者よ、そなたは我らに何を望む? 如何なる理由で我らを地獄の底より呼び出した?」


 すると、五芒星ペンタグラムの効果てき面! …だったのか? 予想に反してあっさりと、王を筆頭に悪魔達はエミリオの前に跪き、やけに素直に従って召喚の目的を問う。


「あ、ああ……ぼ、僕の望みはただ一つ! アルパ公爵の娘、アマリア・デ・アルパとの恋の成就だ!」


 腹に響く、まさに地獄の底より絞り出されたような声ではあるが、問われたエミリオは少々肩透かしを食らった感を覚えながら、それでも気を取り直して堂々とその目的を告げる。


「フン。ただの色恋沙汰か。ならば容易たやすいこと。そのアマリアなる者はすぐにそなたの虜となろう」


「ほ、本当か!?」


 すると、なんだか小バカにするように鼻で笑い、やはり呆気なくも色よい返事をして寄こす悪魔の王に、エミリオは思わず顔を明るくして喜びを露わにするのであったが。


「ただし、一つ条件がある。そなたの願いをかなえる代わりに、こちらの望みも一つ聞いてもらおう」


 悪魔は続けて、そんな交換条件を付け加える。


「の、望み……?」


「なあに、難しいことは言わん。今すぐにでもできる簡単なことだ。赤子や腰の曲がった老人にだってできる。もしその望みを聞いてくれたならば、愛しいアマリアはもうそなたの手の中ぞ? どうだ? こんな簡単な話は他にあるまい?」


「ほ、本当だな? ほんとにそんな赤ん坊でもできる簡単なことなんだな?」


 悪魔が出す申し出に、一瞬、警戒の色を見せるエミリオだったが、蒼白な顔に似合わず饒舌な悪魔の言葉と、その先に待っている薔薇色の未来に心奪われ、彼の気持ちは大きく揺れ動かされる。


「ああ、本当だとも。悪魔は嘘を言わん」


「で、でも、それっていったいなんなんだ!? 僕は何をすればいい!?」


「それはこっちにもいろいろと事情があって、その魔法円の中にいる限り教えることができん。知りたくば、ただ〝うん〟と言って、その円を出てこっちに来てくれ。それだけでもう、女はそなたに夢中だぞ? さあ、どうした? 女がほしくないのか?」


「…………よし、わかった。その条件、飲んでやろうじゃないか」


 なにやら先日のダミアとの一件を髣髴とさせるが、世間知らずな貴族のお坊ちゃまは人の話に乗せられやすいのか、高嶺の花の令嬢という餌に釣られたエミリオは、とうとう悪魔に頷いてしまった。


「フフフ、良い返事だ。やはり若者はそうこなくてはな。さあ、早くこちらへくるのだ。愛しい女がおまえのことを待っておるぞ?」


「…………ゴクン……あ、ああ。今、行くよ……」


 そして、血色悪くも愛想の良い悪魔に誘われるがまま、大きく一回、喉を鳴らすと、恐る恐る魔法円の外へと足を踏み出した――。

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