短編

紫檀(むらさきまゆみ)

ああ、夏め。




わたしが十五か六のころの話です。

ちょうど、そこにあるような綺麗なカサブランカの生け花が、窓のそばの日向に飾られる、夏のもっとも盛んな時分でした。


わたしが住んでいた近くには、図書館がありました。

木で出来た小さな建物で、夏場にはじっとりと汗ばむような暑さになるところでした。

わたしはどちらかというと内気な性分でしたので、大きな休暇のあいだを他の女学生たちと埋め合うことは出来ませんでした。代わりに、この図書館で多くの時間を過ごしたのです。


少しじめっとしていて決して快適な場所ではないけれど、余計に動きまわらなければ我慢できないほどではない。むしろそのせいか、受け付けに座っている司書のおじいさんを除けば、多くの場合わたし以外に人が来ることはありませんでした。

そんな、住み心地はよくないが、わたし一人だけの時間を与えてくれる場所を、わたしは存外気に入っておりました。



ある日、わたしがいつものように図書館へ行くと、受け付けの向こうに見慣れない一人の女性が座っていました。

ふだんぼんやりとそこに座っているおじいさんの代わりに、長い黒髪の映える綺麗な女性が、そのまっ白な細い指先で本のページを捲っていたのです。

わたしはドキリとして、さっと受け付けの前を横切りました。

その明らかに周囲とはコントラストの違う人物像を、わたしは敢えて見る事が出来ませんでした。


今日は高い棚にある本は諦めよう。


わたしはいくつかのタイトルが書かれたメモ用紙をギュッと握りしめて、図書館の隅の方へと身を隠しました。



次の日、図書館へ行くとまた、その女性が受け付けで静かに本を捲っていました。


わたしはどうしたものかと考え込んでしまいました。

どうしても手に取りたいと目星を付けた資料が棚の一番上にある。しかし背伸びをしたところでとても届きそうにはありません。

椅子に乗れば届きそうだけれど、いくら周りに人がいないとは言えあまりに行儀がなっていないような気がして、どうにも躊躇われました。


さて、どうしたものか。


「何かお困りかしら」


とつぜん凛と鳴った声に、わたしはギョっとして振り返りました。


見やると、いつの間にか、本棚の足元で考え込んでいたわたしのすぐ隣に、その女性は立っていました。

スラリとした佇まいに、揺れるつややかな黒髪、吸い込まれるようなブラウンの瞳。

器量が良いのとは別の、一種異様なアトマスフィアが、間近で見るといっそう感じられました。視界の中心に彼女を捉えると、まるで周囲の背景すべてにグレーのヴェールがかけられたかのような気がするのです。


「ごめんなさいね。でも、何かに悩んでいるようだったから」

あっけにとられて静止しているわたしに対して、ちょっぴり申し訳なさそうな微笑みを浮かべながら女性は言いました。

「本のことならきっと助けになれるわ。それが仕事だから」


はっとして、わたしはおずおずと、手の中のくしゃくしゃになったメモを広げて一つのタイトルを指差した後、おもむろに指先を棚の上の方へと向けました。


女性は一言、「一寸待ってて」というとどこかへ行きました。

しばらくして、小ぶりの脚立をたずさえた彼女があらわれました。

「これで届きそうね」

そう言うと、わたしが手伝うか手伝うまいか決めあぐねているうちに、彼女はさくさく脚立をたててしまい、慣れた素振りで上へ昇って行きました。

結局わたしは、彼女の重みを支えて骨組みを軋ませている脚立に、そっと手をそえることしかできませんでした。


目的の本を手に取った彼女は、脚立の上からそっと表紙をこちらに向けてくれました。「これ?」

わたしが頷くと彼女はにっこりと笑って、「よかった」と言いながら本を手渡してくれました。



次の日も、そのまた次の日も、わたしが受け付けまでおずおずとメモ用紙を見せに行くと、彼女は本を取るのを手伝ってくれました。彼女はいっさい嫌がったり面倒がったりせずに、「今日もたくさん読むのね」とやわらかくほほ笑むのでした。


親切な彼女の後ろ姿を見つめるうちに、彼女の背中に規則正しく並ぶ脊骨が、ふつうと比べてやけに突起していることに気付きました。

手を伸ばして本を取る時の、ピンとはりつめた彼女の背中に規則正しく浮き上がる脊骨は、彼女のどこか人間ばなれした美しさを助長しました。

彼女のそういった後ろ姿を見ていると、じっとりと暑いはずの屋内がやけに涼しく感じるのでした。


ある時、目的の本の場所が分からなくなったのか、彼女が本棚の前でしばらく立ち止まったことがありました。

棚に手をかけて静止する彼女の背中を見ているうちに、わたしはついに我慢ならなくなり、彼女の脊骨にそっと指を触れてしまいました。

彼女は一瞬驚いた表情でこちらを見ました。しかしすぐに視線を本棚に戻すと、「気になる?」と少し恥ずかしげに言いました。

「脊椎カリエスの痕なの」

わたしは慎重になって、脊骨のひとつひとつに指を這わせました。

彼女は抵抗する素振りを見せませんでした。ただひと言「くすぐったいわ」と言ったような気がします。

一瞬とも、永遠ともとれる時間の中で、指先に感じる鼓動がはたしてわたしのものなのか、それとも彼女のものなのか、皆目見当がつきませんでした。


もしかしたら、彼女はとうに本を探し終えて、わたしの満足のゆくのを待ってくれていたのかも知れません。

タイトルを読み上げる彼女のことばで、わたしたちの逢瀬は終わりを迎えました。




休暇が明けて、わたしは学業に縛り付けられ、しばらくのあいだ図書館に行くことはありませんでした。


秋が過ぎ、冬に差し掛かった頃、数ヶ月ぶりに図書館を訪れると、受け付けには見慣れたおじいさんが座っていました。


冬が過ぎました。春がやってきました。夏になるとまた長い休暇が与えられました。

しかし受け付けに彼女の姿を見ることはありませんでした。


彼女がわたしの性徴に与えた打撃も、ゆるやかではあるが、確実に薄れてゆきました。


また次の夏がやって来た時、受け付けのおじいさんの隣には若い青年がいました。

ひと夏を経て、その青年とわたしは初々しい恋に落ちました。

幾度かの夏を経て、青年とわたしは結ばれました。

幾十度かの夏を経て、青年はわたしより先に旅立ちました。


今年もまた、夏がやってきました。

カサブランカの綺麗な夏が。

看護師が窓辺に飾ったカサブランカを見る度に、ふとあの女性のことを思い出してしまう。

夢だったのではないかと疑うほど、あの記憶は美しいものとなって、今さらにわたしの胸をしめつけるのです。


一体どうされたものでしょうか。




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短編 紫檀(むらさきまゆみ) @takahashi_shitan

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