ぼくの胸ポケットは令嬢の足
溝口 あお
序章
ねえ、あたくし退屈なのよ
彼女は雨の降る窓の外からぼくに目を移して、甘えるみたいにそう言った。
「いつも楽しい事をしていそうなあなたの口から、退屈なんて言葉を聞くとは思いませんでしたよ」
あたくしだって、退屈するのよ
何もかも飽き飽きしてしまう事
あなたにはない?
「うん、まあ…あるのかな」
そうでしょう?
雨のせいで広がってしまう、とくるりと巻かれた黒髪を相変わらず不機嫌そうに弄りながら、彼女は唇を尖らせた。
退屈はいけないわ
何か楽しい事を考えなくては
「また旅に出れば良いじゃないですか」
それも良いけれど
何だかそれにもマンネリズムを
感じてしまっているのよ
何か新しい事を
探さなければいけないんだわ
あなたも何か、一緒に考えてちょうだい
きっと彼女にとって、ぼくの考える楽しい事は平凡すぎる。
映画を観る、本を読む、少し散歩してみるとか、簡単に手に届くものでぼくは大体満足だけれど、彼女という生き物にとってしてみれば、それはどうなんだろう。
ぼくのシャツの袖を、小さな手がくいくいと引っ張る。これは彼女の何かを強請りたい時のいつもの合図だ。
あたくし、良い事を思い付いたのよ!
彼女の歳は知らない(歳という概念がそもそもないらしい)けれど、それは新しく買ってもらったばかりの素敵な洋服を着てうきうきと出掛けて行くティーンエイジャーの女の子みたいな笑顔だった。
あなたの住む世界を見ていないのよ
沢山見てみたいわ
連れて行ってちょうだいな
手に持ったコーヒーカップを、危うく落としそうになった。何て無茶な事をと目の前の困惑顔をまるで意に介さない彼女の笑顔が眩しくて、ぼくは只々冷や汗が止まらない。
「ぼくが、連れて行くんですか。あなたを?」
あなた以外の誰がいるのよ
大丈夫よ。あたくしきっと
上手くいくよう考えるわ
ねえ、いいでしょう?
「そうは言っても…」
彼女の顎のあたりで切り揃えて波打つように巻かれた黒髪と、いつも素敵に着こなす大正時代の良家の令嬢を思わせるレトロな着物と、小さな足に履かれた白いレースの足袋を順に眺め、それから、深くため息を吐いた。
心苦しいが、彼女のどうしようもなく覆し難い事実を盾にする他ないらしい。
「あのね、みどりさん。ぼくらの世界には、あなたみたいに小さな人間はいないんです。もし見つかって仕舞えば、たちまち大騒ぎです。そうなった時、上手く立ち回れる自信が無いですよ。ぼくは」
彼女――みどりさんの背丈はぼくの人差し指くらいだ。
*
出会いは突然だった、で始まる恋物語のように素敵な予感漂う出会いというには、些か間の抜けた出会いだった。
ある日の夜のこと。仕事から帰ったぼくのアパートの近くで、野良猫がしきりに鳴きながら跳ね回っていた。ネズミか虫を狩ろうとするような動きだ。その爪がしゅっ、と虚空を掻いたその時、きゃあ、と小さな悲鳴が聞こえたのだ。
まさかネズミや虫がそんな女子のような声を発するわけがない。猫が必死に前脚を伸ばしている花壇の隅を、ぼくは何気なく覗き込んだ。
そこには小さな着物姿の女性。花壇の隅の僅かな窪みに身を寄せ、トランクを胸に抱きかかえて震えているではないか。
その時ぼくは当然、そんな非現実的なものが見えてしまった事を、日頃の疲れから幻覚を見たのだと思おうとした。それか非常に良くできた人形なのだと。今ぱっとそれと目が合った気がしたけれど、きっと何かの勘違いだ。
ぼくは家へ帰ろうとした。
ちょいと、あなた助けてちょうだい!
見て見ぬ振りなんて
紳士のやる事じゃないわ!
涙目になりながら、恐怖とぼくに対する憤りのあまりに自棄を起こして胸に抱えたトランクを思いっきり投げつけ、その重量感ある角が的確にぼくの左手の甲を捉えて抉った。その痛さたるや、モデルガンから射出した弾丸が手の出っ張った骨の部分にクリーンヒットした時の痛さを想像していただければそれに近い。今にして思えば何故その一撃必殺を猫相手にやらなかったのか。
かくしてぼくは、いきり立つ猫の脇腹に手を添え持ち上げてそれから遠ざけ、訳の分からぬままその隙に放られた意外と重いトランクと涙目のそれを両手で包み、一目散にアパートの二階へ駆け上がった。トランクを投げつけられた上に猫に情け容赦なく引っ掻かれた左手の甲が痛かった。
家に入るなり、見ず知らずの小人の女性にくどくどと見捨てようとした事に対する小言を浴びせられ、ぼくはしばらく肩にかけた荷物を降ろすことも許してもらえなかった。
恐怖心と目に溜まった涙はその内に引いたらしい彼女は、部屋の中央に置かれたローテーブルの上でちょこんと正座をした。
ほんとに、恐かったのよ
酷い目にあったわ
助けて下さって、有難うございます
それが、みどりさんとの出会いだ。
ちなみに彼女は全くの無傷で、幾分かぼくの方が酷い目に遭わされている気がするけれど、まあそれは置いておくとしよう。
彼女は、自らを旅する生き物だと言った。
生まれてこの方、気付けば旅をして生きてきたのだと。
人間なら赤ん坊の姿で生まれてくるはずが彼女は今のこの姿形でこの世にたった一人で生まれ落ち、母親らしき人に抱かれた記憶も無ければ今現在の所在も分からず、そもそも居るのかどうかも分からない。
生まれたての頃の記憶が余りにあやふやだと言った。
母体を介さずして生まれる命があるとは思えないけれど、小人の常識として考えればそれもあり得るのだろうか。
さみしいとか悲しいとか
思った事はなくてよ
何処にも縛られなくて
どこまでも自由なのだもの
彼女の旅は、所謂自分探しでも自分の属する場所を探し求める旅でもないらしい。
みどりさん曰く、旅に出るための入り口は其処彼処に点在しており、みどりさんはいつでも何処でも開かれているその場所から別の場所へ入り、その世界を見た後何処にでも繋がっている出口を経て、また新しい入り口を目指す。その繰り返しが彼女の旅だ。そしてそれらは当然彼女ら小人にしか見つけられない。
出口というものがたまにいつもの拠点ではなく変な場所に繋がっていることもままあるらしく、しかし今回ぼくら人間世界へ出てきたのは自分の求めた事でもない只の偶然で、初めての事だった。何もかもが大きく、色んなものを見てきて肝が据わっていると自負していた自分の心を好奇心と恐怖で震わせながら彷徨っていたところに暴漢(暴猫?)に襲われてしまったのだ。
みどりさんは僕の家を、旅の拠点にしたいと願い出た。
「ぼくは別に構いませんけれど…大丈夫ですか」
何がかしら?
「ほら一応…男の独り住まいですから」
こんな事初めてだけれど、きっと何とかなるわ
それとも何かしら
あなたこんな小さなあたくしに
変な気を起こすとでも?
「そんなまさか!」
生活も普段通りにしてて下さって
構わないのよ
「でも、ぼくらお会いしたばかりですけど、そんな簡単に見ず知らずの男を信用していいんですか」
これはあたくしの持論なのだけれどね
情けない姿をお互い見せ合った相手なら
信用できるのよ
今更変に気取らなくて良いのだもの
あたくし達、きっと良いお友達になれるわ
どうやら彼女の旅の道連れになってしまったらしい。旅は道連れ世は情け。非現実的な事だらけで色んな感情が覚束ないのに、どこかそれを面白がっている自分がいた。日頃友達になかなか会えず、世間話に飢えていたのもあったかもしれない。
承諾の意を告げると彼女は大層喜んだ。
それじゃあ、よろしく
仲良く致しましょう
きっとこれから、楽しくなるわ!
ぼくの人差し指と、みどりさんの米粒くらいの手で、ささやかな握手を交わした。
*
ぼくらの世界を見てみたい、とみどりさんは言う。猫に襲われたあの夜から暫く経ったとはいえ、あの怖かった思い出からもう嫌になってしまったかと思っていたけれど。
猫とか怖いことから
あなたならあたくしを
また助けて守ってくださるでしょう?
ぼくも大分全幅の信頼を寄せられるようになってしまったらしい。それでも、小人を連れて歩くには数多の難関があるような気がしてならない。助けるも守るも、ぼくに出来るものだろうか。
やる前から考え過ぎるのはある意味ぼくの悪い癖だ。
対してみどりさんはとてもせっかちだ。
ねえ、ねえ、いいでしょう?
あたくしきっとお利口にしているから!
「うーん、でもなあ…」
もう、いいのかいやなのか
はっきりお言い!
早くしなければ
お砂糖で珈琲の底をざらざらに
してやるんだから!
せっかちが極まると自棄になる。
自分の背ほどもあるスティックシュガーを肩に担ぎ上げ、それも三本まとめてコーヒーカップに流し入れようとするものだからぼくは慌てて手で遮った。ぼくは甘いものが苦手で、コーヒーだって勿論無糖派なのだ。
そしてみどりさんはとても力持ちだ。
…さて、これは断るに断れなくなった。
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