鮒と花灯篭

溝口 あお

 


 明朝から降り続く雪が、空をほろほろと踊る。


 皆寝静まって辺りはしんとしている。わたしはうつらうつらとしつつも寝る気にはなれずに煙管を片手に格子窓に寄りかかっていた。

 ふうと煙を吹くと、それは埃みたいな雪を少し散らして淡い寒空の白さに溶けて消えた。


 今朝方、一人の遊女がひっそりと死んだ。

 お歯黒どぶに浮かぶそれを最初に見つけたのは、客が帰って行った後湯屋へ出掛けようと歩いていたわたしと連れの妹分の夕顔だった。最初は積もった雪か大きな鯉だと思ったものが人の姿をしているのを知るや、夕顔はひぃ、と悲鳴を上げて廓の男衆たちを呼びにばたばたと戻っていった。わたしは凍りついたみたいにそこに立ち尽くしてそれを眺めていた。わたしの良く知る遊女だった。水の中を泳ぐ魚にも積もる雪にもなりきれなかったそれはすぐさま駆け付けた男衆たちの手で乱暴に水揚げされた。

 その後一通りの処置の後に質素な木桶の中に入れられ、日の当たらない暗い裏門から人知れず吉原を出て、今頃は供養もされないまま寺に投げ込まれている事だろう。

 生きては苦界死しては浄閑寺。とは誰が言ったのか。


「葉月さん、マブがいたんだって」


 死んだ遊女の名前を、涙でぐずぐずになった鼻を鳴らしながら夕顔は言った。


「ここしばらくの間来なくなって、それが人づてにその男が病で死んだって聞かされて、葉月さん、辛かったんだね。そこまで好きになっちまったんだね」


「マブ作るなんてろくな事になりゃしないよ。だから地獄を見るんじゃないか」


 ああ、いやだいやだ。傍で聞いていた同じ廓の遊女が吐き捨てるようにそう呟いて立ち去るのを、夕顔は涙の浮かぶ眼でじろりと睨みつけた。

 遊女の身の上で一人の客に恋焦がれる事はさしずめ今にも千切れそうな藁に縋るようなものだ。相手の男が良き人格者で金持ちの人間なら身請けされて幸せになれる可能性はあるものの、そんなものは運に恵まれた者だけの夢物語でしかない。

 廓の外で生きる女達にとっては容易に叶う恋が成就しなければ、一人寂しく老いていくか葉月と同じ惨めで侘しい死しかわたし達の行く末には用意されていない。まず恋などせずとも、この場所では絶えず身近なところに死の気配は蔓延っている。完全に健康で、傷一つない体で寿命を全うする事すら容易に叶わない。ぼろぼろと花を散らすよりも簡単に女達は死んでいく。

 ここに来る男どもは綺麗に咲いている頃を良いように弄び、さんざん甘蜜を吸い尽くして枯れる兆しを見た途端に花は枯れるものだからして致し方なしとばかりにいとも容易く女を捨て去る。捨て去られた花の無残な死骸なんか誰も目もくれない。

 わたし達もきっとああやって死ぬ事が決まっている。

 どうしようもない非人道的な事実を前に夕顔は何も言い返せず、悔しそうに唇を噛んで咽び泣く事しかできない。ぶるぶると震えた肩が、見ていてかわいそうだった。


 どぶに浮かんだ葉月の死体は青白く、憐れなほどぶくぶくに浮腫んでいた。あんなに綺麗だった面影をつゆほども感じさせないくらいに。あんまりな死に様だった。

 そうなるのを承知の上で、葉月はたった一人、自らどぶの底に沈む事を選んだのだ。

 過去にも同じくどぶに身を投じた遊女がどれだけいたことか。

 夕顔みたいに泣ければよかった。でもわたしはあまりにもこの苦界の無情を見すぎていた。


「右京ねえさん」


 幼い声に振り向くと、禿のすずが立っていた。

 すずは去年女衒に連れられてここへ入ったまだ五つの児だ。


「ねむらないの」

「目が冴えちまってね。あんたも今のうち寝とかないと夜寝小便するよ」

「しないもん」


 すずはむすりと小さな口を尖らせた。胸の前で手を擦り合わせて何か物言いたげな思案顔を俯かせ、しばらく黙り込んでしまった。わたしはすずが何を言いたがっているかはもう分かっている。すずがあと何年後か、物事の分別がつくようになるまでは少なくとも、その言葉にわたしは茶を濁すような言葉しか返せない。


「葉月ねえさん、どこ行っちゃったの」


 すずは、葉月によく懐いていた。


「・・・さて、わたしも知らないんだよ」

「朝起きたらいきなりいなくなっちゃってたんだよ」

「わたしも吃驚さ。でもここではよくある事さね」

「みんなどこ行くの。また会える?」

「多分ね。そのうち」

「右京ねえさんも、どこか行っちゃうの」

「・・・いつかはいなくなるんだよ。誰でも」


 すずの淋しそうな顔をあまり見ないようにして、煙管の煙を燻らせた。いつかは誰かから聞かされるだろうけれど、今はもう誰かの泣き面を見るのは懲り懲りだ。

 煙草盆の灰吹に煙管をカンと叩きつけて、すずの傍を通り抜けて自分の寝床へ向かった。寝る気分ではないけれど、寝て全て夢にしてしまいたかった。


 *


 暮六つ頃には雪は漸く止んだ。

 三味線の爪弾くお囃子を寝不足の耳でぼんやり聴きながら、刺すように冷たい裸足をさり気なく摩る。誰が言い出したのやら、どんなに寒くても裸足が遊女の粋な嗜みなのだ。

 格子越しの闇の中で、早く目当てを見つけて中で温まろうとこぞって押し寄せ、ぼんやりとした提灯の明かりで光らせたお客の双眸が此方を覗き込む。そちら側からすれば、わたし達は真冬でも裸足の幻想の生き物で、見世物でしかない。


「右京さん」


 年若い男衆がこそりと声を掛けてきた。お客が付いた合図。


「今宵のお客なんですが、ちょいと風変わりなお人でして」

「どんなだい」

「もう座敷に通したので会ってみれば分かるかと・・・なんでも右京さんを描きたいとか」

「描く?」

「絵師なんだそうで」


 見たことはないが、当世の浮世絵に遊女も描かれるとは聞いたことがある。その多くは春画だとも。

 そして何故かわたしを選んで声をかけるとは。


「絵師ってのは会うのは初めてだ」

「前にも是非描かせて欲しいと絵師が来たことはありましたけどねえ」

「見られながら男に抱かれろってのかい?悪趣味な」

「どうするのかはさておき・・・まあ会ってみてくだせえ」


 重い着物を引きずりながら、冷えた廊下を進む。ますます冷え切った裸足が痛い。

 襖をすっと開けて、畳に手をつき頭を下げ、しおらしく控えめに「ようこそおいで下さいました、旦那様」といって挨拶するのがいつも通りなのだが、わたしは長年の勤めで慣れたはずのそれを忘れるくらいに、そこにいた人物に驚いていた。

 遊女と男が色事に興じる場で、まず女の客は来ない。はずだという思いを裏切り、そこで座っていたのは紛れもなく女だった。男どもはそれなりに身なりをしゃんとさせて来るのに、その女は何年着古したのか所々皺になってよれよれになった着物に、髪も日本髪に結わえてこそいるが鬢油を使わないのかボサボサと髪が四方八方に飛び出て形が歪に崩れかけている。蝋燭でてらてらと光る肌に至っては白粉すら付けられていない。身なりにはあまり頓着しない性格が一目見て分かる。お世辞にも良い出で立ちとは言えない不器量な女。


「お初にお目にかかります。右京と申しんす」


 漸く我に帰り、畳に手をついた。


「ああ、驚いたろ?お客が女で」


 女はにやりと笑いながら蓮っ葉な物言いでそう言った。女なら女らしく慎ましく可愛げのある声で話すもんだれど、この女には全くそれらしさがない。


「はあ、些か」

「女を抱く悪趣味な女だと思ったかい?」

「そこまでは思っとりんせん」

「大丈夫、あたしははたから見りゃ変チキだろうけど、そんなトチ狂った事ァしないよ。トチ狂ったもんは描いてみたいけどね」

「お姐さん、女だてらに絵師だと聞きましたけれど」

「うん、そう。今宵はあんたを描いてみたい」


 何処の馬の骨とも知れない男に抱かれるよか楽な仕事だろ?

 そう言うと脇に置いていた風呂敷から漉き紙と面相筆を取り、畳の上に広げてみせた。


「わっちは如何すればよろしいので?」

「そこに座ってくれれば良いよ。何なら寝てても良い。ただしあまり動かないで欲しいね」

「承知しんした」


 わたしは行燈の灯る窓辺に座り込んだ。今朝雪を眺めて煙管を燻らせたのと同じ場所。

 煙草盆を引き寄せて、煙管を咥えた。


「あたしも一服したいな。火をくれるかい」


 女も懐から煙管を取り出し、雁首を抑えて煙草葉を詰めた。マッチを擦ってそこに着けてやると、女は美味そうに煙をふかす。


「煙草を飲むのもしばらく辞めてたんだけどねえ」


 口をすぼめて天井へ煙を吐き、些か苦々しげに顔をしかめた。


「親父が描いた絵に、あたしの吸ってた煙管から火種が落ッこちてさ、折角仕上がりかけた絵が台無しになっちまった事があって、それで辞めにしてたんだ」

「親父殿も、絵を描くお人?」

「まあ絵師だね。とびっきり変チキな親父絵師さ」


 硯で擦った墨の濃淡を慎重に確認してから、筆の先を浸したかと思うと、絹を触るみたいにすうっ、と漉き紙の上を弧を描いて滑った。一切迷いのない動きだった。


「女で絵師として世を渡るのも容易ではなかろうに、遊郭に来るとはさぞ儲かってるんでしょうねえ」

「さてね。親父の名前ありきだろうさ」

「随分名の知れたお人なのかしらん」

「北斎ッてんだ。知ってるかい?」

「はて。わっちはこの吉原から出られん身でね。お生憎様」


 窓に目を向け、煙管の煙を細く吐き出す。大門はとっくに閉められ、周りの遊郭がそろそろ見世閉めの頃合いとなると、先ほどの喧騒が嘘のように静まり返る。壁一つ、襖一枚を隔てて遊女と男が睦み合う気配すら感じず、ただ目の前の女の鋭い視線と繊細な筆の運ぶ音だけが、今のわたしの世界の全てだった。

 狭い世界で息が詰まりそうな思いでわたしは泳いでいるのに、筆を手にした女はどこまでも広々と清々しく、自由に踊る魚だった。


「そう言えば、どうして態々わっちをお選びなすったんです?描く遊女なら誰でも良かったでしょうに」


 息を止めていたのか、ふうと大きく溜息をついて筆を置いた頃を見計らって、尋ねてみた。

 女はぽかんとわたしを見て、考えあぐねながら頭をがしがし掻く。ますます髪型が崩れてしまった。


「勘、ていうのかね。なんとなく格子越しに見てて、あんたが目についたんだ」

「そりゃまたどうして」

「媚びた目をしてない女がいる、ってさ」


 今度はわたしの方がぽかんとする番だった。


「遊女ってのは男が付いてなんぼの商売なのに、男を誘うでも愛想振りまくでもなくこっちを睨んでる感じ、ってのかな」

「そんなに目つきが悪うござんしたか」

「あるいは元気が無いせいなのかな」

「・・・案外目敏いこと」

「稼業柄ね」


 そっと前髪に挿した鼈甲の簪に手をやり、引き抜く。

 使い古されて少しの傷は目立つが、内から蜜が溢れるようにとろりと艶めく牡丹の花を象った造詣が美しい。顔の周りには華やかな物を着けるといっそう綺麗に見えるのよ。とその人は言っていた。


「今朝早く、人死にがありんして」


 こんな事はお客に喋る事ではないとは思いつつ、それでもぽろりとそれらは口から溢れてしまう。きっと本心では誰かに話したかったのかもしれない。

 女は筆を持ったまま、真っ直ぐこちらを見据えた。


「吉原で人死にとは。足抜けかね」

「遊女自らどぶに入ってぷかりぷかりですよ」

「こういうのもあれだけれど・・・吉原じゃ珍しい話じゃなかろうよ」

「わっちも此処で長いですから。そういう女達は多く見てきんした」

「この廓の遊女かい」

「ええ、よく知る人でね」


 掌で弄んでいた簪を差し出す。ちらりとこちらの顔を一瞥してから女は手に取り、蝋燭の光に鼈甲の蜜の色を透かすようにして眺めた。


「その遊女から譲り受けたものです」

「へェ、鼈甲の牡丹とは。細工も見事で上等だね。しかしこういう代物を持つにも自分の甲斐性一つなんだろ。その遊女、儲かってたんだろうね」

「値打ちは分かりゃしませんけれど。客に貰ったものなんだと言ってましたよ」

「すると随分見初められてたと見える」

「・・・それを易々とわっちに譲ったんですよ」


 煙管を咥え力なく煙を吐き出した。白い靄の中で向かいの女の顔も、美しい簪の光も霞んで見える。周りのもの諸共、わたしの顔も白く隠してしまいたかった。



 これ、あんたにあげる。

 わたしにはもう、必要ないものだから。


 そう言って簪を握らせた葉月の顔は、笑っていた。

 明るく晴れ晴れとしたその様子を見た時、胸の奥底に何かざらりとした、手触りの悪いものが掠めるような不快な心地がした。

 はっきりとした嫌な予感に、わたしはその簪を何度も断って返そうとた。


 あんた、あまり見回り品に頓着しないだろ?せっかくのべっぴんが台無しよ。これ、あんたに一番似合うと思ってさ。


 困惑顔のわたしを他所に、葉月は一足早く春が来たかのように溌剌としていた。その後もころころと笑いながら何事か話していたが、それは他所の国の言葉で綴られた御伽噺みたいで。まるで頭に入らず、わたしには理解できなかった。

 ふつりと焦りが湧いてきた。どうしよう。簪は受け取れない。何かがおかしい。どうしよう。葉月がどうにかなってしまう。

 葉月はわたしと同じ頃に初見世に並んだ。同じ年頃の遊女たちの中では仲が良かった。廓では女同士が客を取り合い貶め合うぎすぎすした空気の中でも葉月は朗らかに渡り歩き、みんなから好かれていた。

 葉月の負の表情を、見たことがない。

 遊女の死は確かに何の珍しい事ではない。でも、葉月に限ってそんな事は起きないと、わたしは思いたかった。


「ねえ、葉月どうしたの。あんた今日変よ。これだって、大切なお客から貰ったんだろ。そんなの受け取れないよ」


 葉月にマブがいる事は知っていた。

 夜見世の始まるまでの僅かな時間で文をしたためては、男の来る日を待ち望んでいた葉月の嬉しそうな横顔を、わたしはいつも複雑な心持ちで見ていた。

 結局その逢瀬はこの廓の中でしか、現実的に大金を積まずしては叶わない。一夜の夢から醒めてしまった時、それはいつ破綻してもおかしくはなく、そうなれば痛い目を見るのはいつだって此方側なのだ。

 何度そう言ってやろうと思ったことか。


 かくしてその夢は男の死によって、ある日突然引きちぎられる様にして終わった。

 名のある商家の次男坊だったらしい。

 初めて遊郭に来たきっかけは兄と仕事の都合で立ち寄っただけの事で、特別夜遊びの酷い男でもなかったそうだが、どういう経緯があってか葉月とは上等な簪を贈るほどの良い関係になった。生まれつきの結核を拗らせて親兄弟に看取られるその日までの間、男にとっては、いつ死ぬかも分からない身の上にあって最後になるかもしれない色恋沙汰を此処で叶えてみたかったのかもしれない。


 訃報を聞きつけたとあるお客が何の気のない噂話のつもりで相手の遊女に告げ口し、それはその遊女によって葉月のもとへ届いてしまった。

 その遊女というのも、過去にお客を葉月に取られた事を根に持ち、何かにつけねちねちと目の敵にしていた女だった。この廓では年長で位も高く、客受けも良いが一度機嫌を損なうと気性の激しさ故に他の遊女も男衆もどうにも止められず、廊主すら手を焼いていた。

 そんな女が格好の機会を逃すはずもなかったのだ。

 あの女はどんな顔つきで、どんな声色で葉月の耳に吹き込んだのか。さすがに葉月は泣いただろうか。悲しみのあまり泣けもしなかっただろうか。

 狭い廓の中では噂話はすぐさま広まる。

 わたしも含め他の遊女たちも葉月の顔色と動向を見守るしか術はなかったが、当の葉月は全くと言っていいほど落ち込んでるようには見えなかった。皆は結局客は客と見限って折り合いを付けたのだと肩透かしを食らったような気分でいたかも知れない。でも少なくともわたしは、あまりにもいつも通りの葉月が怖かった。

 あんなに惚気ていたのに。一端の女らしく幸せそうな顔をしていたのに。せめてわたしの前だけでも泣くなりしても良かったんじゃないのか。


 あの人ねえ、一度もわたしを抱かなかったのよ。


 そう葉月は言った。


「抱かなかった?じゃあ夜な夜な何していたの」


 ずうっと添い寝していたの。わたしの胸にぴったり耳をくっつけて、心臓の音を聴きながらお話ししたりするの。そうすると落ち着くって。


「それだけで安くもない金払って来てたの?あの人は」


 そう。病のせいで毎日生きた心地がしないから、誰かの生きてる音を聴かせて欲しがってた。吃驚したよ。抱かれる以外でわたしに出来ること無いと思ってたから。試しにね、じゃあわたしを此処から出してくれたら毎日聴かしたげるって言ったら、そう出来れば良いなあって。この人の為に、その為に生きる事が出来れば幸せだなあってわたし本気で思ったの。

 でも死んじゃったら、そんな事してあげられないじゃない。

 わたしようやく、生きる意味を見つけたと思ったのに・・・


 その時の葉月の顔を思い出せない。わたしと葉月の間を雪が降って遮っているみたいに全てが白く霞んでしまっている。斯くしてその雪は葉月を手の届かない処へ押しやり、真っ黒なドブの中へ引きずり込んでしまった。

 例え言葉を尽くし縛り付けていようとも、本人の心までは繋ぎとめられない。強い決意を前に余りにもわたしは無力すぎた。あの時ああしてやれば良かったと後悔してみても、死んだ人間は永遠に帰ってはこない。ただ暗澹とした空洞を見つめ続けるしかない日々に、わたしは長い時間をかけて折り合いを付けなければならないのだ。

 葉月を過去に置き去りにして、生きるしかないのだ。



「・・・つまらない話をしましたね」


 煙管の雁首に燻った灰を些か乱暴に煙草盆に落としながら、わたしは格子窓の外に目をやった。言葉に詰まりながら、思い出そうとしながら、一人でどれくらい時間をかけて喋っていたのか。外の闇は一段と深くなっている。

 絵師の女はあまり見つめていては話しづらかろうと気を遣ったらしく、途中から筆を持った手元に目線を落としながら聞き耳を立ててくれていた。


「忘れておくんなんし。つい話し過ぎました」

「いや、いいよ。お陰で捗った」


 女は筆を置き、ひらりと仕上がった絵を差し出した。


「・・・わっちはこんなべっぴんさんじゃありんせん」

「何だかね、あんたを描いてるはずなのに、何となく違う人間を描いてる気分だったよ。その葉月とかいう女が乗り移っちまったのかな」


 格子窓に寄りかかった姿形はそのままわたしなのに、言う通り確かに、葉月にそっくりな気がする女が憂い顔で煙管を蒸している。葉月にこんな顔をさせてしまった。

 ねえ、葉月。こんなんじゃ浮かばれないって怒ってくれてもいいよ。あんた、わたしを恨んだでしょう?なにもしてやれなかったわたしを。でもね、わたしあんたの笑った顔しか知らないの。泣き顔も怒った顔も知らないの。だからなにも分からなくなる。どうしてこうなったの?誰も葉月の本当の心を知らないまま。

 あんたの心は何処にあったの?


「ねえ」


 不意に女は立ち上がり、まるで悪巧みをするみたいににやりと笑った。


「今からお歯黒どぶに行こう」


 *


 女二人で夜道に繰り出せばやれ足抜けだと騒がれたって仕方ない。男衆一人をお供に付ける事を条件に、わたし達は寒い体を縮こめながらそぞろ歩いた。

 地面に真っ直ぐ線を引くように真っ黒に、お歯黒どぶが横たわっている。わたしは足がすくむ思いがした。そこは丁度、葉月を見つけた場所だった。


「お姐さん、なにをなさるおつもりで?」


 寒さと、それとは別の意味とで震える体に耐えかねてわたしは聞いた。


「悪いね、寒いだろ。すぐ終わるよ」


 女は懐から漉き紙を取り出した。先程の絵だと思った矢先、女はおもむろに折角描いた絵を折り紙のようにして、何を作るつもりかと黙って見ていればそれは次第に蓮の花の形を型どり始めた。


「ちょいと、小さい蝋燭あるかい」


 声をかけられた男衆は、予備に持ち込んでいた蝋燭を女に手渡した。提灯の火を蝋燭に着け、今度はそれを折って作った蓮の真ん中に立てた。


「さて、今度はあんたの仕事」

「何です?これは」

「即席の流し灯篭さ」


 わたしは些か呆然としながら、目の前でゆらゆら光る双眸を見つめた。


「あんたの手で供養しておやりよ」

「・・・いいんですか、これ」

「ほら、早くしないと火消えるよ」


 急かされて、わたしは言われるがままどぶの黒い水面に蓮の灯篭をそっと浮かべた。ゆったりとした流れに乗ってそれは手から離れていく。手を合わせながら行く先を見守っていたが、漉き紙はそう分厚くは出来ておらず、すぐ水を吸ってくしゃくしゃに萎れて、しゅん、と小さく音を立てそう遠く離れてはいないところで蝋燭共々沈んでしまった。

 いつの間に隣で手を合わせていた女が呑気に、あーあ沈んじまった、と笑った。


「良かったんですか?折角描いた絵を」

「いいさ。何となく、こうしてやるのがいいと思ったんだ」

「また何となくですか」

「これで少しは気が晴れたかい」

「・・・供養になったかどうかはさておき、ちゃんと手を合わせてやる時間もなかったもんですから」


 折り紙の花灯籠が沈んだあたりを見つめた。一度沈んだ漉き紙がぷかりと浮いてきて、音もなく流されて遠ざかっていく。


「鮒になったと思えばいい」

「ふな?」


 突拍子も無い言葉に、わたしは女の顔を見返した。女の目はじっと、流れ去るそれの行く先を見つめていた。


「窮屈な処で閉じ込められた金魚を川に流して、自由にしてやったんだと。金魚って、元は鮒だったのを知ってたかい?」

「知ってましたけれど・・・」

「誰かの手で綺麗さは手に入れたけど自由を奪われちまった」

「まるきりわっちらと同じですね」

「綺麗なまま不自由に生きるか、不細工でも自由に生きるか。あんたならどっちがいい?」


 どんなに着飾っても金魚は鮒としての本性を根こそぎ捨て去ることは出来ない。遊女もまた然り、着飾っていなければ誰かに褒めそやされ見世物になる事もない。それは人間であって人間ではないものになる事と同じだ。誰かからそうある事を望まれたから。

 自ら金魚になる事を望んだのではないのに。


「でも鮒なんて、他の魚に食べられたり人間に釣られちまったりするでしょう?」

「全く自由でも、それなりにそういうのは付き物さ」

「わっちは・・・この世界しか知りませんので」

「人間なら生きてりゃ、選択肢は増えるしどうにでもなるさ」

「それが難儀だから苦しむんですよ。だから葉月は・・・」

「葉月ってのが死んじまったのは確かに気の毒だよ。でもそれを選んだ」

「わっちが止めてやれなかった」

「あんたのせいじゃない」


 静かでありながら、空気をすっぱり切り裂くような鋭さを持った声だった。


「誰にも止められないし責任も取れない事だよ。だから言ったんだ。葉月は死んだんじゃない。鮒に生まれ変わったんだと思えばいい」


 どこかでぱしゃん、と魚が跳ねる音を聞いた気がした。

 わたしは想像した。葉月だった鮒が黒い水の中で白く光りながら流れに沿って心地好さそうに泳いでいく。流れ着いた果てにある広大な塩水の中でもきっと、順応しながら他と共存しながらどこまでも行ける。どこまでも自由な鮒。


「鮒って、海でも生きられますかね」

「鮒って淡水魚だろ?それは難しいんじゃないかね」

「でも葉月なら、生きていける気がするんです」

「・・・そう思うならきっとそうだね」


 女の呑気な笑いにつられてわたしの口角も上がった。思えばずっと笑えていなかった気がする。


「そろそろ戻りましょう。風邪を引きます」


 寒さに根をあげた男衆が声を掛けてきた。その唇が色をなくして白くなっているのを見て、わたしは吹きさらしになった裸足を見下ろした。すっかり冷たく赤くなってしまっていた。このままじゃ本当に霜焼けになってしまう。


「お姐さん、ありがとうございました」

「別にいいよ。絵も描かせてもらったし。結局失くしちまったけど」


 女は頭を掻き毟った。また髪が数本乱れて飛び出てしまった。


「あたしはここでお暇するよ。寒い中悪かったね」

「戻って温まって行きなんし」

「いや、帰って下絵に取り掛かんなきゃならない」

「また絵を描くんですか」

「描きたいものがある」


 いつの間にやら手に持った煙管を咥えながら、女は廓のある方に目を向けた。ふう、と白く夜空に煙が舞った。


「お姐さんは、何のために絵をお描きになる?」

「生きるためさ」

「苦しくはない?」

「上手くいかない事ばかりさ。でも辞められない。生きることと同じにね」


 女は踵を返して大門の方へ歩き出した。着物は皺くちゃなのに、やけに締められた帯のお太鼓の形が綺麗な背中だった。


「わっちも鮒になれたらば、お姐さんとまた会いとうございます」

「まるで後朝の朝だね」


 肩越しに此方を振り返り、からからと笑った。


「あたしはお栄ってんだ。まあ忘れちまうかもしれないけど、そん時がいつか楽しみだね。きっと大丈夫さ、あんたしぶとそうに見えるから」


 そして左様ならも言わせないで、その背中は大門の外へ消えた。




 それから暫く

 お栄はあの一夜以来、姿を現わす事はなかった。女絵師の事を度々お客や出入りする奉公人に尋ねてみたが、いつも皆首をひねるばかりで何も聞けず仕舞いに終わった。もしかすると、もう江戸の町には居ないのかもしれない。

 きっと荷物は少なくとも、漉き紙と絵筆だけはしっかり大切に携えて何処かでまた絵を描いているのだろう。

 お栄のように何かがあれば生きていける、という確固としたものを持たないわたしが自由を手にした時を思うと、漠然とした不安がどうしようもなく押し寄せる。只々広い世界と死ぬまで続く長いか短いかの時間だけが手の中にあり、持て余して立ち尽くすしか無いように思えた。

 そんな折、わたしの元に文が届けられた。差出人の署名に応為とだけ書かれており、心当たりのないまま封を切ると、中にあったのは但し書きも挨拶の前置きもない一枚の絵だけで、それですぐに、お栄と名乗った絵師の女からだと理解した。

 それは色も乗せられていない、鮒の絵だった。

 金魚とは程遠い、ヒゲが伸びきり図体ばかり大きくなった不細工な鮒。


「・・・もしかしてこれ、わたしかしら」


 鮒なんて誰が描いても一緒だろう。けれどその鮒の目と目が合った瞬間、そしてそれがわたしの元に届けられた事を考えれば、これはきっとわたしを描いたのだと。あの夜、わたしを描くと言いながら結局出来上がったのは葉月の現し身だったから。


 鮒になったあんたも楽しみだよ。

 まあ精々、しぶとく生き延びてみな。


 お栄の悪餓鬼のようなにやけ顔が浮かぶようだ。


「・・・わたし、こんな不細工だったかい」


 やな奴だ。もっとましな面にしてくれたって良かったろうに。文句垂れたきゃ生きて言いに来いという事か。尚更やな奴。


 格子窓を開けると、花の甘い香りがした。

 わたしは煙管を咥え、細く煙を吐いた。

 胸の奥に澱のように溜まった不安が、煙と一緒になって春の兆しを感じる風に流されて軽くなった、ような気がした。

 お栄もきっと何処かで、春を迎えている。精々花粉にやられてくしゃみ鼻水に悩まされていればいい。

 わたしはにやりと笑った。


 神も仏もいない場所だから、祈らない。

 でもせめて身体の中に芯を立てたい。


 春を越え、梅雨の帳を抜ければわたしは年季明け。

 雨で洗われた世界を、どうか不器用でもいいから清々しく泳ぎきる鮒になりたい。


 そっと瞼を閉じる。

 どこか遠くで、白く光る身体に水玉を目一杯纏わせながら、鮒が心地好さげに水面を跳ねる音を聞いた、気がした。




 終

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鮒と花灯篭 溝口 あお @aomizoguchi

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