第48話その後2
「閣下がお呼びです。執務室までご同行ください」
数人の領兵がそう言って私の部屋を訪れたときには、もう日が暮れかけていた。
朝ごはんは食べていない。お昼ご飯も食べていない。というかループのせいで、長らく食事というものから遠ざかっている気がする。もはや目玉焼きなどと言っていられない。お肉食べたい。
でも、呼ばれたからには行かなくては。
そう考えつつ自室の扉を潜ったら、何故か私は、白い部屋の中にいた。
「……へ?」
「お久しぶりです、カトレアさん」
以前は一切の家具がなかった白い部屋の中央には、机が1つと向かい合うようにして並べられた椅子が2脚。そしてその一方には、見覚えのあるナヨっとした男の人が座っていた。
「アージュ、さん」
「さ、どうぞ。立ち話もなんなので、お掛けください」
アージュさんは向かいの椅子を、手で指し示す。
……そんな余裕たっぷりな彼に歩み寄ると、私は思い切りその胸元を掴んで揺らした。
「どういうことですか! これはなんですか! どうしてループが終わっているんですか!」
「え、あ、それは」
「暗殺者はイネス以外逃げちゃったみたいだし! 事件は何も解決していないし! ライゼルさんは重要なこと何も教えてくれなかったし! もう、意味がわかりません!」
「せ、説明します、説明しますから! ああ引っ張らないで!」
悲痛な叫びがきゅーんと響く。そこで私は我に返り、アージュさんの胸元から手を離した。
「……ごめんなさい。でも、まさかまた会うなんて思わなかったから、取り乱しちゃって」
「はあ、はあ……。ま、まあ、驚くのはわかります。私も前回、もう会うことはない、なんて言いましたからね」
アージュさんは乱れた襟元を調えつつ、カクカクと頷く。
そしてまた、椅子に座れと言わんばかりに、テーブルを弱々しく叩く。
「今回は、お話ししたいことがあって参上しました。しかし、今の状態だと、ろくな会話もできません。……お手数ですが、まずこちらの書類に署名をいただけませんか」
「書類?」
私が腰掛けると、アージュさんは紙の束を取り出した。どれも、見知らぬ言語がみっちりと詰まっている。
じっくり紙面を睨みつけたけど、何か隠された暗号が浮かび上がってくることもなかった。
一体これは、何の書類なのだろう。
疑問に思いながらも、私は紙をアージュさんに返した。
「……書けません」
「え。カトレアさん、字が書けないんですか」
「失礼な!」
ぎろりと睨みつけると、アージュさんは「ひっ」と身を縮こめて小さな悲鳴をあげた。
そんなに怖がるなら、失礼なことを言わなければいいのに。この人、絶対に余計なことを言って女の子にモテないタイプだ。
「公用語と古典語と西方語なら書けます! ただ、自分1人のときはどんな書類にも絶対サインをするなって、父様からきつく言いつけられているだけです! どうしてもサインが必要なときは、誰か信用できる人についてもらえって」
「はあ〜……。それは、賢明なお父様ですね。娘のことをよく分かっていらっしゃる」
「……」
「ごめんなさい」
一体なんなのだろう。どうして私、ループを抜けたと思ったら、こんな場所で怪しい人にバカにされなきゃいけないの。
「しかもこの文字、全然読めないし。本当にこれ、書類なんですか」
「ええ、観測者が用いる記録言語です。機密流出防止のため、一般人にはどうやっても読めないよう仕掛けがしてあります」
「……そんなものに、署名をしろと?」
「しかし、これを書いて頂かないことには詳しいお話ができないんですよ。お願いです。どうか署名してください。ほんと、不親切な仕様だと理解はしているのですが、こちらもこんなこと初めてでして」
アージュさんは何度もペコペコしながら、書類を私の前にずいっと差し出す。
いくら見ても理解できない紙面を眺めながら、私はもう一度紙を受け取った。
……どうしよう。アージュさんは騙す気はないと言うけれど、実はこっそり『お前の土地を半分譲れ』とか『貯金を半分寄越せ』とか書かれていないかな。
でも、アージュさんの話には興味があるし。このまま何も情報が得られないまま、帰るわけにもいかない。
それによくよく考えたら、私個人は土地も貯金も持ってないし。
ええい、書いてしまえ。
意を決し、私は署名欄らしき空白に“カトレア・バルト”と書き込んだ。そうしたら、アージュさんが「ああ」と声をあげた。
「やると思った。それじゃ駄目でしょう。ちゃんと書き直してください」
「え?」
「貴女はもう、カトレア・ヴラージュさんじゃないですか。ご自身のお名前くらい、ちゃんと書いてください」
妙に引っかかる言い方をされたけど、気分を害するよりも、なぜかふわふわした感覚が胸の中に広がった。
そっか。私、カトレア・ヴラージュなのかぁ。こんなところでお嫁さん気分が上昇するとは思わなかった。
……カトレア・ヴラージュ。悪くない。ちょっと賢くなった気がする。
頬を緩めつつ名前を書き込んで、アージュさんに手渡す。彼は紙面を何度も確認して、ほっと息をついた。そして、姿勢を改めこほん、と咳をする。
「はい、それではカトレアさん。これで貴女に、観測情報閲覧権限が付与されました。この権限があれば、我々観測者が収集した情報を貴女も確認することが可能です。……まあ、お見せできるのは、貴女が関わる事象のみですが」
「……はい?」
「これは異例のことですよ。普通、ただの一般人に観測情報が開示されることはまずあり得ません。そんなことをすれば、あっという間に時空が歪んでしまいますからね。貴女は観測局始まって以来初の、一般歴史閲覧者です」
何だかすごいことのように言われているけれど、イマイチ何がすごいのか理解できない。
けど、これがまるで歴史的大事件であるかのように、アージュさんは大げさな口調で語る。
「今回の事件は、観測局の認識を根本から覆しかねない事態にまで発展しました。
前にもお話ししましたが、観測者の有する情報は、それだけで歴史を歪ませかねないポテンシャルを秘めています。過去にも、それで大きな問題が発生したことがありました。だから、基本的に我々の情報が外部に開示されることはありません。
しかし、そのカビ臭い規則のせいでこちらの対応が遅れ、貴女はループを湯水のように消費しまくり、結果この時間軸は、崩壊まであと一歩というところにまで陥った。
……まあ、奇蹟的に最後のループで歴史が先へと進み、歪みも解消されましたが。この時間軸を賭けたチキンレースを前に、観測者の存在は徹底的に秘匿されるべきだという旧来派も、時空保護のためなら情報開示も辞さないという革新派も、最後は共に手を取り合って神に祈り心を1つにしました。
“カトレアさん、勘弁してくれ”、と」
「……それは、どうもお騒がせしました」
「お騒がせなんて可愛いものじゃありませんよ! もう大変だったんですからね!」
アージュさんは叫びながら、目の端に涙を滲ませた。目の下には隈までできている。よく見ればお肌はカサカサだ。
確かに、相当苦労したのだろう。……けど。それなら、私だってかなり苦労した!
「前にも言いましたけど、私が死んだのは私のせいじゃありません! 今だって何が正解でループから抜け出せたのかも分からないのに、たった数回でどうにかできたわけないじゃないですか。ヒントなしでここまで来られたことに、むしろ感謝してほしいくらいです!」
「……」
アージュさんは、何故か沈黙した。
じいっと私を見て、「感謝ですか」とニヒルに小さく笑う。
「まあいいです。とにかく、今回の件で我々観測者は大いに反省しました。情報開示の危険性は非常に高いものの、貴女のような例外に対しては、多少のリスクを犯しても道を示してあげる必要がある。それに、今回のループ脱出の条件が非常に高難度だったのも事実ですし。
……というわけで、観測局にて急遽上層部による会議が行われまして。この度、情報取り扱い規則に、“歴史歪曲起点が自己にて問題を解決することが甚だ困難と判断された場合、観測者の介入および情報開示を行うことが許される”という一文が追加されました。通称、カトレア規定の誕生です」
「うわあ、やめてください! どうしてそんなものに私の名前をつけるんですか」
「今回の混乱を忘れないためですよ。諦めてください」
またアージュさんは「ふっ」と笑う。そのちょっとしてやったり感が腹立たしい。
……でも。そんな規則ができたわりには、私が自力でループから抜け出すまで、観測者たちは何も助けてはくれなかった。
そんなこちらの疑問を察したようで、アージュさんは大きく頷いた。
「先ほども申し上げましたが、今回の脱出条件は非常に特殊かつ高難度でした。……それこそ、我々が下手に介入しても、失敗させてしまうかもしれないほどに。だから、全て貴女の意思に委ねるしかなかったのです。
で、貴女はなんとかギリギリのところでループを抜けた。ですが、これまでの一連の貴女の行いを見て、我々観測者は思いました。“こいつをこのまま野放しにすれば、また何かやりかねない”、と。
だからですね。今回は特別に、貴女に本来歴史がどういう道筋をたどるはずだったのかを、お見せします。そのための、先ほどの権限付与です」
「それって、このループの真相を教えてくれるってことですか」
「ええ、ループについては」
……なんと。
これは凄く良いタイミングだ。ループの真相がわかれば、このあと公爵にも詳しい話ができる。
多少は、犯人を捕まえるための助けになれるかもしれない。
アージュさんが指をパチンと鳴らす。
すると、部屋の壁に突然、鮮やかな絵画が浮かび上がった。……いや、これは絵じゃない。
見た目も色味も現実的で、しかも動く。まるで、誰かの視界を壁に映し出しているかのような。
「まずは、貴女が辿った時間についてお見せします。……よーく、覚悟してくださいね」
なぜか思わせぶりな口調でアージュさんが言う。
私は頷いて、壁に映し出される光景にかじりついた。
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