第三章 淫蕩姫流星始末

プロローグ 食人鬼グレナダ  

 鈍色にびいろの悲鳴を上げて、重い鉄の扉が開いた。


 積み上げられたからの木箱で隠されていた階段裏の大きな扉。その向こう側には隠し部屋へと到る真っ直ぐな廊下が続いている。


 窓も無ければ、外側からしか鍵を開けることも出来ない隠された部屋。人を閉じ込めるにはもってこいの、誰がどう見てもロクでもない目的のために造られたとしか思えない部屋である。


「こりゃぁ……何だ? いってぇどういうこった」


 扉を押し開けた途端、イルは思わず眉根を寄せた。彼にしてみれば嗅ぎなれた匂い。扉の隙間から薄っすらと漏れ出してきたのは紛れもない血の匂いである。


(何かが起こってやがる、ロクでもないことが起こってやがるぞ)


 外した錠前を放り出し、イルは表情を強張こわばらせて、背後の女騎士を振り返る。すると、彼女は闇の一部を切り取ったかのようなショートカットの黒髪を揺らして、緊張の面持ちで小さく頷いた。


「急ぎましょう、イル殿」


 彼女がスラリと剣を引き抜くと、その耳にはまった紅いピアスがカンテラの灯りを反射して、キラリと光る。イルは、カンテラを手にさらに扉を押し開け、廊下の先、暗闇の向こう側へと目を凝らした。だが、灯りの届く範囲には奥へと続く石畳の廊下の他に、目に付くものは何もない。


 イルを先頭に二人は奥へと歩みを進める。カツン、カツンと足音が反響する。歩幅が違うせいで、重なり合った二人の足音がわずかにズレて、より一層不気味に響き渡った。気が急いているのだろう。背後から微かに聞こえてくる彼女の息遣いは荒い。やがて廊下の行き止まり、カンテラの灯りの中に、武骨な鉄の扉の輪郭が浮かび上がってきた。


「……先輩?」


「おい……グレナダ」


 声を潜めて呼びかけてみても返事は無い。この扉の前で警護していたはずのグレナダの姿が見当たらない。その上、数時間前に鍵を掛けたはずの奥の扉がわずかに開いている。そんなはずはない。鍵を持っているのはイルなのだ。だが、いくら『そんなはずはない』と、言い募ったところで実際に扉は開いている。


 扉の方へと近づけば近づくほどに、血の匂いは一層濃く漂ってくる。イルは女騎士の喉が、ごくりと音を立てるのを聞いた。二人は足音を殺して扉の傍へと歩み寄り、イルはカンテラを掲げて、わずかに開いた隙間から中を覗き込む。


 だが、部屋の内側は墨を流したかのような真の闇。扉に阻まれてカンテラの灯りもわずか手前までしか届かない。ただはらわたに鼻先を突っ込んだかのような、濃厚な血の匂いがイルの鼻腔へと入り込んできた。


 何が起こっているのかは分からないが、この分じゃ……もう手遅れだろう。


 イルが思わず顔をしかめたその瞬間――


 扉の向こう側から「ううっ……」と、微かな女のうめき声が漏れ聞こえてきて、二人は思わず顔を見合わせる。「いきます!」女騎士の唇がそう動いて、彼女が勢いよく扉を開くのと同時に、イルは扉の内側へと踏み込んでカンテラを掲げた。 

「……ヒッ!?」


 途端に女騎士の息を呑む音が、イルの耳朶じだこする。カンテラの灯りに照らし出されたのは紅い景色。彼らが目にしたのは余りにも異常な、そして凄惨な光景だった。


 部屋の中央には豪奢なベッド。いや、それ自体は何もおかしな事では無い。そもそもそれしかない部屋なのだ。だが、そのベッドの上には、黒い球体のような物が転がっていた。それは黒いベールに覆われた人の頭。女の首だ。瓜実うりざね型の上品な輪郭。ベール越しに透けて見えるその瞳は恐怖に見開かれている。首の切り口も生生しく、白い骨の断面が見えた。


 ベッドの上は文字通りの血の海だった。体中の血を余さずぶちまけたかのような、おびただしい血が、寝具と、女が就寝する際にまとっていた薄い夜着を赤く染め、ベッドの上からひたひたと床の上へとこぼれ落ちては、大きな血だまりを形作っている。


 直視するのもはばかられるような凄惨な光景であった。だが、この光景を異常たらしめているのは、その血の赤さではない。そこに転がっているのは首だけ。首だけなのだ。その首が乗っていたはずの身体がどこにも見当たらない。つい数刻前まで言葉を交わしていた女が、首だけになってしまったのだ。


「ひ、姫殿下ぁあああああああああッ!」


 女騎士は取り乱し、悲痛な叫びとともに駆け寄ろうとする。だが途端に、その足元にうずくまる人影に気付いて、「ひっ!?」と喉の奥に声を詰めた。


「誰だ!」


 イルがカンテラをそちらへ向けると、淡い光の中にうずくまる甲冑姿の女騎士の姿が浮かび上がった。


「う……うぅ……」


 痛みを堪えるようなうめき声を漏らす女騎士。見覚えのある甲冑の背を見据えながら、「グレナダ……か?」と、イルが恐る恐る問いかけると、女騎士が顔を上げて振り返る。


「「……っ!」」


 その瞬間、二人の息を呑む音が重なりあって響く。振り向いた女。それは確かにグレナダだった。間違いない。涙に潤んだ瞳。苦悶の表情。だが、その口元は真っ赤な血に汚れている。滴り落ちる赤い雫が、彼女の甲冑の胸元を紅く汚していた。


「イル殿! 下がれ!」


 黒髪の女騎士はイルを突き飛ばして、血塗れのグレナダへと剣を突きつける。そしてあらん限りの声を上げて叫んだ。


「グレナダァアアアアッ! やはりあの話は本当だったのか! 食人鬼め! 貴様が姫殿下を!」


 その瞬間、短かった安息の日々は終わりを告げた。


 後になって思い返してみれば、この時には既に、イルがその身に宿した呪いが発動していたのだろう。それはこのひと月あまりの安息の日々の中、誰にも気づかれぬように、密やかに、おぞましい触手を伸ばし、恐ろしく回りくどいステップを踏んで、彼をその運命に絡めとろうと、闇の中からじっと機会を狙っていたに違いなかった。

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