野犬の道

美尾籠ロウ

第1話

 火曜日


 いつもと変わらない月曜日が終わり、火曜日になった。その後には、いつもと変わらない水曜が来るはずだった。いつもと変わらない一週間が続くはずだった。

 火曜日の六時間目――1年B組の化学の授業。

 午後の授業には、誰だって集中できないものだ。腹の皮が突っ張れば、眼の皮がたるむ。それは生徒だけでなく、我々教師とて同じことだ。

 授業時間の大半が過ぎたところで、今日はやはり実験にしておけばよかった、と後悔した。

 教壇から生徒たちを見渡す。三十四人のクラスのうち、およそ半分の生徒が睡眠学習をしている。そのうち三人は、遠慮もなく音を立てていびきをかいていた。残り半分のうち、ちゃんと授業を聞いていると思しい生徒は――片手には余るが、両手では数えられた。

 私の言葉は、やっぱり届いていない。

 そのほかの生徒は、スマートフォンの画面を指先で撫でていたり、あるいは、すさまじい勢いで連打していたり、その画面を眼を剥いて凝視していたりしていた。中には珍しく紙媒体の漫画雑誌を開いて肩を震わせて笑っている生徒も、教壇から見る限り三人いた。あるいは、手鏡に向かって枝毛を抜いたり(これは男子生徒だ)、カッターナイフで机の上に何か彫り込んだりといった物理的な作業にいそしんでいる生徒もいる。

 教室内の生徒たちはみな、彼らなりにそれぞれ忙しい様子だった――教壇からは、私が見たくないものも、よく見えてしまう。

 天井を見上げ、そっとため息をついた。徒労感と倦怠感と無能感で、首の後ろが重くだるくなっていく。

 実験の授業なら、生徒たちにそんなことをさせずに済む。ただでさえ退屈し、弛緩している昼下がりの生徒たちの脳細胞に、多少なりとも刺激を与えることができただろう。私自身も、睡魔と格闘せずに済む。が、B組の次回の授業は、金曜の一時間目だ。あわただしい一時間目は、教室移動のある実験をやるには適切ではない。やはり今日、実験にすべきだった。私はますます後悔した。

 しかし今この瞬間、教室が騒がしいわけではない。私の授業を聴いてくれている生徒が、わずかながら存在している。そして、授業の妨害をするような生徒はいない。学級崩壊はしていない。一見すると、静かで落ちついた教室に見える――見えるだけだが。

 いや、それでもいいのかもしれない。

 彼らに、無能な私の授業を聴かせる必要はない。暖かくやわらかな光と空気に満ちた昼下がりのひとときに、彼らにわざわざ苦痛を与える必要はないじゃないか。

 所詮、私みたいな程度の人間が教壇に立って行なっている授業なのだ。

 そんなことを考えていると、声がした。

「できたけど」

 女子生徒が、ぶっきらぼうな口調で私の傍らから言った。よく太った彼女は前田香奈子だった。1年B組のなかでも何かとよく目立つ、いわばリーダー的な生徒だ。

 水酸化カルシウムと塩化アンモニウムの反応の結果、発生するアンモニアの標準状態での体積の計算を、彼女に板書させている最中だったのを、あやうく忘れてかけるところだった。

「あ、はい、じゃあ見てみましょうか」

 私は内なる狼狽を隠し、黒板に描かれた彼女の解答を見た。

「残念。惜しいけど、不正解」

「はぁ? ウソばっか!」

 前田香奈子は眉間にしわを寄せて頓狂な声を上げた。生徒たちからは、わずかな薄い笑い声。

 「ウソばっか」という言葉をぶつけられ、ぎょっとしなかったわけではない。心臓が一瞬跳ね、息が詰まった。が、軽く笑ってみせた。無理に笑顔を作りながら、なぜ生徒に向かって愛想笑いなどしているのだろう、とも自問した。

「えーっ? 体積でしょ?」

「そう、標準状態だから、気体は1モルで――」

「22・4リットル。そんなのわかってるって」

 不機嫌そうに前田香奈子は唇を尖らせた。私は口をつぐみ、そっと腕時計を見た。三時三十一分。私の時計は三分進んでいるから、あと二分で、授業は終わる。眠く、退屈で、活気のない、気だるい六時間目の授業が、あと百二十秒で終わってくれる。

 しかし、待つ二分というのは長いものだ。私は彼女に考える時間を与えるふりをして、チャイムが鳴るまでの時間をつぶした。

 あと一分三十秒あまり。

「あー、なんか数学の時間みたい。化学も数学もマジ嫌い……」

 前田香奈子は黒板拭きを手に取ると、無造作に彼女の書いた計算式を直し始めた。

「0・896リットル……896ミリリットルで、いいでしょ」

 なぜか怒ったような口調で前田香奈子は言った。

「はい、その通り、正解」

 彼女はべつにうれしそうでもない様子で、相変わらず不機嫌そうに席に戻った。

「前田さんが言ったとおり、これは中学校の数学で習った方程式を使って、すぐ解けるはずです。それが解けないなら、中学の数学からやり直しましょうか」

 そう一気に言った。生徒からのリアクションは、なし。

 時計を見た。あと十二秒。

 そのとき確かに私は生徒たちと心を一つにしていただろう。

 ――早くチャイムが鳴ってくれ。

 そう一緒に願っていた。

 そんなことでしか、私は生徒と心を通わすことができない。

 十二秒は、意外に長かった。時間つぶしに私は言った。

「質問は……何かありますか」

 教師として、最低の不毛で無意味な台詞だ。愚問である。

 いまだかつてこのクラスで、いや、私の担当している二年A、B組、三年B、C組の生徒から質問が出たことは一度もなかった。だいたい今どきの生徒は、授業中に挙手をして教師に質問などしないものだ。今ここで質問が出れば、かえって私のほうが困る。

 あと七秒。

 ここでまた、私は生徒と気持ちを同じくして祈るのだ。

 どうか質問が出ませんように。

 どうか授業が延長しませんように。

 そして、チャイム。

 ふうっという安堵のため息のような呼吸音が教室に満ちたように聞こえたのは、私の気のせいか。

「はい、じゃあ今日はこれで終わります」

 すかさず女子の委員長である瀬田せたみすずが「起立!」と号令を発した。このクラスは、どんなことでも、女子生徒が男子生徒たちを仕切って、引っ張っているようだった。

「礼!」

 つい先ほどまでの授業中の態度とはうって変わった元気のいい声だった。予備校の英語の問題集を開いたまま、半分うとうとしていたはずだったが。

 火曜日の、私の授業が終わった。


 職員室に戻り、B組の出席簿を所定の棚に収めると、ドアに程近い自分の席に着いた。

 そのときになって、B組に次回は実験を行なうことを予告してこなかったことを思い出した。今すぐにだったら、帰りのホームルームに出かける前の1Bの担任を捕まえて、連絡を頼むことができる。が、ふと気づいた。その担任は浦辺うらべ先生だ。腹が出て脂ぎった浅黒い顔をした浪花節声の五十代前半の数学教師だ。生徒にはそこそこ人気があるようだったが、私は苦手だった。

 顔を上げ、浦辺先生のデスクのほうを見た。ちょうど立ち上がり、二年C組の担任である宮本華子はなこ先生と連れだって、何か楽しげに話しながら職員室を出ていくところだった。

 ため息が漏れた。浦辺先生と話すだけでも苦痛なのに、その横には宮本先生までいるのだ。浦辺先生があんなにニタニタと相好を崩しているのも無理はない。宮本華子先生は、とにかく陽気な光を強引なまでに振りまく四十歳前後の教師だ。着るものもいつも派手で、確かにその名の通り、立っているだけで、職員室、そして教室がぱっと明るくなるような華のある教師である。きっとそれは、教師としてすばらしい資質の一つなのだろう、と思う。

 しかし宮本先生は、我が校の職員のなかでも、私がもっとも苦手とする教師だ。私は彼女に、その魅惑的な——と男の教師の大半が思っているらしい——笑顔を向けられたことがない。私よりひと回り近く年長の彼女が、私を「鼻であしらっている」というのなら、まだいい。私は、彼女に心底から嫌悪されていた――無気力、無能な唾棄すべき駄目教師として。同僚に嫌悪されるというのは、相手が誰であれつらいことだ。正直、私は彼女を恐怖していた。私にとって宮本華子先生は、女帝西太后せいたいごうか王女メディアか、といったところだ。

 浦辺先生に実験の連絡を頼むのはやめることにした。どうせ授業は金曜なのだ。まだ間がある。何も急ぐ必要はない。

 私は担任を持っていない。だから、授業が終われば暇になる。帰りのホームルームもなければ、掃除の指導もしなくてよかった。部活動の顧問も担当していない。今日は会議もない。教委に提出するくだらない書類を作る必要もない。校内の様々な雑務――「校務分掌こうむぶんしょう」で、私に割り当てられているものは、一つもない。まるで、非常勤講師と同じような立場だ。

 学校に長居をする理由は、私にはまったくない。早々に帰り支度を始めた。後ろめたさを感じることもあったが、今は「早く学校という場から去りたい」という気持ちのほうが勝っている。

「あれ、まきさん、もう帰っちゃうの?」

 向かいの席の木全きまた先生が、めざとく私の行動を見抜いていた。ノートパソコンの液晶ディスプレイ越しに、木全先生は丸々と太った顔に人懐っこい笑みを浮かべつつ私を見ていた。彼は、脂ぎった顔と野太い声をした英語教師で、私と同い年だ。黒縁メガネは、あまり似合っているとは言えない。私とはまったく逆で、生徒たちからの人望は厚く、職員室にもよく生徒たちが質問や相談に来る。

「仕事は残ってないからね」

 私は素気なく言って、鞄のファスナーを閉めた。といっても、鞄に入っているものと言ったら財布と携帯電話、身分証明以外に利用したことのない運転免許証くらいなのだが。

「いっつも思うけどさ、昨日も言ったっけ? やる気ねえよなぁ、牧さんって」

「1Bの生徒よりは、マシだと思ってるけど」

「そういう問題じゃねえよ。うらやましいよなぁ、俺もそういう身分になりてえ」

 木全先生は、眼鏡をずり上げながら言った。

「そう言う木全さんはどうなの? STは?」

 木全先生は二年D組の担任だった。STとはショート・タイムの略称だ。生姜校でいうところの「帰りの会」と同じようなものである。同じ三十一歳でも、彼はクラス担任を任され、女子バスケ部の顧問であり、生徒会の担当である。

 木全は「ははあん」というような間の抜けた声を上げた。

「六限は俺のクラスで授業なの。ついでにSTもやってきた。その点、ぬかりはねえさ」

「それはご苦労様」

 私は鞄を取って立ち上がった。ちらと職員室全体に眼をやる。担任を持っている教師はみな、STのために自分のクラスに出払ったところだった。残っているのは、担任を持っていない教師と、木全のような「デキる教師」だけだった。

 これまでの経験から身につけた、見とがめられずにさっさと帰るタイミングは今しかなかった。

「そんなに早く帰って何するの?」

「飯、風呂、酒、寝る。それだけだよ」

「あやしいよなぁ。俺、前から思ってるんだけどさ、女じゃねえの? キャバクラとか入り浸ってんじゃねえ?」

「そりゃ、木全さんの願望じゃないの?」

「え、まあ、そうかもしれんがね。ま、遊べるときに遊んどきな。結婚しちまえば、もうアウト。話したっけ? うちの嫁さんさぁ、こないだ……」

「おととい聞きました」

 私は木全先生の横を抜けて、ドアに向かった。今年度になってドアの近くに私の席が配置されたのは、さっさと帰ってもいいと学校が認めたということなのだろうか、と私は勝手に解釈していた。

「おとといって日曜じゃねえかよ!」

 背後から飛んできた木全先生の声を、閉じたドアが遮ってくれた。


 水曜


 私が人より早めに学校へ出勤するのは、もちろん仕事熱心だからではない。

 理由その1。通勤ラッシュの前に電車に乗れるため。

 理由その2。通勤途中に同僚の教師や生徒たちに会わずにすむため。

 理由その3。駅と学校の途中にある公園を、人が少ない時間にゆっくりと歩けるため。

 まだ早朝といえる時間にその公園を一人で歩くのは、ちょっとしたぜいたくだ。ポプラの木々のあいだを吹き抜けて顔にかかる風は心地よく、JRの駅からごみごみした商店街を通り抜けてきた私を、学校に着く前にほどよく冷やしてくれる。

 この辺りは戦時中の空襲で焼け野原になり、戦後に再開発された新しい街だ。この公園は、戦時中には軍需工場だった広い敷地に作られたものらしい。今となっては、周囲を威圧するような高層マンションに囲まれた、エアポケットのような地となっていた。七十余年前の名残など、どこにも見て取ることはできなかった。

 大きな滑り台とずらり並んだ鉄棒のあいだを抜けると、三つ平行に並んだ土管が置かれている。赤い土管と、黄色い土管と、紫の土管――前衛芸術家でもこれほどけばけばしい彩色をしようとは思わないだろう。さらに半年ほど前のことだが、三つの土管には一夜にしてマジックペンで卑猥な落書きがびっしりと一面に描き込まれた。その結果、どんなに強いドラッグでトリップした芸術家でも産み出すことのできない、エキセントリックでグロテスクな一種のアウトサイダー・アートと化して、三つの土管は公園のなかで異彩を放つことになった。

 その土管の横を通り抜けると、ロケットの形を模したジャングルジムの向こうに、県立新陵高校の校舎が見えてくる。見えた瞬間に、これで私のぜいたくなときが終わるのだな、と思わされる。

 そして、私の一日が始まるのだった。


 一日が終われば、いつもと同様に木全先生の軽口を背中に受けて職員室を出るだけだ。学校の北側にある通用門から外に出て、バス通りを横断して公園に入る。

 今日の公園には、珍しく遊び回る子どもたちの姿が少なかった。いつもなら砂糖に群がる蟻のようにジャングルジムにとりついている幼児たちの姿も、今日は見えない。若干の物足りなさと違和感を胸に覚えながら、私はジャングルジムの脇を通って土管のほうへ歩いた。

 クレイジーなほど派手な土管は、いつもと同じ土管に過ぎなかった。人喰い鮫に変身したわけではない。動物園から逃げ出した肉食獣が潜んでいるわけでもなかった。

 しかし、べつな存在がそこにはあった。

 最初に眼に入ったのは、ショッピング・バッグだった。緑色の紙製で、湿ってふやけている。はちきれんばかりに大きく膨らんでいた。それが、手前の紫の土管の前に立てかけるように置かれていた。

 忘れ物だろうか? 特に深い考えもなく、私はバッグのほうへ歩み寄った。が、数メートル進んだところで、歩みを止めた。

 紫色の土管の奥に、「住人」がいたからだった。

 不意に警戒感と嫌悪感の混じった感覚がよぎった。思わず、後ずさった。

 土管のなかで男は、膝を抱えるようにしてしゃがんでいた。

 ところどころ破れたカーキ色をした戦闘服のようなジャケットを着て、同じ色のよれよれの帽子を目深にかぶっていた。帽子の下からはみ出した髪は乾ききって縮れ、肩の上に散らばるようにかかっている。

 通勤ラッシュの駅前を毎日行き交う人々の眼には、彼らのような野宿生活者が見えているはずだ。が、そんな彼らの存在を、あたかも眼中にないかのごとく、我々は足早に通り過ぎている――私もその一人だった。「彼ら」が「我々」に話しかけてくることはない。その逆もまた、なかった。駅という同じ場所にいるというのに。「我々」と「彼ら」は互いに互いを無視し、それぞれがまったく別のルールに従って生活しているはずだった。互いにまったく別の道を歩んでいるはずだった。互いの道が交わることはないはずだった。

 が、今のこの公園では勝手が違う。ここは駅ではない。この公園は、完全に「我々」の領域のはずだった。周囲には富裕層の高層マンションが立ち並び、そこには家庭があり、学校があり、カギカッコ付きの「平穏」があった……はずだ。

 この公園は、カギカッコ付きの「我々」とは住む世界を異にする、カギカッコ付きの「彼ら」が安易に立ち入ることのできない場所のはずだった——

 私はかぶりを振った。暑くもないのに額からしたたる汗を、拳で拭った。私は、自分自身に激しい嫌悪感と恥と罪悪感を覚えた。

 男は土管から、公園の外のマンションを一心に見上げているようだった。その前を通り抜ける私は、彼の視界を遮ることになる。

 そんなに些細なことを、私はどうしてこんなに気にしているのだ?

 その瞬間だった。

 視界の隅で、土管の男が体をこわばらせたのがわかった。私は顔を動かさず眼だけで男のほうをちらっと見た。

 まさか、と思った。

 我知らず歩みが遅くなった。男の顔を確認しようとしたとき、男は素早く土管の奥のほうへ顔をそむけた。

 私はそのまま紫色の土管の前を通り過ぎた。

 今、自分の見たものが信じられなかった。

 きっと、見間違いだ――他人のそら似に違いない。

 黄色い土管の前まで来たところで、立ち止まった。

 そして意を決すると、くるりと向き直った。紫色の土管まで足早に戻った。

 男は土管の奥に顔を向けたまま、動かなかった。私が土管の前に戻ってきたことに、男が気づいていないはずはなかった。男はかたくなに私を無視しようとしているらしい。

 迷った。やはり男のことなど忘れて、家路を急ぐべきなのかもしれない。

 ――飯。風呂。酒。寝る。

 それで私の一日が終わる。どうして今日に限ってその一日のサイクルを乱さなければならない?

「あの、すみません」

 しかし私の口は、勝手に言葉を発していた。

 男は顔をそむけたまま動かなかった。

 一度言葉を口から発してしまったのだからしかたがない。言葉を続けるしかなかった。

「違っていたら申し訳ないけど……城戸きど君じゃありませんか?」

 かつての親友の名を実際に相手にぶつけるのには、小さからぬ勇気が必要だった。

 男は何も答えなかった。

「失礼ですが、城戸君じゃありませんか?」

 私はやや大きな声でもう一度質問を発した。

 男はそっぽを向いたまま、何かぼそぼそとつぶやいた。それは「人違いだ」と言ったように聞こえた。

 そのとき、公園と向かいの高層マンションのあいだの道路から、大きなエンジン音が聞こえてきた。

 同時に、男が外に顔を向けた。まるでそのエンジン音を待っていたかのごとくに。

 男の顔がはっきりと見えた――こけた頬。張ったえら。高い鼻。そしてやや細く、鋭い眼。

 他人のそら似などではない。最後に会ってから十年以上たっていたが、見間違えようはずのない顔だった。

 ――高校時代の三年間同じクラスだった男の顔。

 ――修学旅行の旅館で、夜にワインの瓶を分け合い、翌朝には教師のビンタを分け合った男の顔。

 ――ともに弓道部に所属して、どちらが先に的中させるか、どちらが先に「四射皆中かいちゅう」させるか、どちらが先に初段を取るか競い合った男の顔。

 ――そのいっぽうで、外見に似合わず繊細なイラストを描く画才に恵まれていた男の顔。

 ――しかし美術系の学校へは進まず、私と同じ大学に進学した男の顔。

 ――そして二年で大学を中退し、それきり私の前から姿を消した男の顔。

 城戸真澄ますみの顔に違いなかった。

 懐かしさとうれしさが、躊躇と狼狽に打ち勝った。

「やっぱり城戸じゃないか。僕だよ、牧だ。高校のとき一緒だった牧だよ」

 私はまくしたてるように一気に言った。しかし、男——城戸はそんな私の言葉をろくに聞いていない様子だった。公園の向こうの道路を近づいてくる、クラシカルなデザインの一台の外車――深紅のフォルクスワーゲン・カルマンギアに、その眼は注がれていた。

 カルマンギアは土管の手前あたりで方向を転じ、向かいのマンションの脇の駐車場へと姿を消した。エンジン音も聞こえなくなり、唐突に私たちは静寂に包まれた。

「あの車が……」

 どうかしたか、と訊こうとして私は男を振り向き、言葉を飲み込んだ。

 男は、茶色い戦闘服風ジャケットの袖をまくり、腕時計を見ていたのだった。ごついミリタリー・ウォッチ風の腕時計だった。買えばかなり高価そうな時計だった。男は私の視線に気づくと、すぐに袖を下ろし、また土管の奥に顔を向けた。

 そして彼はくぐもった声で言った。

「人違いだ。あんたなんか知らねえ」

「でも……」

 男は、急に私にすら興味を失ったかのように、土管のなかで横になった。

「さっきの車の人、知り合いなのか?」

 問いかけたが、答えはなかった。男は薄汚れた茶色い帽子を顔の上にかぶせ、胸の上で腕を組んだ。これから居眠りでも始めるようだった。そんな彼に向かって、何とか言葉を引き出そうと話しかけている自分の姿が、妙に馬鹿馬鹿しく滑稽に思えてきた。

「あんたなんか知らねえって言ってるだろうが。さっさとどっかに消えてくれ」

 男は帽子の下からぶっきらぼうに言った。

「わかった……」

 私はつぶやいた。男は何も言わずに寝返りを打った。その拍子に、帽子が彼の顔から落ちた。男は無造作に帽子を取ると、また顔にかぶせた。まるでそれを私とのあいだの障壁にするかのように。

「もし、僕にできることが何かあれば言ってくれよ。僕は、向こうの高校で教師をやってる」

 答えはなかった。その代わりに、間の抜けたあくびが帽子の下から聞こえた。

 私は、ゆっくりと紫の土管から離れた。少し行ったところで振り返ったが、土管のなかの男がこちらを見返すようなことはなかった。小さくいびきのような音が、紫色の土管のなかから聞こえてきた。

 私には、それが本物のいびきには思えなかったが。


 城戸真澄は、数学が大の苦手だった。それなのにどういうわけか、高校三年生になったとき、彼は私と同じ理系クラスに進んだ。私はてっきり、城戸はその美術的センスをのばすために、美術大学かデザイン系の学校へ進むものとばかり思っていたので、彼の選択には驚いた。当然、彼は数学の授業で苦労することになった。数学の教師は「長老」とあだ名される初老の先生だった。あるときの数学のテストの際、彼は答案用紙を白紙で提出するのに忍びなく、イラストを描いて出した。城戸の絵のタッチは独特だった。ごくわずかの曲線でたくみに対象の特徴を捉え、デフォルメを加えて再現してみせるのだった。テストの結果、彼は赤点をまぬがれた。あとで見せてもらった答案には、刀を振り上げた侍姿の「長老」が、土下座をした町人姿の城戸に切りかかろうとする場面が生き生きと描かれていた。その脇には「長老」の赤ペンで30点と書かれていた。その答案用紙を私に見せながら、城戸は「長老もだてに歳とってねえな」と言った。

 城戸真澄はそんな男だった。


第二話へつづく

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