闇の中にて階段は光を求む

松風 陽氷

ロイヤルブレッド的な朝

 私は階段を上っている。ただ、ただ、上ってゆくだけである。暗いのだ。酷く暗くて、でもなぜだか安心している自分がいて、心地よい浮遊感はさながら子宮の中に揺蕩っている様だった。異なる点を挙げるなれば、赤子と母体特有である生暖かいミルクの薄甘い香りがしない事くらいであった。饐えた地下室の様な、ゾクゾクして少し懐かしい匂い。真っ直ぐに階段は伸びていて、それはどうしてか伸び続けていた。景色は変わる事なく、脚の疲れることもなく、苦しくも無ければ楽しくも無い、そこにあるのは現状事実、それのみであった。

 私は光を眺めていた。前方にビー玉みたいな小さな光があって、それはまるで「動くことが面倒くさい、もう疲れた」と言わんばかりに光り続けていた。不動のものであった。

 ふと、ギュスターヴ・モローのファムファタール達が脳裏をよぎった。私は彼女らの中で最もデリラが好きだ。彼の描く絵の中で一番引力を感じた。これは私論だが、人と芸術作品はそれぞれS極とN極の磁石の様なものである。そしてその磁力とは個体によって異なり、しかし確実に、僅かでも惹かれ合ってはいるのだ。興味が無い作品というのは、その磁力が余りにも微弱過ぎるが故に惹かれていることに気がつけていないだけなのだ。

 そして、私は小説を一冊買おうと思った。よくある事だ、私にとっては別段おかしな思考回路ではない。ただ、なぜ今そんなことを考えたのか。そんなこと愚問だろう。夢の中の思考回路とは総じて突飛なもので、そこに合理や理論などなんかは存在しないのだから。

 そいや、ドストエフスキーの「罪と罰」、この間図書館で少し読んで気に入ったから買わねばいけない。そう思いながらきっと私は棚から黒い背をした「晩年」を手にするのだ。それをお勘定に持って行こうとして、人の並んでいるのを見付ける。そうしてそれから私は、自分がこの場に存在することが嫌になって本を適当なところに置き、溜息をつきながら三人ばかしの列に背を向けるのだ。

 私は普段気の長い方だけども、どうしてか「自分のその場の気分で決めた事」を妨害されるのは許せない。腹が立って仕方がなくなる。気分で「欲しい」と思ったものはその時直ぐに手に入らないと居ても立ってもいられなくなって、酷くむしゃくしゃする。その時だけは阿呆の様にせっかちになるのだ。

 訪れた事の無い書店を出てワイシャツの袖を少し引いて腕時計を見る。

「「無駄な時間を過ごした」」

 そう呟くか否か、唐突に襲い掛かる浮遊感。全身の筋肉に緊張が駆け巡り瞬時に呼吸が止まるが、知っている。私はこの感覚を知っているのだ。だから、怖いことなんか何も無いんだというのも分かる。そう思ったって、怖いものは怖い。頭では分かったって、心が怖いと言ったら頭なんか意味が無いんだ。


 奈落へと落ちた私は、爽快感とは対極な汗を拭って目を覚ました。

 はぁ、酷く疲れた。

 汗ふきシートで全身をゴシゴシとくまなく拭った。汗と共に先程の夢も身体から拭い取ろうとしている気がした。しっかりと夢の沼から脱したはずなのに、脚にドロついた沼水が酷く気になった。今だに片脚を突っ込んでいるのだろうか、急いでシャワーの準備をした。


 朝はどうも嫌いだ。吐き気がして気に喰わない。一日の中で最も食欲が湧かない。ついでに言うと、生きる気力も湧かない。何一つ意欲的にこなせない。朝の自分程使い物にならないものを私は知らない。首の凝りの酷いらしい我が家の扇風機は今朝も相変わらず不健康そうに唸り続けており「グゴゴゴ、グギギギ、グゴッ」と、私に話し掛けてくる。やかましい。でも、そちらの方がまだマシで、今の私よか利用価値があるだろう。私は朝食のトーストをボロボロと食い散らかしてトイレで綺麗にそれを吐いた。折角「ノガミ」のパンだったのに。まぁでも美味しかったから良いや。幸い胃の中に食パンと水しか入っていなかったから便器の中はそれ程グロテスクにならず済んだ。ふやけたパンを五分程ぼんやりと見下して、それから、レバーを下げつつ呟いた。

「生産性皆無、消費性抜群」

 朝らしいといえば朝らしいのかもしれない。

 少なくとも私は、ロイヤルブレッドのコマーシャルみたいな朝は存在しないと思っている。もちろんこれは私論に過ぎないのだけれども。




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