スカトロ哲学――序文
※この項目では、排便における社会性についてのエッセイになるので、シリの拭き方に直接関連する項目から入りたいあなたは、二項目の排便の陣形から入るとよいだろう。
――スカトロ哲学とは、スカトロを研究するための学問のことであり、もし略したならば、スカ哲と呼称したい。
ところで、わたしは作曲をする人間なので、稀少ではあるけれど音楽仲間がいたりする。
技術的な意味で、クラシック畑から作曲の方法論を学んだところが多かったわたしは、ロックをやる人間や、クラシックコンプのジャズおじさんから突然テロのような攻撃を受けたりすることも珍しくはなかった。
ただ何故かミニマルミュージックというジャンルの話題になると、そこでは方向性の垣根を越えて、仲良く話したりするところがある。
その関係で以前、わたしはエレクトロニカ系の音楽をやる友人のライブに行ったことがあった。
その場所にはバーテンらしき人がいて、演奏スペースやVJ用のスクリーンもあるような、シャレオツなバーだった。
友人たちはユニットだったし、音楽性の関係でMacやら機材などを並べていたが、対バンのようにバンドで参加している人たちもいた。
その中の一つのバンドに、中原中也の「汚れちまつた悲しみに」はスカトロジーである――というようなことを歌詞の中で言及し、歌っている人たちがいたのである。
この「汚れちまつた悲しみ」にというのは、中原中也の「山羊の歌」から引用された一篇の詩のことを指している。
「彼の詩は大抵の場合、俗的な感情を卑しいものとする観点から語られることが多いように見えるが――というよりもこの詩は『スカトロジー』なのではないか」と、彼らは言うのである。
わたしはこの意見を聞いた時に、オーストリアの精神医学者であるジークムント・フロイトのいう性的発達段階のこと思い出し、肛門期――即ちアナル・ステージのことを思い出した。
排泄の処理を覚えるということは、そこら中に糞便を垂れ流す獣や赤子とは違い、極めて社会的な規範に則ったルールの中で、その処理を行うということである。
だから排泄の行為には、人間が「どこでもウンコをしない」という規律的、社会性を求められる出発点が含まれているという訳だ。
わたしたちは常に自国の法律外にある社会的ルールや「こうしなければならない」といった概念を、「常識」という名分で他人に強要したり、押しつけてしまうことを無意識に行ってしまうものだ。
その基本が「どこでもウンコをしない」行為だというのである。確かにわたしたちは「どこでもウンコをする人」に出会ったら、彼らの事情を把握出来ない限り、その人の行動が奇異に見えることは否めないであろう。
わたしたちはつまり、「どこでもウンコをしない」ことを無意識のうちに常に他人に期待している――いや期待どころか、当然視している。
従って、この「どこでもウンコをしない」子供は、言い換えれば「オムツの取れた、自分で排泄処理の行える子供」になるという意味でもあり、「どこでもウンコをしない」ということは尋常の人間生活を行うのに、極めて重要な問題であるという訳である。
まさにウンコとは、人間が社会的人間になるための出発点となる素材であり、呪いの基礎を与えてくれる存在であるように思える。
わたし個人としては、こういった行為は罪で裁かれるより、恥で裁かれているような気がする。
恥で裁かれるというのは、少し合わない言い方だが、集団から疎外される現象や集団から個を意識してしまうことが、恥の原因の一つにはなるのだと思う。
例えばウンコをいい大人が漏らしてしまった場合は、「ウンコをもらしてしまった罪悪感」よりも、「ウンコをもらしてしまった恥」の方が機能されるという訳である。
そういった意味でスカトロジーというものは、社会性の出発点に関する行為のやり取りをする訳だから、このバンドさんが中也の詩に言及していることもあながち間違いではないのかもしれない。
ただこの意見はわたしがそう思っただけのことであり、彼らが中也の詩に言及している内容と合致しているかは判らない。
このような前提を踏まえて、次項ではいよいよ、わたしのシリの拭き方について語ろうと思う。
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