31:初めての公演1(一座の朝食)

 広場脇の一軒の宿屋。そこがメグたち旅の一座の定宿だった。三階建ての石造りの建物は、年季を感じさせる石壁を朝靄でしっとりと濡らしていた。


 ラチェットは、宿の二階にある食堂へニースを連れて行った。

 店内はそれほど広くはなく、簡素な木製の長テーブルが、壁際と窓際に分かれていくつも並んでおり、テーブルの上の小さなランプが、ゆらゆらと炎を揺らしていた。

 決して質がいいとは言えない、しかし広場を見渡せる程度に透明度のあるガラスが窓にはめ込まれ、朝日に照らされた一座の馬車が、窓越しによく見えた。


 店内では数名の客が食事を取っていた。ぼんやりしたランプの炎と、窓から差し込み始めた朝日で照らされる客の中には、メグの姿も見えた。

 壁際の席で、グスタフとふくよかな女性と共に朝食を食べていたメグは、ニースに気がつくと駆け寄ってきた。


「ニース! 来てくれたのね!」


 メグはニースの手を取って、ぶんぶんと大きく腕を振り、ニースを揺らした。嬉しそうなメグの姿に、ラチェットは一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔を形作った。


「メグ、おはよう。朝から元気だね」

「ラチェット、おはよう。ニースなら、きっと来るって思ってたけど……」


 メグは、ちらりとラチェットに目を向けただけで、すぐさまニースに視線を戻した。興奮した様子で話し続けるメグに、ニースは気圧された。

 メグが即座に視線を逸らした事に、ラチェットは苦笑いを浮かべたが、気持ちを切り替え、食事をするグスタフたちに声をかけた。


「おはようございます、座長、ジーナさん。マルコムさんは、また今日も?」

「ああ、あいつはいつも通りだよ」

「マルコムって本当に懲りないわよねー。いい加減、身を固めてもいいと思うんだけどー」


 ラチェットとグスタフたちの話に首を傾げるニースに、メグが囁いた。


「ニースは気にしなくて大丈夫よ。マルコムはちょっぴりだけだから」


 ニースは、メグの言葉が理解出来ず首をさらに傾げた。いつまでもニースの手を握り離さないメグに、痺れを切らしたラチェットは、ニースの手をメグから奪い取り、窓際の席を指差した。


「ニース、あっちの席で食べるよ」

「あら。ラチェットも、私たちと一緒の席で食べればいいのに」

「馬車にいたずらされたら大変なんだ。ちゃんと見ておかないと」

「そんなに気にしなくても、大丈夫よ」

「そうはいかないよ。ほら、メグも早く食べなよ」


 ぷぅと頬を膨らませて抗議するメグを、グスタフたちの元へ押し戻すと、ラチェットは窓際へ向かった。ニースはメグたちにぺこりと会釈をすると、ラチェットと向かい合わせに腰を下ろした。


「ニースは何にする? お腹は空いていないだろうから、ミルクかな?」

「はい。それで大丈夫です。ありがとうございます」


 ニースが丁寧にお礼を言うと、ラチェットはにっこり微笑んだ。

 注文を取りに来た宿屋の女将に、ラチェットは自分の朝食と牛乳を頼むと、窓の外にちらりと目を向けた。二人の席からは、しっかりと二台の馬車が見えた。

 ラチェットは馬車の無事を確認すると、眼鏡をくいと上げ、優しそうな青い目をニースに向けた。


「まだちゃんと自己紹介していなかったよね。改めて初めまして。僕はラチェット。ハリカでは、オルガンを弾いているんだ。たまに作曲もするけどね。それと、座長のことは分かると思うけど、あっちに座っている女性は、メグのお母さんのジーナさんだよ」


 初めて聞く言葉に、ニースは不思議に思いながらも、ラチェットの指し示す方へ目を向けた。


 ――オルガン……? メグのお母さん?


 グスタフの隣に座るジーナは、ニースの視線に気がつくと、微笑んでヒラヒラと手を振った。ニースは、ジーナにお辞儀を返しながら、メグも将来のかなと、心の中で思った。

 ラチェットはニースに顔を寄せて、真剣な眼差しで囁いた。


「ここだけの話だけど、ジーナさんのことは絶対におばちゃんって呼んじゃダメだよ。ジーナって名前で呼んでね。殺されちゃうから」

「わかりました」


 ことの重要性を感じ取り、ニースが、しっかり頷いた所へ、女将が食事を運んで来た。

 ニースの前には、大きな木製のジョッキになみなみと注がれた牛乳が。ラチェットの前には、木の実入りの黒パンが数切れ入った籠と、薄切りのベーコンとチーズふた切れが乗った小さな皿、薄茶色のスープの入ったカップが置かれた。

 大量の牛乳に唖然とするニースに、ラチェットが声をかけた。


「今日は玉ねぎのスープか。甘くて美味しいんだよね。ニースは玉ねぎは好き?」

「えっと……はい。好きです」


 ジョッキから目を離さないニースに、ラチェットは、ふっと小さく笑うと、広場の馬車をちらりと見た。


「無理して全部飲まなくてもいいよ。余ったら僕が飲むから。もし暇だったら、僕の代わりにここから馬車を見張っててくれると助かるかな」


 ニースはラチェットの言葉に、ほっと胸を撫で下ろした。


「わかりました。ゆっくり食べてください」

「ありがとう」


 ニースは、牛乳を飲みながら窓の外を見る。日が昇り、町中が活気に満ちていくのをニースは感じた。ラチェットは一通り食べ終えると満足げに、ふぅと息を吐いた。


「久しぶりに、のんびり食べれたよ。ニースは優しいね」

「そんなことないです。お役に立てたなら、良かったです」


 照れて俯くニースに、ラチェットは笑いかけた。


「広場には、馬車が二台あるだろう? 一台は、さっきニースも見た馬車で、公演の時は控え室として使うんだ。普段は見張りを兼ねて、僕が寝てるけどね」


 ラチェットはおどけたように肩をすくめ、はぁとため息を吐いた。


「みんな自分勝手でさ。馬車を見張っててくれないんだよ。いたずらされたら大変なのに」

「あらー。心配しなくても、ちゃーんと私が代わりに見張ってあげるわよー」


 食後のお茶を楽しんでいたはずのジーナが、突然会話に割り込んできた。しかしラチェットは、驚く事なく答えた。


「ええ、ジーナさん。夜の公演の間は頼りにしてます」

「それならいいわー」


 ジーナは満足げに頷くと、メグたちとのお喋りに戻っていった。ニースは、ジーナがいる時はうっかり変な事を言わないように気をつけようと、心に誓った。

 ラチェットは、再びニースに目を向けた。


「それでね。もう一台の馬車が、僕にとって一番大切なんだ。あれがないと、僕は仕事にならない」

「あの馬車に、何か特別な道具でもあるんですか?」

「うん、そうなんだ。あの馬車には、オルガンを積んでいてね。ピアノがない場所では、そのオルガンを使って演奏するんだ。僕は元々、ピアニストなんだよ」


 ラチェットの言葉に、ニースは目を輝かせた。


 ニースは、オルガンの事は知らなかったが、ピアノは知っていた。ニースは幼い頃に、姉イリナを通してピアノを知った。

 伯爵家で行われる演奏会には、弦楽器や管楽器の奏者が演奏に来ており、ピアニストが来ることはなかった。伯爵家のピアノは防音室に置かれていたが、常に鍵がかけられ勝手に触れる事も出来なかった。

 ピアノに触れたのはイリナだけだったが、イリナも兄アンヘル達と同じく、ニースを嫌っていた。イリナは、ニースが練習中に防音室へ入ることを許さず、ピアノにニースが触れるのも嫌がった。年に一度、イリナが練習の成果を家族に披露する際にだけ、ニースはピアノの音色を聴く事が出来た。


 ニースはオルガンが何なのかはわからなかったが、ピアノと似たような楽器なのだと理解し、喜びの声を上げた。


「すごい! ラチェットさん、ピアノが弾けるんですね! オルガン演奏は今日もするんですか?」

「ああ、もちろん」

「わぁ! 楽しみだなぁ……!」


 キラキラと瞳を輝かせ、興奮するニースに、ラチェットは照れくさそうに頬をかいた。


「そこまで期待されると、ちょっと照れるな。まぁでも、嬉しいよ。ありがとう」


 ジーナがニヤニヤと見つめる視線を感じて、ラチェットはコホンと軽く咳払いをした。


「今日は僕のオルガンと、座長……グスタフさんのバイオリン演奏、マルコムさんの手品、ニースの歌に合わせたメグの踊りの三つを、公演でやろうと思ってるんだ。よろしくね」


 真面目に話すラチェットの言葉に、ニースの胸はさらに高鳴った。


「グスタフさんがバイオリンで、マルコムさんが手品なんですね! 僕も見れますか?」

「ああ、もちろん。出番までは自由にしていてくれて構わないよ。ニースは控え室にいなくても大丈夫だからね」

「ありがとうございます!」

 

 ニースは嬉しさに顔をほころばせたが、ふと、一名の名前が上がっていないことに気がついた。


「あの、ジーナさんは舞台で何をするんですか?」 

「あー、ジーナさんは……」


 ラチェットが口ごもった所へ、女性二人のお喋りから抜け出したグスタフがやってきた。


「ジーナは、昔は踊り子だったんだが、今は裏方に徹しているよ。たまにタンバリンを叩くがね」

「タンバリンですか」


 ニースが窓際に体を寄せて席を空けると、グフタフは礼を言い、どかっと腰を下ろした。


「ジーナの料理は絶品でね。旅の間は、ジーナが食事を作ってるんだ。衣装作りも得意だから、私たち全員の服を手直ししたりもしてるよ。裏方って言っても、会計なんかはマルコムの仕事だ」

「そうなんですね」


 ニースはグスタフの言葉に納得して頷いた。ラチェットは、ジーナがを、うっかり口にしなくて良かったと、胸を撫で下ろした。


「今日の公演は、午前と午後の二回行う予定なんだ。ニースくんにも出来れば二回歌ってほしいが、頼めるかな?」

「はい、もちろんです。今日ぼくは、歌うために来ましたから」


 ニースの頼もしい答えに、グスタフとラチェットは微笑んだ。

 食事を終えたラチェットと共に、ニースは馬車へと戻る。初めての舞台に向けて、期待と緊張がない交ぜになるニースだった。

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