10:新しい家族1(伯爵家との別れ)
数多の星が輝く空に、二つの月が昇る。旅を始めてから最初の夜は、まだ伯爵領内だったこともあり、二人は野宿を選んだ。
街道沿いには旅人が野宿出来るよう、開けた場所が所々に設けられている。日の落ちる前に火を起こし、寝支度をするのが普通だが、荷馬車にはニースがいる。マシューは日が落ちてから、先客のいない広場を選び、荷馬車を止めた。
「ニース。今夜はここで寝るからな」
「うん。わかった」
「火を起こすから、薪の袋を取ってくれんか」
「まきってなに?」
首を傾げたニースに、マシューは、はっとした。
「そうか。ニースは知らんよな」
「知らないとおかしいものなの?」
不安げなニースに、マシューは優しい笑みを浮かべた。
「何もおかしくなんかない。お前さんの暮らしは変わるんだ。これから覚えていけばいい」
ニースはこれまで、貴族として暮らしてきた。ニースにとって、庶民の知る常識は知らない事だらけだ。マシューはニースに、様々な事を丁寧に教えた。
マシューとの野宿は、ニースが体験してきたものとは全く違っていた。
ニースはまず、焚き火に驚いた。伯爵家では、火石や雷石を使った発掘品を使っており、野宿であっても、火を起こすことはなかったからだ。
火打ち石も見たことのないニースは、マシューが焚き火を起こす姿に興味津々だった。火起こしをやらせてほしいとねだるニースを、マシューは微笑ましく思った。
焚き火を起こしたら、小さな鍋に水を入れ、火にかける。木の実や干し肉など、保存の利く具が少ししか浮いていないスープと、硬いパンが夕食だ。ニースは粗末な食事でも、ひとつも文句を言わず、むしろ珍しいと楽しんだ。
庶民の野宿では椅子などあるはずもなく、近くの手頃な岩や草の上に直接腰を下ろす。これもニースには新鮮な事だった。寝る時はローブや毛布にくるまって地面に転がるだけだ。マシューにいたっては、焚き火が消えないように気を配りながら座って眠るのだ。
ニースが夕食を食べ終えると、マシューは明日も早いからと、すぐ寝るよう促した。ニースは毛布にくるまり寝転んだが、初めての庶民の野宿に興奮し、なかなか寝付けなかった。
静かな夜に、焚き火の爆ぜる小さな音だけが響く。横になっても目を開けたままのニースを見て、硬い地面が寝床だからかと、マシューは心配に感じた。
「ニース、眠れないか?」
ニースは、もそりと起き上がり、マシューの顔をじっと見つめた。
「うん。ぼく、なんだか楽しくて寝付けないんだ。ねえマシュー、何かお話してくれない?」
思ってもみなかったニースの言葉を聞いて、マシューは胸が温かくなるのを感じた。
――辛いかと思ったが、楽しいのか。わしとの時間が……。
マシューは照れくささを誤魔化すように髭をいじり、微笑んだ。
「ニース。ひとつ言っておくが、もうお前さんは、わしの孫だ。マシューと名前で呼ぶのではなく、
ニースは目をまん丸に開いて、ぱちりと瞬きをした。まさかマシューが、自分のおじいちゃんになるなんてと、驚いたのだ。
マシューはニースの顔を見て、ニースがまだよく分かっていない事に気がついた。
――そうか。きちんとまだ話していなかったな。はっきり言わなければならん。
ほぅと息を吐くと、マシューは優しい眼差しでニースを見つめた。
「ニース、これから言うことをよく聞いておくれ」
マシューはニースに教えた。ニースが死んだとされたことの意味を。
アレクサンドロフ伯爵家の三男は死んだ。つまり、ニースはもう伯爵家の人間ではない。伯爵はもう父親ではなく、ニースと仲の悪かった兄姉とも、もう赤の他人だ。
ひとりぼっちになってしまったニースを、リンドが引き取った。公的にはニースは、リンドが
アマービレ王国で苗字と
つまりニースは、もし苗字を名乗るとしたら「ニース・クフロトラブラ」となる。同じ町で同じ名前の人がいたとすると、「町外れの羊飼いマシューの孫のニース・クフロトラブラ」と名乗るのだ。町の中の家の位置と、自分か保護者の仕事が分かればいい。手紙もこれで届くので、庶民にとって、どこの誰かはこの程度分かれば充分だった。
マシューの話を聞くニースの顔は、真剣そのものだった。マシューが話し終えると、ニースは、じっと焚き火を見つめた。
――そっか。ぼくはもう、父さまの子じゃない。ぼくは
揺れる炎は、柔らかな温もりでニースを包む。ニースの胸には、寂しさや悲しさが湧き上がったが、同時に不思議と納得も出来た。
――マシューは、おじいちゃんって呼んでって言った。ぼくを本当にちゃんと、家族にしてくれるんだ。ぼくの新しい家族は、マシューなんだ。
ニースは焚き火を見つめながら、しっかりとした声で呟いた。
「そうすると、ぼくはもう貴族じゃなくて、普通の
パチパチと焚き火の爆ぜる音が、二人を包む。マシューは、ゆっくり頷きを返した。
「ああ、そうだ」
ニースはマシューの返事を聞くと、焚き火から視線を外し、空を見上げた。淡く光る二つ並んだ月は、いつもよりずっと高く、遠かった。ニースは、手の届かない夜空の輝きに、心の中で語りかけた。
――父さま、兄さま、姉さま。今までありがとう。そして……さよなら。ぼく。
ニースは目を瞑り、深呼吸をひとつすると、心配そうに見つめるマシューに微笑んだ。
「わかったよ、
ニースの言葉に、マシューは驚き、息を呑んだ。マシューは、ニースがこんなにも自分の境遇を素直に受け入れるとは、思っていなかった。
――泣き喚いてもいいぐらいだが……。
ゆらゆらと揺れる炎が二人を照らす。ニースの目に滲んだ涙が、きらりと光った。マシューは、ニースが頑張ろうとしているのだと気付いた。
――ほんの数日前に出会ったばかりだ。わしにはまだ甘えられなくても、仕方ないか。
健気なニースを愛おしく感じ、マシューは安心させるように、柔らかな笑みを浮かべた。ニースは、ころんと横になると、毛布にすっぽり入り込み、目を閉じた。
「おやすみなさい、おじいちゃん。これからよろしくね」
マシューにぎりぎり聞こえる、小さな声で呟くと、ニースはすぐに寝息を立て始めた。
初めての庶民の旅はニースの体にはきつく、疲れも溜まっていた。ニースは、まだ五歳になったばかりの子どもだ。張り詰めていた緊張の糸がほぐれ、ニースの意識は深い眠りに吸い込まれた。
マシューは温かな湯を飲み、ふぅと息を吐いた。
――小さな体で、粗末な荷馬車に揺られてきたんだ。体も疲れているだろう。ここから先は、
寝息を立てるニースに、マシューは微笑んだ。
「おやすみ、ニース。いい夢を」
マシューはニースを起こさないよう、小さな声で優しく囁くと、焚き火にそっと薪をくべた。
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