城崎温泉湯けむり裁判開廷す その3

 「――の、あのぅ、大丈夫ですか?」

 どこからともなく女の子の声が聞こえる。

 視力は回復しておらず、自分が立っているのか座っているのかの感覚もつかめないまま、なんとか耳だけが正常さを取り戻していた。

 うっすらと目を開ける。

 まばゆい陽の光が差し込んできて、それは今のボクには刺激が強すぎた。

 ああ、そういえば目眩を起こしたんだっけ。

 ようやく頭の方も意識を取り戻しつつあるようだ。

 まぶたがピクピクと動くのがわかる。

 ようやく、その段になって呼吸をしていなかったことに気付く、とすぐに息苦しくなって、陸に打ち上げられた魚のように体を大きく揺らして浅い呼吸を繰り返す。

 手足の感覚も取り戻しつつあり、視界に光を取り入れても平気なほどに回復し、おおよその五感は取り戻せたような気がする。

 そしてのたうち回る魚のように体を動かすボクの両手に、何やら柔らかい触感が得られた。

 ……ん?


「ぁっ……あっ、あぁぁ……っ」

 そしてボクが見た光景は。

 ボクの両手が見知らぬ女の子の胸を鷲掴みにしている瞬間だった。

「わーっ、わわわっっっ!!!」

 ボクは急いで手を離したのだけど、もちろんそれでその事実が消せるはずもなく。

「……ひっ、く、ひっく……」

 怯えて声も出ずに泣きじゃくる女の子と、まるで囃し立てるように湯気が辺りを立ち込め始めた。


 改めて周囲を見回すと、どうやらここは温泉だ。

 ボクの背後には大きな岩の浴槽があり、湯気はここから立ち込めているようだった。

 視線の先には出入り口、左右には洗い場があり、その背後は大きな施設に繋がっている。

 どこかの温泉旅館の温泉なのだろうか。

 一部は屋根付きだが、屋根のない場所からは太陽の光が差し込む。

 本格的な露天風呂である。


 風呂の説明なんてどうでも良い。

 目の前にいる女の子をどうにかしなければ。

 なんとか誤解を解かなければなるまい。

 いや、事実は事実なんだけど。

 こんなどう見ても大浴場なのに、湿気た服を着たままのボクは怪しさ満載だ。


「あっ、あのね、ボクは――」

 改めて少女の両肩を掴み、しっかりと彼女を見据える。

「――っ」

 まだ泣きはらした跡がはっきりと見える少女は、よく見ると幼い。

 ボクよりも少し背が低いくらいで、高校生どころか中学生くらいかもしれない。

 しかし幼さの中にどことなく美しさのようなものを感じる。

 有り体に言うと幸薄顔というか、想像できる年の割に少し疲れた顔に見えるというか。

 苦労を重ねてきたような、そんな顔。

 さすがに言えないが。


「……っ、あのっ! やめてくださいっ!!」

 少女は両肩を揺らしてボクの手を振りほどく。

 しまった、と思ったときには遅く、その目は警戒のまなざしだった。

 あまりに長く沈黙が続いてしまったために、何かしでかすのかと勘ぐられたのだ。

 言い忘れてたけど、タオル越しだから!

 直じゃないから!

 アダルティな作品ならこの後の展開が存在したのかもしれないが、残念ながら健全な作品である。

 ていうか、現実ならこの反応が当たり前なのだ。

 多分ここ異世界だけど。


「たきーーーっっ…!! おたきいぃぃぃーーーっっっ!!!」

 突如として、紋付袴に帯刀という出で立ちの青年が血相を変えながらやってくる。

「かっ桂様!? ここ女湯ですよ!」

 たきと呼ばれた少女はその青年を見て大きな声を上げる。

 ん、今カツラって言ってたような。

「何を言うかっ! お前の一大事であろう。形振り構ってなどいられるか! 一体何があったのだ」

「え、えっと、空から突然こちらの方が降ってきて……」

「ふむ。親方に連絡は」

「親方……? えっと、女将には、まだ」

「よし、じゃあ君はこれから空に浮かぶ伝説の島を探す冒険の旅に出るんだ」

 唐突。

 ていうか配役どうなってるんだ。

 あの若者ともおっさんとも表現し難い微妙な見た目のお兄さんこそ黒幕じゃねぇのかよ。

「まあ桂様、そんなことをする必要はありませんわ」

「どうしてだい?」

「だって天空の城はこの地にありますもの! ここからだいたい50キロくらい南下した朝来市にっ!」

 えらい具体的な距離と地名が出てきた。

 車で飛ばして一時間もかからずたどり着いてしまう。

 ええ、竹田城って言うんですけどね。

「なんだ、そうだったのか。あっはっはっ」

「もう、おかしな人ね。うふふ」

 ここでエンディングテーマが流れて無事終了……なんてわけにはいかないのだ。

 茶番劇が終わり、何事もなかったかのように再び先程の続きのシーンに戻る。


「そして、この方が私の胸を触ったのです」

「なんだとっ!?」

 桂と呼ばれた男がこちらを目を光らせながら睨みつける。

「貴っ様ぁ……まだそれがしすら手を出していないお滝に手を付けただと? ねぶり散らしただとぉ!?」

 いや、そこまではやってません。

 それよりも今この人やばい発言しなかったか。

 気の所為か。

「不埒な悪行、醜い浮世の鬼は退治してくれよう……!」

 桂が腰の刀に手を掛ける。

 いや、待って。

 待って待って。

 ホント待って。

 そもそも容易く刀抜きすぎじゃない。

 こんな簡単に抜刀して良いものじゃない。

 そもそもだ。

「だからボクは――」

 必死に弁明を図ろうとするたび、どこからともなく声が聞こえて遮られる。

「――よろしい。ならば裁判を始めよう。――開廷の準備を」

 その不思議な声は大浴場全体に響き渡るように木霊した。


 足元は正方形の木目タイルが敷き詰められ、温泉の上にも覆い被せられた。

 次に木の机や柵がいくつか降ってきて、原告、被告人の立ち位置に合わせるかのように配置がなされ、ご丁寧に傍聴人席まで準備された。

 正面の出入り口側に裁判官席が設けられるようで、洗い場には一人分ほどの小さな机が所狭しと並べられた。

 そして正面にひときわ大きな机が落ちてきて、同様に荘厳な椅子が降ってきた。

 閻魔様でも座るのだろうか。

 そんな風に思っていると、再び声が聞こえてくる。

「さぁて、裁判長のお出ましだぁ」

 やけに艶めかしいねっとりとまとわりつくボイス。

 穴子が食べたくなってくる。


「さぁーてさてさて……」

 扉を開けて登場したのは人間ではなかった。

 体は人間と思しき姿だが、首から上は完全に爬虫類だ。

「ヘビ男」

「だぁーれが怪人ヘビ男だ! イモリだ、イモリ」

 怪人とまでは言っていないのだが。

 怪しいという自覚はあるのだろうか。

「イモリ……? トカゲみたいな、家の塀にくっついてるやつ?」

「そいつぁヤモリだ。俺様はイモリだ」

「ええ……どこが違うのさ」

「チクショウ、どいつもこいつもイタリアも! いいか、イモリってのは両生類だ。水辺に住んでいて、名前の由来も『井守いもり』、つまり井戸を守ってるわけだ。一方のヤモリは『屋守やもり』って言うくらいで家の守り神ってわけだ。そしてヤモリは爬虫類。だから田んぼで見かけるのはイモリ、家で見るのはヤモリって覚えておくんだな」

「へー」

「そもそも活動時間が違うのよ。イモリは昼行性、ヤモリは夜行性。だからヤモリは基本的に夜にしか見ないだろう? ちなみにお昼の顔はタモリ……って、このネタ若いヤツには通用しねぇってーの!」

 一人で喋って一人で突っ込んで終わった。

 なんだか陽気な人、いやイモリ人間だなぁ、と思った。


「いいか若いの。ここ城崎ではな、作家は皆イモリ殺しの罪に問われるのだ」

 急にイモリ裁判長がドスの利いた声で話しかけてくる。

 しかも内容が物騒だ。

「そもそもボクは作家じゃなくてルポライター……」

 しかも自称。

「だまらっしゃぁぁいい! 良いからイモリ裁判長による大法廷の始まりじゃあい!!」

 木槌を叩きつけながら彼は大声で捲し立てる。

 先程の二人は呆気にとられ、原告席の下で腰を抜かしていた。

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