第37話 風呂 Ⅱ
その言葉をかけられて、一瞬言葉に詰まった。とっさに嘘を吐こうと思ったが、良い言い訳を思いつくことが出来なかった。そもそも、クロウは嘘を吐くことが嫌いなのである。なので、クロウはどうせばれるなら正直に話そうと決心した。
「はい、実は疑っています。あなた方がティアを隠しているのではないかと」
その返答を聞いてネブラは目を丸くし、そして大声で笑い始めた。それは、クロウがこの屋敷を訪れて初めて見る彼の笑顔であった。
「あぁ、いや申し訳ない。てっきり、ここから腹の探り合いが始めるとばかり予想していたもので。虚を突かれてしまいました」
ネブラは、目じりの涙を指で拭いながら言った。
「ですがよろしいのですか?そんなに正直に言ってしまって」
「……駄目なのかもしれません。嘘を吐くことが生きていくうえで必要だってことは理解しています。だけど、嘘を吐くとなんか胸の奥がもやっとして気分が悪いので、なるべくなら嘘をつきたくないんです。それに、俺の嘘じゃあすぐにネブラさんに気付かれていたでしょうしね」
クロウは自分の頭を掻き、にへらと笑いながらそう言った。
「一つだけ、クロウ殿に聞きたいことがございます。もしも正直に己の考えを話すことで周りの人達が不幸になったとしても、あなたは信念を貫くことが出来ますか?」
ネブラは先ほどよりも真剣な口調でクロウに話しかけた。その真剣な表情にたいしてクロウは真摯に答えたいと思い、考えた。自分にとって信念とは何なのか、信念を貫きたいと考えているのか否かを。そして、一つの答えに思い至った。
「もしもそれが絶対に曲げたくないことなら、きっと俺は自分の信念を貫くと思います。俺は、意思だとか信念だとかって、きっとその人を支えている人たちから貰った思いが積み重なってできていると思うんです。だから、自分の信念を曲げることは、今まで支えてくれた人たちを裏切ることになる。俺は大切な人たちから繋いでもらった思いを大切にしたいんです」
だけど、と言ってクロウは続けた。
「その大切な人たちから貰った信念で、周りの人間を不幸にしては意味がない。だから俺は、最後の最後まで足掻き続けます、信念を貫いてみんなが幸せになれる答えを見つけるまで」
「信念とは大切な人から貰った思いの積み重ね……ですか」
ネブラはそう言いながら遠い目をした。そして、クロウを見て笑いながらいった。
「クロウ殿はとても傲慢な方だ」
クロウにはその笑い顔が、今にも泣きそうな表情に見えた。
「俺からも一つ聞きたいんですけど、本当にこの館にはティアはいないんですか?」
クロウのその問いかけにネブラは目を閉じて、息を深く吐くと口を開いた。
「それは、私の口からは言うことが出来ません。私はこの屋敷の主人を、トゥーリお嬢様を裏切るわけにはいきませんゆえ」
「それって——」
クロウが言い終わる前に、ネブラは浴槽から立ち上がると、クロウに一礼し風呂から出ていった。何がネブラの心を動かしたのかはクロウには皆目見当もつかないが、切れたと思った手掛かりの糸が再びつながった。その糸はか細く、また切れてしまうかもしれないが、少なくともそれは明日立ち上がるための力をクロウにもたらした。
クロウはアリスにもこのことを教えようと思い、風呂から上がるとアリスの部屋へと向かった。しかし、何度ノックしてもアリスが部屋から出てくる様子はない。クロウが試しにドアノブをまわしてみると、鍵はかかっておらずギィィという音と共に扉が開いた。
扉の向こうには光がなく、ただ闇が広がっており、アリスの姿は見当たらなかった。仕方なくクロウは自室へともどり、アリスの帰りを待った。すると1時間過ぎたことに、隣の部屋の扉が開閉する音が聞こえた。クロウはベットから跳ね起き、アリスの部屋へと向かった。
クロウが扉をノックすると、10秒ほどたってゆっくりと扉が開きアリスが出てきた。
「何の用だい?」
その声音はいつもの彼女の声音であったが、その声はひどく冷たいものだった。
「アリス、お前の仮説は当たっていたんだよ!どうやらこの屋敷にティアはいるみたいなんだ」
「……どこでそんなことを聞いたんだい?」
変わらず底冷えする声でアリスは聞いてきた。
「ネブラさんが遠回しに教えてくれたんだよ」
とクロウはアリスに笑って言った。アリスの目はもうクロウを見ておらず、部屋へと戻りながら、そうかとだけ言った。クロウは思わず
「おい、どうしたんだよアリス!」
といって彼女の肩をつかんだ。すると、その感触にクロウは違和感があった。だが、それが何なのかまでは分からなかった。アリスはそんな彼の手を振り払うと
「おやすみ、クロウ。明日は早いんだから早く寝たほうがいいよ」
とだけ言うと、返事も聞かずに部屋の中へと入っていった。闇が包み込む廊下に、クロウは一人困惑した顔で立ちすくんでいた。
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