世界で一番幸せな呪い

一字句

冒険の終わりと物語の始まり

第1話 この世界はきっと絶望で彩られている

 荒い呼吸音にどこか空気が漏れたような音が混じっている。大方折れたあばらが肺にでも刺さっているのだろう。脇腹の刺し傷からは底に穴が開いた桶のようにどばどばと大量の血があふれ出ている。この世界の魔王であるところの彼は、輝いていた金髪も今では自身の血が混じり色あせている。身がすくむような風格は残すところ、その翠色の鋭い眼光だけとなっていた。


 ようやく……ようやくこの長かった戦いが終わる。生まれた時から特殊な能力を持ったが故の使命——魔王討伐を果たし、人類を脅かす魔族を退けるという使命を終え、穏やかな生活を送ることができるようになる。クロウは満身創痍の体を奮い立たせ、最後の力を振り絞り白銀色に輝く剣を振り上げ、とどめを刺そうとした——とその時、魔王はどこにそんな力を残していたのか右腕をクロウの胸に伸ばしてきた。だが、己の剣が届くのが早いと判断し、クロウはその手を無視し魔王の右肩から左脇腹にかけて一直線に斬りつけた。それとほぼ同時に魔王の伸ばした右腕の掌がクロウの胸に触れた。その掌は今まで見たどんな魔術よりもまがまがしく絶望的な光を放っていた。だが、クロウの体には特に不思議な異変は起きなかった。むしろ若干体が軽くなったようにさえクロウには感じられた。魔王の掌の輝きは徐々に薄れ、


「呪われるがいい、貴様と通じる人間すべて……」


 そうつぶやくと、その体躯は力を失い後ろに倒れた。


「た……倒したの?」


 そう後方で薬師のソラがつぶやいた。


「あぁ、ようやく――ようやく倒したんだ」


 クロウは万感の思いでそう言った。だが、喜んでばかりもいられない、苛烈な戦いで酷いけがを仲間——リックとサイモンもいる。幸いパーティー内唯一の非戦闘要員であるソラがひどい負傷していなかったのが救いである。


「ソラ、急いで二人の手当てを頼む」


「任せて、そのための薬師だもの」


 そういって薬草を取り出し、二人の手当てを始めた。クロウは治療はできないため、周囲の警戒に当たることにした。すると奥の通路のほうから何か物音がした。クロウは剣を構え、慎重に近づいた。通路は薄暗く、奥には鉄格子が嵌められた小さな部屋があった。中に誰がいるのかと近づこうと——。


「リック、サイモンしっかりして!」


 ソラの叫び声が聞こえてきた。クロウが急いで先ほどの場所へと戻ると、リックとサイモンが心臓を抑えながらのたうちまわっていた。


「おい、ソラどうしたんだ!?」


「わからない……、急に二人とも苦しみだして——。確かにリックもサイモンもかなりひどいけがだったけど、しっかり治療すれば治るはず。少なくともこんな苦しみ方をするはずは……!?」


 そうしている間にも二人の様子はどんどん悪化してきている。


「おいっ大丈夫かリック、サイモン!」


「た……たすけ……」


 そういいリックはこちらへ手を伸ばしてきた。クロウはその手を握り締めた。


「大丈夫だ、もう魔王は倒した!あとは都に帰るだけだ、帰ったら俺たちは英雄だ。きっと報奨金もたんまりだ、またみんなで酒飲んでバカ騒ぎができるんだよ!こんな殺し合いをせずに済むんだだから――」


 迫りくる不安を押し殺し、自分に言い聞かせるようにそう叫んだ。リックの手をつかむ手に自然と力が入る。その時、手の感触が徐々に人間のそれではなく何か砂のような感触に代わっていくことに気づいた。それを見てしまったら取り返しがつかなくなるという嫌な予感がクロウの脳裏をよぎった。しかし、そんな不安を押し殺し、見るとリックの手が、腕が次第に砂——いや灰になっていった。あっという間にその現象は彼の体全体に広がっていった。


「おいっ、リック……リック!」


 リックを抱え上げようとすると、灰が掌の隙間から零れ落ちてゆく。


「サイモン……サイモン、しっかり!」


 ソラがサイモン……いや正確にはサイモンであった灰の前で泣きながら呆然としている。


「そんな、どうして……。やっと魔王を倒せて平和な日常が戻ってくるはずだったのに。ひどいよ、最後がこんな結末だなんて——」


 かける言葉が見つからなかった。この場で泣きわめいて浴びるように酒を飲んですべてを一時でも忘れられたらどんなにいいだろう、そんな気持ちが湧き上がってくるのをクロウは懸命に押し殺した。だめだ、ここで自分まで泣いたらもう一生この場から動けなくなるような確信が彼にはあった。クロウは、自分たちは帰らなくちゃいけないと己を奮い立たせた。リックたちの亡骸をちゃんと都に埋葬してやりたいし、都で吉報を待ってくれている人たちがたくさんいる。


 クロウは鞄から麻袋を2枚取り出し、唇をかみしめながらリックとサイモンの灰をそれぞれ袋に詰めた。


「……ソラ、帰ろう」


 クロウはソラの手を半ば強引にとると引きずるように城をあとにした。ソラは終始顔をうつ向けたままで表情は見えないままだった。


 城を後にして3日間はソラもクロウも一言も発しなかった。ただただひたすら歩き続けた。魔王の城にたどり着くのに一年近くかかったというのに、歩き始めて5日目で王都までもう半分というところまで来てしまったというのはなんともおかしい話だ。


「……ねぇクロ、私たちの旅って意味があったんだよね、無意味じゃないんだよね?」


歩き始めて4日目で初めてソラが話しかけてきた。


「あるさ、あるに決まってる。俺たちが今まで旅をして闘って、魔王を倒したことに意味がないわけがない。これからは魔族の脅威もなくなって、みんな平和に暮らしていけるんだ」


 そう言った自分の言葉が本心なのか、そう信じたいからなのか今のクロウにはわからなかった。


 このペースなら10日弱で着くと思ったが、7日目の朝を迎えてから、目に見えてソラの調子が悪そうに見えた。顔は青ざめており、少し歩いただけですぐに息が上がってしまっている。今までたまった疲労がここにきて現れたということだろうか。


「ソラ無理するなよ。ほらよく言うだろ、家に帰りつくまでが冒険だって」


 わざとふざけた口調で話してみると、ソラは微笑んで


「大丈夫よ。それに帰ってみんなに魔王はもういないから、これからは安心して暮らしていけるのよって早く言いたいじゃない」


 そう言って一歩一歩足を進めていた。その時、懸命に歩く彼女の服の裾からさらさらと灰が落ちた。


「おいっ!?大丈——」


 そう声をかけると同時に、彼女の右足が足先から次第に灰化していった。彼女はバランスを崩し、地面へと倒れこんだ。


「ははは……、ころんじゃった――」


 そう言って立ち上がろうと右手を地面につくが、その手も脆く崩れ去ってしまいソラは再び地面に倒れた。クロウはソラのもとへすぐさま駆け寄り、彼女の体を抱きかかえた。しかし、ソラの体をむしばむ灰化現象は体の末端から中心へ向けてゆっくりと、だが確実に進んでいる。


 どうしてこんなことになるんだ、魔王も倒してあとは帰るだけじゃないか、とクロウは歯ぎしりをした。あとたったそれだけなのにどうして……。その時急にクロウの頭に魔王の言葉が蘇った。


『呪われるがいい……貴様と通じる人間すべて……』


 あの言葉と、最後に暗く輝いていた魔王の掌——まさかあの時に何か魔法をかけられたのではないかという確信めいた閃きがクロウの頭の中に浮かんだ。


「おれの……俺のせいだていうのか。リックとサイモンが死んだのも全部……」


 頭の中が真っ白になり、全身からいやな汗がながれる。その時、頬に服の裾が触れた。それはソラが残った腕を懸命に伸ばしたものだった。


「あなたのせいなんかじゃないわ、だからそんな顔しないでクロ。私はあなたの笑った顔が好……」


 その言葉を言い終わることなく彼女の体は崩れ去った。笑顔なんてとても浮かべることはできなかった。


 そこから都市までの道のりはよく覚えていない。クロウはただただ足を動かしていた。どれほど歩いたのか、気が付くと都市の入り口である大門の前についていた。大門は開いていたが、いつもとは違い衛兵たちが立っていなかった。門から望む街の景色も、普段の様に人が闊歩しておらずどこの民家の戸も閉まっていた。その異様な街の様子に一つのいやな想像をしてしまう。それを振り払うように、クロウはふらふらと門から町へ入ると靴底にじゃりっと砂を踏んだ様な感触がした。この都市の地面は石畳になっているためにそのような感触がするはずはない。クロウは自分の足元を見た。地面には鼠色の砂……いや灰が積もっていた——。


 人通りの全くいない閑散とした都市の大通りをただひたすら歩いた。そうしているうちに王宮の前にたどり着いた。王宮の前には見覚えのない2人の衛兵が立っていた。その顔は憔悴しきっており、疲れ切っている様子だった。


「おい、聞かせてくれ。ここであったことの一部始終を」


 クロウはそう衛兵に言った。衛兵ははっとしたようにこちらを見て


「あっ、あなたはクロウ様ではありませんか。あなたがこの都に帰還なされているということは魔王討伐は成功したのですか!?」


 クロウがうなずくと、ほんの少しだけ顔に生気が戻ってきた。そしてもうあんなことは二度と起こらないんだと彼はつぶやいた。


「あんなことってまさか人間がいきなり灰になっちまう現象のことじゃないよな?」


 杞憂であってほしいと思いながら訪ねた。


「すでにご存じなんですか!?えぇ……実は3日ほど前からこの都市、いえこの国で次々と兵士や民数百人が次々と灰となっていっています。私の友人たちも何人も灰に……それだけでなく王までもが――」


 と衛兵は沈痛な面持ちで語った。クロウは衛兵が最後に言った言葉に呆然としながら聞き返した。


「おい……王までもって、まさか!?」


「……はい。王は3日前に崩御なされました。しかし、不幸中の幸いとでも言いましょうか王太子はご無事でした」


 衛兵はうつむきがちにそう言った。そうしていると王宮の入り口から誰かが歩いてくるのが見えた。月明かりが歩いてくる人物を照らした。現れたのは金髪に蒼い目をした眼鏡をかけた端正な顔つきの男だった。


「おい、王宮に誰か来た場合すぐに追い返すように伝えておいたはずだが?」


 そう言いながら男はこちらへ近づいてきた。クロウはその男に見覚えがあった。彼は確かこの国の宰相補佐官のオーガストという男だ。特殊な能力を持っているとはいえ、元は一般市民のクロウが王に懇意にされていることをあまりよく思っていないということも風のうわさで聞いていた。オーガストはクロウに気が付くと、少し眉をひそめながらこちらに話しかけてきた。


「あぁ、これはこれは勇者殿、すでに帰還していたのか。すまないが、現在王宮内に立ち入ることは何人足りとも許可されていないため、お引き取り願おうか。」


 そう言って、クロウを追い返そうとしたが、途中で思い返したように


「そうだ、今この国で起こっている灰化現象について心当たりはないか?」


 と尋ねてきた。クロウは言うか迷ったが、結局は今までの経緯を話すことにした。


「実は——」


 話し出そうとすると、オーガストは何かを感じ取ったのか、周囲に気を配ると


「ちょっと待て、誰が聞いているかわからん。向こうの別邸で話を聞こう。」


 そう言ってオーガストは王宮の近くになる屋敷を指さした後、そこに向かって歩き始めた。クロウもそれに続いて、別邸の中の応接室の様な部屋に入った。オーガストは部屋に置いてあったソファーにゆっくりと腰を下ろした。クロウは彼の正面に座り、これまでの経緯を話した。話をしていくうちにオーガストの顔は険しくなっていった。


「つまり、魔王を倒したはいいが死に際に呪いのようなものをかけられたと。そしてその呪はお前と親しかった人間を死に至らしめるものである可能性があるということか」


 クロウの話を最後まで聞いてオーガストはそう結論付けた。


「いや、でもほかの可能性も——」


 オーガストの結論は至極もっともだということは分かる。でも認めたくなかった、自身のせいで大切な仲間が死んだなんて。


「では、これを見てくれ」


 オーガストはそう言って懐から紙の束を取り出した。


「ここ3日間にあの灰化現象で死んだ者たちのリストの一部だ」


 クロウはそのリストを受け取り、恐る恐る書面に目を通した。そこに書かれている人間の中には知らぬ者はおらず、みなクロウと親しい人たちばかりだった。


「その顔を見る限りその者たちはやはりみな君と親しい者たちであったようだな。どうやら、私の推測は正しいようだな。……杞憂であってほしかったがね。君は魔王を倒した英雄であると同時に、この国を大混乱に陥れた張本人でもあるというわけか」


 彼はソファーにもたれかかり、目頭を押さえた。部屋に沈黙が訪れた。妙に時計の刻む音が大きく聞こえる。その間もクロウは自身の呪について考えていた。彼の親しかった人たちはみんないなくなってしまった、これから自分と親しくなった人も死んでいくかもしれない。しかし、どんなに考えてもこの絶望的な状況をひっくり返すような冴えたやり方は思いつかない。


「君には選択肢は2つある」


 オーガストはクロウをまっすぐに見てそう言った。


「1つ目はこの国の地下の牢獄へ君を閉じ込めるということ。この方法なら君は今後一生誰とも接触せず、被害も出ないだろう。しかし、人の口に戸口は立てられない。万一君の存在が知れてしまったら、再び国は混乱に陥るだろう。2つ目は君を魔王討伐の際に死んだことにし、国外へ永久追放するということだ。この方法は君の呪にあう被害者をゼロにすることはできないが少なくとも君がこの国に近づきさえしなければ民にこれ以上の被害が出ることはない」


「……いや、もう一つ選択肢があるだろう。俺を今ここで殺してしまえばいい。そうすれば今後だれも呪で死ぬ心配はいらない」


 とっさに口を突いて出た言葉だが、それほど悪くない考えに思えてきた。ここで死ねばもう誰も死なない、それにこのどうしようもない絶望からも解放される。クロウは震える手を刀の柄に手を伸ばし引き抜いた。引き抜いた刀身が部屋の光に照らされ、鈍い銀色に輝く。いつもより輝きが鈍いのは刀身に魔王の血が付着しているせいだろうか。頭がうまく働かない、もう何も考えたくない。クロウは剣の先を自分の胸の中央部分にあてた。


「おい、何をしている!?」


 オーガストがそう叫び、立ち上がると同時にクロウは自分の心臓を一突きした。刺した瞬間体を激痛が走ったが、次第に体に力が入らなくなり痛みの感覚も意識とともに徐々になくなっていった。


 体をゆすられる、わずかに目を開けると目の端にオーガストがいるのに気が付いた。


「俺は……死ねなかったのか?」


 クロウが思わずつぶやくと、オーガストは


「いや、死んださ、確かに死んだ。心臓をその剣で刺してな」


 そういって、クロウが座っていたソファーのあたりを指さした。そこにはおびただしい量の血があった。そのすぐ近くには刀も落ちていた。


「絶命して、少し経ったあと急に刀が体から抜けて、傷の部分が徐々に治っていったよ。どうやらほかにもう一つの呪をかけられたらしいな。死ぬことができないという呪を」


 それを聞いてなぜだか、クロウは無性に笑いたい気分になった。魔族に苦しめられている人たちを救いたいと思い、つらい旅路も乗り越え、ようやくすべてを終わらせたと思ったらこれか。もう誰とも親しくもなれない、死ねない。永遠に孤独に生きていかなくてはならない。滑稽だ、本当に滑稽だ、涙さえ出ない。オーガストは打ちのめされるクロウのほうを向き言った。


「この国から出ていくんだ」


 えっ、とクロウは半ば虚ろに聞き返した。


「君がこの国にいては、またたくさんの人間が死ぬ可能性がある。この国を出て、誰もいない場所で一人静かに暮らすんだ。地下に閉じ込めておいても誰かに見られれば、戒厳令を敷こうともいつかはばれてしまうだろう。しかし、真実を話せば確実に大混乱が起こる。その点、もし君が国内に一切近づかなければ誰かに見られることもない。魔王を倒したとはいえ、いまだに国外には魔物も多くいる。わざわざ国外に出る人間もいないだろう」


「……あぁ、わかったよ」


 クロウはそう言い、剣を手に取りふらふら立ち上がった、とその時扉の外からガタッという物音が聞こえた。オーガストはバッと椅子から立ち上がり、急いで扉を開けた。彼の視線の先には、先ほどの門番をしていた彼が走り去っていく様子があった。彼は後を追おうとしたが、今からでは間に合わないと悟り、舌打ちをし、扉を蹴った。


「くそったれ!」


 クロウは訳が分からず、彼に解答を求めた。オーガストは忌々し気に壁を蹴りつけた。


「君が生きていて、かつ呪いにかけられたと知られた。一両日中には国中の人間が事情を知っているだろうさ」


 結果から言うと彼の予想は悪い意味で外れた。2時間ほどたって、国を出るための準備を終えたクロウが外へ出ると、そこには国中の民が押し寄せていた。その喧騒のほとんどはクロウを責める声や、恨みつらみを言う声であった。その光景にクロウは臆し、振るえた。体が全く動かなかった。魔王と対峙した時に感じた恐怖とは全くの別物だった。その場から動けないでいるうちに何かがこちらへ向けて飛んできた。それは小さな石だった、向かってくる勢いはさほど速くなく、いつものクロウなら容易に避けることができた。しかし、今のクロウにはそれを避ける気力すらなかった。額に、鈍い痛みが走り、温かい液体が額を伝ってきた。それもつかの間、一瞬ののちにその傷はふさがってしまった。その光景を見た民は、まるで化け物でも見るような目でクロウを見た。その時逆上した民の一人が叫んだ。


「お前のせいで俺の親友が死んだんだよ!責任取ってくれよ!」


 クロウには言い返す言葉はなく、ただひたすらこぶしを握り締めて耐えるしかなかった。するとその時


「こら、やめんか!」


 そう言い、クロウの前へ進み出てきた老人がいた。老人は


「この方は、我々を救うために厳しい旅に出て、そして魔王を討ってくれたんじゃぞ。なのにその言い方はあるまい」


 そう言い、クロウのほうへ振り返り微笑んだ。見ず知らずの老人だったが、クロウはとても救われた気がした。だが、彼は分かっていなかった、彼の安堵が何をもたらすのかを。老人は微笑んでいたが、眉をひそめ、苦し気に呻きだした。彼は体をくの字に曲げ右手で心臓を抑えた。その時、ぽとっと何かが地面へ落ちた。クロウは反射的にそれをみた——見てしまった。それは老人の手のであった、それは次第に灰へと変わっていった。それと同時に老人はばたりと地面に倒れた。一瞬その場からすべての音が消えた。先頭に立っていた初老の婦人のヒッという声を皮切りにその場は混乱に包まれた。倒れこんだ老人は懸命にクロウのほうを見上げ、


「助け——」


 というところで全身が灰となった。その瞬間クロウの中の何かが切れた。気が付くと彼は群衆をかき分け無我夢中で走り始めた。走って走って走って、王都を出ても走り続けた。彼にはもはや目の前の道すら見えておらず、ひたすらに死んでいった人たちに心の中で謝り続けていた。そして、躓いては立ち上がりを繰り返し、どこまで来ただろうか限界まで走ったクロウは地面へと倒れ込んだ。あたりに音はほとんどなく、荒れた彼の心臓の拍動だけが耳に響く。全身から汗が噴き出ていたが、体の内側は不自然なほど冷えていた。あれだけ大切な人たちが死んだといううのに涙の一滴すら出ず、クロウは自分という人間に心底絶望した。そうして、もうすべてがどうでもよくなったというように瞳を閉じ、眠りに落ちていった。


 次に目を開けると、辺りはすでにもう明るくなっていた。クロウは無言で立ち上がると、ふらふらと歩きだした。歩き始めて何日ほどたっただろうか、小さなぼろ小屋を見つけた。クロウは魔族の国と人間の国のはざまにあるこの荒れ果てた小屋に腰を落ち着けることにした。小屋の中には小さく汚れた竈以外何もなかった。彼は何もない床にうつぶせに倒れこむとそのまま目を閉じた。そうしてそのまま押し寄せてくる微睡に身をまかせた。

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