第24話 万馬券
太陽の光が届かない、深海のような暗闇の場所を、和彦はただ彷徨っている。
和彦は、何故自分がここにいるのかすら分からず、まるで、少年時代に夜遅くにカブトムシやクワガタを近所の森林に取りに出かけていた時の如く、何かそこには恐怖があまりなく、自分の心の隙間を満たしてくれる何かがあるという不気味な感覚に陥りながら、足元を照らす光すらない闇を歩いている。
「ん……?」
目の前に何かの気配を感じ、和彦は歩みを止める。
それは、朧気に光を浴びてきて、辺りがたちまちにして明るくなる。
「……!?」
観客が大勢いるライブハウスのステージに、和彦は立っている。
うろたえて、隣を見やると、咲がおり、そっとギターを手渡す。
「咲ちゃん、ここは……?」
「何って、これからライブをやるのよ……」
咲はにこりと笑い、マイクを口元にやる。
「レクイエム、いきます!」
(やるっかねーか……!)
和彦は、これから何を演奏すれば良いのか、ここは夢かそれとも現実なのかなどの疑問に襲われるのだが、咲が過去の自分が十八番にしていたレクイエムを歌おうとしているのが視界に入り、ギターの弦をかき鳴らす。
♫♫♫♫
「ギャアギャア……!」
耳をつんざくような鴉の鳴き声で、和彦は目が覚める。
鴉は何かにおびき寄せられるかのようにして、和彦の住む部屋のベランダに止まっているのだが、和彦が目が覚めて、一鳴きしてすぐに飛び立っていった。
(これは幻覚なのか……?)
和彦は、鴉に恐怖に慄いているのだが、ふらふらとベランダに足を進めると、黒い羽が落ちているのに気がついており、紛れもないリアルなんだなと気が付き、ほっとしていいのかよくは分からないのだが、軽くため息をつく。
(俺、変な動物に目をつけられちまったよ……! 嫌だなぁ、鳩だったらまだしもなぁ……!)
誰が好き好んで鴉と仲良くなりたい人間はいない。
自分の病気が、空を舞う鴉のせいであると和彦は知っており、エアガンでも買って撃とうかなどと動物虐待をする事を本気で考えているのである。
『ブブブブ……』
スマホが鳴り響き、今日は仕事休みだが出勤でも入ったのかと思い液晶を見やると、そこには咲の番号が表示されている。
「あぁ咲ちゃん、どうしたの?」
「和彦さん! 今日は競馬場に行く日ですよ! 10時に待ち合わせって言ったじゃないですか! もう10時半ですよ!」
「あー……」
和彦は寝ぼけ気味だった頭をフル回転させて、今日が咲と5駅ほど離れたQ市の競馬場に行くと約束をした日だったなと朧げながら思い出す。
「ごめん! 今すぐ行くわ!」
「もう! しっかりしてくださいね! 駅で待ってますからね!」
和彦は慌てて電話を切り、パジャマをそそくさと脱ぎ捨てる。
『……行かないで……』
後ろの方から、女性の声が聞こえて、後ろを振り返ると鴉がベランダに止まっており、じっと和彦を注視している。
♫♫♫♫
Q市にあるV競馬場は、ここら辺の街では唯一と言っていいほどの娯楽な為に、集まってくる人は多い。
和彦は、ほぼ確実に咲ちゃんは怒っているだろうなと思いながら、競馬目当ての乗客に混じりQ駅に降り立つ。
沢山の人だかりと共に改札の前まで来ると、黒のキャップを被った女の子が和彦に向けて手を振っている。
改札を抜けると、その女の子が近寄ってきて、キャバクラか水商売の出待ちかと和彦は警戒するが、それが咲であるなとすぐに分かり、安堵のため息をついた。
「もう! 遅いじゃないですか!」
「あぁ、ごめんごめん。何時からだったっけ?お目当てのレースは」
「11時半からですよ! バスがあるのでそれ乗っていきましょう!」
咲は和彦の手を握りしめて、バス停の方へと足を進める。
久しぶりに女性の手を握り、和彦は照れ臭くなった。
♫♫♫♫
競馬場に着き、競馬新聞を片手にレースを待つ中年の男性たちに混じり、こんな風になりたくないなと思いながら和彦達は万馬券を買う。
「これが当たれば200万円ぐらいになるんだな……」
和彦は万馬券と書かれた、5センチ四方の紙を見て、どうせ当たらないだろうなこんなものはと思い、咲と共に場内へと入る。
「でもまぁ、何もしないよりかはマシですよ」
「うーんまぁ、そうなんだがなぁ……」
競馬場に若い女性は殆どおらず、和彦とカップルにしか見えていないのか、冴えない中年の客たちは咲達を見てニヤニヤと笑っており、早くこんな場所からおさらばしたいと彼等は思いながら、ベンチへと座ろうとする。
「あれ!? 柊さん!? それに朝霧君じゃない!?」
ド派手な竜のスカジャンを着、ハンチングとサングラスをかけた中年の女性が、和彦達の元へと近寄ってくる。
その声色で美智子だなと、彼らはすぐ気がつき、見られたくないものを見られちまったなとため息をつく。
「何あんた達、付き合ってるの?」
「いや違いますよ! 暇だったんで遊びに来たんすよ!」
和彦は自分達のことで変な噂を流されたくはないなと思い、慌てて否定する。
「ふぅーん、てか結局柊さん競馬やるのね。どのレースを買ったの?」
「それが、万馬券しか……」
万馬券と聞いて、美智子はがははと、奥歯の5本の銀歯を見せんばかりに口を大きく開けて馬鹿のような笑いをする。
「え!? いや、何かおかしいんすか!?」
和彦は、美智子の下品な笑いが気に食わなかったのか、むかっとした顔つきで美智子に尋ねる。
「だってねぇ、この馬って未だに勝ったことがないのよ! 大人しく別の馬券にした方がいいんじゃない?」
「え!? そうなん、咲ちゃん!?」
「ええ! これじゃないとダメなんです! 絶対! 私ね、この馬が勝つ夢を見たんです!」
咲は余程の自信があるのか、それとも絶望してヤケクソなのか、この馬がいいと頑と譲らない気持ちでおり、咲の真剣な眼差しを見た美智子は、何かに気がついたのか、笑うのをやめた。
「ふーん、金が必要ってわけね、しかもかなりの額か。借金でもしてるの?」
「いえ、そんなんじゃあ……」
まさか、音楽の必要機材を買うためだとかは口が裂けても言えないなと咲は思い、適当に話をはぐらかそうと、嘘八百を考えている。
「まぁ別に深く聞くことはしないけどね……てか、レースが始まるわよ、あと少しで!」
美智子は場内時計を指差して、パドックを見やる。
(頼むから勝ってくれよ……!)
和彦は、この日のために普段滅多に行かない神社に願掛けに行っており、神にすがるような気持ちで馬を見やる。
♫♫♫♫
外れ馬券が飛びかう場内では、美智子が悔しそうに電子タバコを口に加えている。
その傍らでは、咲と和彦が嬉しい表情を浮かべて換金所に足を進めている。
「あーあ! また負けちゃった! ついてないわねぇ! ……あんた達、勝ったんでしょ? 200万もの大金で結婚でもするの?」
結婚、と冗談まじりで言っているのは理解はしているのだが、和彦達の顔は赤くなってしまっている。
(よっしゃ、この金で資材が買える……!)
彼らの音楽活動に必要な、音響設備などの機材は全て合わせて100万円に満たないが、最新のものを買おうとしているので、150万近くになる算段である。
「そうだ、ねぇ、いいこと教えてあげるわ」
美智子はニヤニヤして、彼らを見つめる。
どうせまた、仲間内でのくだらない噂話なんだろうなと和彦達は思う。
「え? 何すか一体?」
「うちの会社の就業規則、変わったのよ。副業をして良くなったのよ。本業に差し支えない程度だったらいいのよ」
「え!? じゃあ、音楽活動は……」
咲は一筋の光明だとばかりに、美智子に尋ねる。
「あくまで趣味だからいいでしょうけれどね、くれぐれも本業に支障が出たらダメだからね。
ただ動画はね、まぁ、これは、会社に影響が出るようなことをしなければ平気よ。ネットで顔出しとか社内情報を話さなければね」
「そうなんだ……」
和彦と咲は、自分達が諦めることを考えていた音楽が、やっていいんだと会社の就業規則でちゃんと決まった事を安堵してため息をついた。
「まぁ、私これからヤケ酒飲んで帰るけれども、音楽とかはあくまで趣味程度にしておきなさいよ、またね……」
美智子はバイバイと手を振って、彼等の前から立ち去っていく。
彼女の後ろ姿を、和彦達はいつまでも見つめていた。
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