第8話 疑惑
真夏の暑い盛りを過ぎ、9月下旬に差し掛かった金曜日の夕方の事、忙しい納期を過ぎて落ち着き始め、定時で帰宅した和彦は、自分の部屋で珍しく家事をやっている。
普段コンビニがメインの食生活で、栄養失調気味の体では咲はおろか女に見向きもされないだろうという危機感が芽生え始め、学生の時以来ほとんど使っていなかった調理器具で回鍋肉を作っている。
ピピピ、という電子音が和彦の耳に飛び込んできて、ご飯が炊けたのだなと分かり、炒め終えた回鍋肉を皿に入れて、部屋に運び入れる。
汚かった部屋は、綺麗に掃除がされており、フィギュアなどのオタク的趣味を除けば普通の30代の若い男の部屋である。
前の炊飯器が壊れたままであり、大型家電量販店で買った新品の炊飯器で炊き上がったご飯を蒸らしていると、隣の部屋からは、壁越しにギターの演奏が聞こえてくる。
(ん……? あれ、何年振りに聞いたんだ、生のギターの演奏は……)
昔、音楽の夢に挫折する前に嫌という程聞いていた弦を弾く音。
和彦は咲のスマホにメールを送る。
『ギター買ったの?』
『ええ。前から欲しかったんですよ(^^) 時給が上がったので(^^)』
すぐに既読になり、返信が来て、和彦はニヤリと笑う。
『咲ちゃん趣味でバンドでもやるの?』
趣味でやるのならば、わざわざ何万円もするギターなど買う事は無いーー和彦はそう思い、咲にそうラインを送る。
『ええ。暇つぶしにやろうかと思って。まずはストリートミュージシャンからかなと笑』
咲からストリートミュージシャンをやると聞き、和彦は昔、元彼女と街中で歌っていても、1時間歌っていて入った金はたった10円だったのを思い出す。
(ここは止めるべきなのか? いや、この子の夢を邪魔するわけにはならぬ……俺は昔、ストリートミュージシャンをやってて、全く見向きもされずに終わったんだ……!)
肉を口に運びながら昔の苦い思い出に浸っていると、ベランダの外から気配を感じ、恐る恐るカーテンを開ける。
「カァカァ……!」
「うわあぁつ!?」
二羽の鴉が、ベランダに飛び交っているのが和彦の目に飛び込んできており、慌てて窓を閉める。
(何でこう、最近鴉が多いんだ!? ダメだ、気になってしまって、ここんところ調子が悪くなる!……精神病なのか? いや、統合失調症なのか!? ダメだ、あれになってしまったら、俺はどこにも務まらなくなる! だが、病院に行かなければならないのか……?)
和彦とは別の部署に、激務で心身が疲弊して心療内科に通う羽目になった人間がおり、統合失調症だとカミングアウトをしたが、周囲から偏見を持たれて職を追われ、さらに運が悪いことに悪評が周囲に流れて仕事が見つからなくなり、別の県に引っ越した人間がいる。
統合失調症のみならず精神病患者への偏見は、ノーマライゼーションの考えが芽生えつつある社会でもまだ存在しており、精神病を盾にして凶悪犯罪をやる人間がたまに出るたび、またかと思われるのである。
『ブブブ……』
スマホのバイブが再度部屋に鳴り響き、和彦は気を取り直してスマホを見やる。
『なんか、さっき大きな声出してたけど大丈夫ですか!?』
先程の和彦の悲鳴を聞き不安になった咲からのラインを見て、和彦はこれを正直に話すべきなのか少し悩み、ラインを送り返す。
『いやな、鴉の鳴き声が聞こえて不気味だったんだ。最近俺の周りに鴉が多いんだよ……』
『あれっ? さっきいましたっけ? ギターに夢中で気がつかなかったです、なんかうるさくてすいません……』
すぐにラインが既読になり、返信が来て和彦はため息をつく。
(俺やっぱり病気なのかなぁ、心療内科に出かけたほうがいいのかなぁ、でも咲ちゃんはギターを鳴らしてたから気がつかなかったしなぁ……)
『きっと仕事で疲れてるんですよ、ノイローゼ気味ですから休みましょうよ』
(本当に俺は疲れているんだなぁ……)
和彦はカードやレシート、小銭でパンパンに膨れ上がった財布を開き、何かをおもむろに探し始め、数分して、黒のカードを取り出す。
『暁月心療内科クリニック』
それは、和彦が新人の時にお世話になった心療内科であった。
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