麗しの君(2/17更新)
狂言巡
酒と恋人
ことん、恋人は琉球グラスをかたむけて笑う。
薄い橙色のおちょこは、初任給を貰った時に彼女へプレゼントした物だった。
「今日はよく飲むな、葵」
「そうだねえ」
呆れたように声をかければ、葵(あおい)は楽しそうに理由を並べた。美味しいお酒が手に入って嬉しいからだとか。桜の花がもう散ってしまいそうだから今のうちだとか。
「君とお酒を飲めて嬉しいんだよ」
あげく、そんな殺し文句まで。
「飲み過ぎじゃないか」
「ワクの君には言われたくないなあ――君が飲まないかって、言いだしたんでしょう? 」
上目遣いにとろけた瞳が見上げてくるものだから、芳川隆影(よしかわ たかかげ)は困って、結局目をそらしてしまった。酒にぬれたお前の唇が扇情的にあかくぬれていて、下手すりゃ襲ってしまいそうだとか。そんな大胆なこと、まさかこの彼が言えるはずもない。
「思ったより、甘いな」
「ああ、辛口の方が好きなんだっけ」
「嫌いじゃない、こういうのも」
「そうかあ」
くすくすと押し殺したように笑うあたり、いつもの彼女のようなのに。そっと重ねられた掌はとても熱くて、彼女がずいぶんと酔っていることをはっきりと伝えてくる。……どうせなら、自分の要求不満も掌ごしに伝われば楽なのに。いや、そうしたら嫌われるのは俺か。
「今日はたっぷり一日甘やかしてやる」
――不遜にも言い放ったのは自分だ。昨日の夜は寝かせてやれなかった償いのつもりだったが、これは思ったよりずっと。 とりあえず夜までは待たないとな。幼馴染みあたりが聞いたら爆笑しそうなことを考えながら、もう一口酒を飲んだ。口にいれた瞬間、広がるほんのりとした独特の酒の味。
「魚料理と食べると美味しさが際立つんだよ」
葵が嬉しそうに目を細めた。
「お前みたいだ」
「え?」
「飲んでみるとやみつきになるところだよ」
そう言えば葵の大きな瞳がさらに大きく見開かれて、そして数度瞬きした。
「愛しくなる、そう言った方がいいか?」
「……君って人は、本当に」
葵は続きを言わなかった。ただそっと肩をに頬を預けて再び微笑んでいた。
(おや、)
隆影は軽く目をみはる。いつもなら、耳どころか首まで赤くして俯いて黙り込んでしまうのが常なのに。
「来年もこの時期に遊びにきてね」
「ああ」
「桜が咲くのは嬉しい、散るのは儚く美しい」
そっと葵は庭園で毎年咲き誇っている桜の樹を見上げた。ひらりひらり。気まぐれに風が吹いて数枚の花びらが散って行く。
「寂しくないか? 散っていくのを見るのは」
「寂しいよ」
彼女の目が、蜃気楼のように揺らめいたのは一瞬のこと。隆影はもう、桜をみていなかった。
「だから、君が傍にいてもらえると嬉しいんだ。おこがましいかもしれないけど」
「……そうか」
赤みがかった闇が押し寄せてくる。彼女の陶磁のような肌は、そのまま溶け込んでしまいそうだ。
(まいったな)
隆影は正直に思った。
(さすがにこればかりは、どうにもできそうになさそうだ……)
とりあえず、夕闇が暗い闇夜に塗りつぶされるまで火照った彼女を抱きしめていよう。抱き寄せた彼女からは、甘いアルコールの香りがした。 ――このまま酔いつぶれることが出来たら、きっと極上の幸福なのだろうが。
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