それは最期の願い
野林緑里
本編
すべてが焼き尽くそうとしていた。
住み慣れた屋敷
その中で先ほどまで笑っていた者たちが
もうすでに冷たい肉の塊になり果てている。
彼のすぐそばには、彼が愛した妻と息子の姿。
呼びかけても答えてはくれないだろう。
母親はまだ幼い息子を抱きしめたまま、すでに息絶えている。
幼い息子は、なにが起こったのかわからずにただ母を呼んでいる。
「父上……母上が……」
幼子は、涙をいっぱいにためて、彼を見ている。彼の視線は、息子ではなく、部屋の入り口のほうへと注がれている。
音が聞こえる
足音だ。
「俺の運も尽きたようだ」
「父上?」
構えていた刀を下ろすと、幼子のほうへと振り返る。
「済まぬ。俺はお前のことも守れぬようだ」
そう言いながら、幼子の頭を撫でる。
「そんなこと、ございません」
すると、どこからともなく声が聞こえてきた。そこには一人の男の姿。その腕には、彼の息子とさほど変わらない子供の姿があった。すでに息耐えているようだ。
「どうか、我の息子をお使いください」
「しかし……」
「息子はすでに息絶えてございます。身代わりになさいませ。さすれば、若だけでも生き延びれましょう」
彼は、男を見た。
「逃げぬのか?」
「逃げるはずがありません。僕は、あなた様についていくつもりです」
「……」
「どうなさいますか?」
「……。すまぬ」
そういいながら、彼は死んだ子供を受けとると妻の亡骸のそばに置き、不安そうな顔をする息子を抱きかかえた。
「父上?」
そして、男のほうへと渡す。
「?」
「それはならぬ。この子とともに生きよ」
「しかし……」
「俺は生きた。けっこう満足しておる」
「けど、僕は……」
「これは命令だ。早くしろ。追手がくる。どうか、この子を頼む」
「父上?」
幼子は手を伸ばす。しかし、優しく微笑んだだけで彼は背を向けて歩きだした。
「父上。父上」
父親のほうへと向かおうとする幼子を必死に止める。
「若。行きましょう」
「けど、父上が……」
「だめです。あなたは生きなければなりません。どうか、父上と母上の想いを受け止めてください」
「いやだ。いやだ。ぼくも父上の元へいく。おいていかないで」
「すみません」
男は幼子を気絶させる。
「わかりました。あなたさまの意向に従います」
そう言いながら、男の眼に涙が滲む。
それを拭うと、炎に包まれつつある屋敷から脱出した。
彼は息子たちが脱出したことを認めると、すでに死んだ妻と最も信頼する家臣の子の元へと戻った。追手はもうじきくる。
「すまぬ。
彼は、妻のそばに座ると刀を鞘から引き出す。
追手の近づく音がする。
彼は、刀を腹にためらいなく突き刺した。血が口から零れ出る。
「ここだ。しとめろ」
追手が部屋に入ってくる。
「すまぬ……せめて……もう一度……お前に……」
彼の脳裏に別の女性の姿がよみがえる。もう十年以上になる。彼女とともに過ごした日々が懐かしい。どうしているのだろうか。達者でいるのだろうか。
それすら、もうわからない。
どうか、達者でいてほしい。そう願いばかりだ。
「それはならぬな。俺は……」
隣に横たわる妻を見る。
「俺はもう……」
彼女の元へはいけない
ならば、いまそばにいてくれる妻とともにいこう。
あの世でまつことにしよう。
愛おしい人よ
「舜天……。達者でな……」
彼は崩れ落ちた。
それから間もなく、追手たちが姿を現す。
すでに息絶えた親子らしき三人の亡骸。
「自害したか」
追手の一人がつぶやく。
「どうなさいますか?」
「敵はすでに自害した。我らの勝利だ。証拠として、首を持ち帰ることとする」
せめて、わが息子だけでも、彼女に逢えたならばいい。
享年33歳
平安末期強弓とされた源の武将の最期だった。
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