だから、あなたにさよならを
瑞野 蒼人
本編
「えっ、お見合い・・・ですか?」
突拍子もない話だった。私は目を点にする。
「草村さんも、この年で独り身は心配でしょ?差し出がましいようであれなんだけど、実はいい話があるのよ・・・」
「はあ・・・そう言いましても、なにぶん突然のお話ですので、私からはまだなんとも・・・」
「悪い人じゃないから、会うだけ会ってみません?」
グラスの中の麦茶、氷がカランと音を立てた。
梅雨は嫌いだ。
毎日じめじめして、湿気が肌にまとわりつくような感じがする。なんともうっとおしい。そうなると、気分も何となくだるくなる。一日も早く、この憂鬱な季節が過ぎないものかと、俺は毎年思う。
家の近くに、きれいな紫陽花が咲くことで有名な公園がある。この時期になると、近隣からたくさんの観光客が街にやってきて、色とりどりの紫陽花を楽しむ。
私たち家族も年に一度
家族みんなでそこに行くのを楽しみにしていた。
雨の日、子供と傘を差してその公園に行く。子供は途中で飽きて雨で遊んでしまう。びちゃびちゃになって、妻が怒りながらバスタオルで体を拭いてあげる。
昨日のことのように思い出せる。
カラー写真みたいに鮮やかに残る
右脳の片隅の記憶。
しかし、そんな日々は続かない。
「草村さん、奥さんが・・・」
職場の部下から告げられたその一言が
信じられなかった。
妻は、私の同僚と不貞に走っていたのだ。
私の仕事が忙しく帰りが頻繁に遅くなることをいいことに、家に同僚を連れ込んで色事にふけっていた。しかも、それは過去形ではない。現在進行形で、二人は逢瀬を重ねていた。
悔やんでも悔やみきれない、その一言だった。
仕事に肩入れするあまり
一瞬の不貞を許してしまった私の不覚。
妻に問い詰め迫る間もなく、妻は自ら家を去った。
そして、再び紫陽花の咲き乱れる季節、印鑑の押された離婚届が役所に出された。
バアーーっ、という警笛。
電車は急角度のカーブに差し掛かる。
シートに投げた体が、遠心力で大きく傾いた。
ふっ、と、現実に引き戻される。一日中重たいスーツに包まれてると、体が窮屈でたまらない。関節がギシギシしてくる。
はっきり目が醒めないまま、外の景色をぼんやり眺める。最近めっきりと老眼がひどくなった。疲れも抜けなくなってくる。歳かな、とは言いたくないけど、老いを認めざるを得なくなっていく。
妻が家を出ていってから、十数年が経つ。
少し広くなったアパートで、私は娘とふたり、細々と暮らしてきた。
苦労は絶えなかった。
娘とも何度も衝突した。
一介のサラリーマンが働きながら
一人の娘を育てることは無謀とも思えた。
しかし、私は必死で頑張った。
自分への戒めも込めて。
穏やかで控えめな妻、とても不貞になんて走るわけがないと、私も心のどこかで高を括っていたのかもしれない。所詮は男と女、陥ってしまった関係から引き返すことなどできないのだ。
何度も妻を憎んだ。
でも、憎みきることはできなかった。
胸がうずく。
電車は鈍いうなり声をあげて
曇天の海岸線を走っていく。
【まもなく、山陽垂水、山陽垂水です。】
ぼんやりしているうちに、いつの間にか電車は垂水まで来ていた。自宅の最寄り駅。いつもならとても長いように感じる道程だが、今日はあっという間に過ぎていた。
満員の電車の中から押し出されるように外に出る。すぐに改札を出ることができなくて、しばらくホームにたたずみ体を落ち着かせる。はあっ、と腹の底からため息をつく。まるで、頭の中の破裂寸前になった感情を空に放り出すかのように。
「あれ、お父さん!?」
改札を出たところのコンビニで、娘のさつきと出くわした。さつきは何かを買い物したようで、白いレジ袋をぶら下げている。
「さつき、お前も帰りか?」
「うん。めずらしく早く退勤できたから。今から家に帰るところ」
大学を卒業した娘は、そのまま地元で就職して三宮で事務の仕事をしている。学生だった頃とは違ってなかなか芯のある立派な仕事ぶりを見せている・・・らしい。聞いた話だが。
夕方の商店街を、家に向かって二人で歩いていく。通りには小さな子供を連れた母親の姿や、家路を急ぐスーツ姿の会社員が多い。時折、家の窓から美味しそうな匂いが漂ってきて、すっかりからっぽの胃袋を刺激する。
「さつき」
「なに?」
「仕事、楽しいか?」
「どうしたの急に?何かあった?」
「いや、何となく聞いただけだよ」
娘は不思議そうな顔をしたが、やがて何かを感じ取ったかのような表情を浮かべて、「心配しないで。ちゃんとやってるから」と、明るく返してくれた。
「そうか、安心したよ」
「・・・五月だもんね。お父さんも色々、思い出すんでしょ・・・」
娘もなんだかんだ、私のこの複雑で憂鬱な気持ちをちゃんと理解してくれているようで、少し心が落ち着く。思えば、娘は本当に気丈だ。なにもわからないまま、母親がいなくなったというのに、そんな姿に、私はいつも助けられている。
「・・・ありがとうな、さつき」
「いいの。感謝しないといけないのは私もよ」
「・・・そうやって言ってくれるのも、お母さんと一緒だな」
「本当に?私そっくり?」
「いいところを受け継いだよ。お前は」
「ふふ・・・ありがとう」
「さつき」
「なに?」
「父さんな、お見合いすることになったんだ」
私の一言を予想だにしていなかったようで、娘は目を点にした。
「どうしたの?急に」
「いや、仕事先の人に紹介されてな……」
「お父さんからお願いしたんじゃないの?」
「お父さんはそんなことしないよ」
「ふーん」
娘は少し考え込んでいるようだった。
「いいんじゃない?」
「え?」
娘から出た、意外な一言。
「私ももう大人だから。私のことなんか気にしないで、自分がどうしたいかだけ考えたらいいと思うな」
はっとした。
娘は、私が思ってるよりも、
きっと何倍も何十倍も大人だった。
癒えない悲しみと、絶えない憎しみ。
一身にそれを背負って生きてきた。
娘の分まで背負って生きてきた。
でも、今日の娘の姿を見て、そんな気持ちも少しだけ晴れたような気がした。一人でずっと背負ってきた悲しみを、やっと下せるときが来た。そんな気がした。
絞り出すようなか細いしゃがれた声で
「ありがとう」
娘にそう言った。
コンビニの看板に明かりがともった。
もうすぐ、夜だ。
[完]
だから、あなたにさよならを 瑞野 蒼人 @mizuno-aohito
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