13 計算違いもいいところ

 瑞生の実家は古い日本家屋だ。昔ながらの縁側には、母親の作ったグリーンカーテンがあり、強い西日を遮っている。

 先程母が打ち水をしたおかげもあって、うだる猛暑の熱気は和らいでいた。

 ゴーヤの葉の隙間を、夕日と共に僅かに冷えた風がふき込んでくる。

 瑞生の隣には麦茶とスイカと蚊取り線香。そして目の前には将棋盤が置かれ、挟んで向かい側には弟の良平がいた。

 新妻の美砂とともに実家に帰省中なのだ。――と言っても、彼らのマンションはここから三十分もかからない場所にあるのだが。

 台所ではその美砂が母と一緒に夕食を作っている。気さくな嫁は母と相性が大変よく、結婚後あっという間に打ち解け、今では本物の親子のようだった。意気投合した彼女たちの楽しげな笑い声がここまで響いてくる。


 ぱちん、と駒を動かした直後、瑞生は「」と小さくつぶやいた。目の前でにやりと笑う良平がすかさず瑞生の《角》をとる。

 幼いころはこうしてよく遊んだが、大人になってからは将棋盤をはさむことも減った。

 良平が久々に一局どうだと声をかけてきたのだった。そしてその目的は将棋ではなく、兄の腹を探るためだろうと思えた。


「一昨日の花火からぼうっとしてるらしいけど、なあにをんだろうなぁ」


 瑞生は小さく舌打ちをする。これはどうやら母親から話がいっているらしい。隠していたつもりだったのに、ダダ漏れだったようだ。

 母に似た良平は昔から人の心を読むのに長けている。瑞生も比較的得意な方だけれども、未だに敵わないでいる。

 あと少しだけ、読みきれていたなら。――瑞生は後悔していた。


「どうせだろ」

「……」


 花火大会の時に瑞生が策を講じたのを、あっさり見破ったのだろう。図星だけれども瑞生は淡々と歩を打った。

 まだ形勢逆転とまでは行かない。作戦を練り直せば、まだ。挽回のチャンスは残っている。

 そう言い聞かせるのだけれども、いかんせん、連絡先を手に入れていないのは痛かった。一昨日の出来事は、アドレス入手のあとの手順だったはずだったのだ。

 まさか、で、真面目な彼女が瑞生を受け入れるとは思いもしなかった。計算違いもいいところだったのだ。


『ずっと好きだった。忘れられなかった』


 キスを拒まれなかったことで舞い上がった瑞生は、彼女の恋人のことも、ただの同級生だと言われ続けたことも――何もかもを忘れて想いを告げた。――告げてしまった。

 だが、彼女は瑞生に対して返事をくれるわけでもなく、拒むでもなく。いつもどおりの少し戸惑ったような笑顔で、瑞生に礼を言って去っていった。近くだから、ここまでいいと言って。


 さすがの瑞生もわけが分からなかった。そのせいで失念してしまっていたが、彼女は相変わらず個人の連絡先を渡してくれなかった。

 それが致命的だった気がして仕方がないのは――


 彼女が、突然東京へと戻ってしまったからだった。


「みさが心配してたんだよ。突然帰るって連絡してきて、電話番号とメルアド変えたらしいし。……兄貴と何かあったんじゃないかって。まあ、あの直後だし、普通はそう読むよなあ」


 瑞生はそのことを義妹のメールで知った。

 なにか言ってませんでしたか? という、義妹にしては遠慮がちなメールには、疑いが見え隠れしていた。

 瑞生は奥歯を噛みしめる。


「なにもない」


 あったけれど、とてもじゃないが口にできないと思った。何の約束もないまま、恋人のいる女性に手を出してしまったなど。

 瑞生が悪者になるのはいいとしても、彼女の名誉のためには絶対言えない。彼女にはそんなのは似合わない。


(どうしてなんだ)


 恋人がいると言っていた。なのに、どうして拒まなかったのか。拒まなかったくせに、どうして何も言わずに東京に戻ったのか。

 瑞生にはわけがわからなかった。彼女という人間を知った気になっていたけれど、全く知らない女に思えて途方に暮れる。


「このままでいいと思ってる?」


 良平はこちらを見ずに将棋盤を睨んでいる。


「いつまでも裏ばっかりかいててもな。策士策に溺れるっていうし」


 玉を逃すと、良平は飛車で瑞生の陣まで鋭く攻め入った。駒が成り、龍になる。


「最後は直球のほうがいいと思うけど――ほら、王手」


 直球でいける相手ならばどれほど楽だったことか。


「…………」


 なんだかんだで兄想いの弟だ。そう思いながらも、瑞生は詰んだ棋譜を見て途方に暮れる。


(……やっぱり、おれ、詰んだんじゃないか?)

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