5 彼の猫背が伸びたとき

 遠くで汽笛が鳴っている。博多港の大型船だろうか。

 テラスに出ると、潮風がわたしの髪をなびかせた。気温は高いけれど、風が強いせいで案外過ごしやすい。

 わたしは青い空から降り注ぐ焼け付くような日差しをショールで遮る。眩しさに目を細めながら、上原くんの背中に近づいた。

 彼はパラソルの下の椅子に腰掛けて玄界灘げんかいなだを眺めている。暑さが堪えたのか、礼服の上着は脱いでいて、白いシャツが目に痛いくらいだった。

 誘うような仕草に見えたし、テラスに出るときに扉の開閉の音がしたから、わたしがついてきていることなど、絶対にお見通しだと思った。

 だというのに、上原くんはわざとらしいくらいにたっぷりと間をとって、わたしを振り向いた。


「あれ、どうしたの?」


 振り向いた顔を正面からまともに見てしまって、わたしは僅かに動揺する。

 顔の輪郭からはあどけなさが完全に消えている。かつては少し華奢な感じがした首や肩もいつの間にかしっかりしていて、上原くんは男の子から男の人になっていた。

 だけど、この目は告白してきたあの時と同じ。――この、人の心を見透かすような目だけは変わっていない。気づくと、なんだか胸がざわざわとした。

 わたしは落ち着こうと大きく息を吐く。


「さっきの――か、『加奈子さん』って、いったいなに」


 胸に刺さったままの疑問。抗議を込めて言ったのに、上原くんは不思議そうに首を傾げた。


「え? 別に深い意味は無いけど?」


「深い意味はないって、だって、普通『浜田さん』って言うべきところでしょう。周りに誤解されたらどうするの」


 上原くんは、にっと笑った。


「いや、つい、ね」


「ついってなに」


「昔からずっとそう呼びたかったから」


「…………」


 どこまで本気にすればいいのかわからなくて、わたしは言葉を失う。

 っていうか、まるでまだ好きって言ってるようにも聞こえるんだけど……いくらなんでも、まさかね? これはからかってるんだよね? そうよね?


「あ、困ってる。もそんな顔してた。『あー、この人たぶんオタクだわー、気持ち悪い、どうやって断ろう』とかそんなこと考えてたのが駄々漏れでさ」


「な、何言って……!」


 そんな性格悪いことは考えていなかったと思うけれど、もしかしたらという想いがよぎった。

 あの時の上原くんは確かにそういう印象を抱かせるタイプの男の子だったし、わたしも高校生らしく幼かったし。

 反応に困って、いつの間にか顔を押さえてしまったわたしに、


「加奈子さん、図星なの?」


「違います! ……っていうか、その呼び方はやめて!」


 わたしが声を荒げると、上原くんは「あーよかった」と楽しげにくつくつと笑った。


「か、からかったの!?」


 上原くんは答えずに、頭をくしゃくしゃとかき混ぜる。せっかく綺麗にセットしていた黒髪が風にふんわりと揺れた。彼はさらにホワイトタイを緩める。そして何かを脱ぎ捨てるようにして、海に向かって大きく伸びをした。

 彼の猫背が伸びたとたん、じわじわと変わりかけていた彼の印象が完全に塗り替えられた気がした。例えるなら、モノクロだったものに色がついたような感じだった。

 と、そのとき、


「披露宴ってさ、かったるいよな。とくに親族のとか。礼服は肩が凝ってしょうが無い。加奈子さん、抜けない? おれいい店知ってる」


 今しがた感じた変化を裏付けるような発言に、わたしは目を剥いた。


「何言ってるの。あなた新郎のお兄さんでしょう――ってだから、その『加奈子さん』はやめて」


「そう? おれの両親も、弟も、おれが披露宴ちょっと抜けたって全然気にしない。携帯もあるし、何かあれば連絡してくるし」


「そういう問題じゃないよね?」


 ねえ、これいくらなんでも本気で言ってないよね?

 さっきの『名前で呼びたかった』もだけど、どこまで本気なのか本当にわからなくて、まじめに付き合っているのが段々馬鹿らしくなってくる。


「ってか、加奈子さんも実は面倒くさいだろ?」


「……だから、加奈子さんっていうのは……」


 だんだん突っ込むのが面倒になってきた。どこまでマイペースなんだろう、この人は。げんなりしたわたしを無視して、上原くんは続ける。


「こういう場所って『次はあんたの番だ』っていろいろ探り入れられるし」


 それは共感できたのでわたしは一瞬うなずきかけて、反論に詰まった。

 親戚が一同に集まるこういう席では、他の未婚者は集中砲火を受けるものだ。

 わたしも例外なく言われたし、結婚の予定も恋人の有無も根掘り葉掘り聞かれた。新郎の兄であり独身であれば、わたし以上に言われたのかもしれない。

 だけど、だからといって披露宴を抜ける理由にはならないと思う。


「で、でも抜けちゃ駄目。大人としての最低限のマナーだって。そんなんじゃ社会でやっていけないよ。協調性って、どんな仕事ででも重要でしょ」


 真面目に諭すと、上原くんは「あいかわらずお堅いよなあ、冗談が通じなさすぎ」と苦笑いをした。


「じゃあ、妥協するとして。披露宴は最後まで出る。だけど、披露宴が終わったら、二人で飲み直さない? ?」


「な――――」


 どうやら飲みに行きたいというのは本気だったらしい。名前呼びを止めて、同級生という立場でのまともなお誘いに切り替えてきた。

 それなら――と考えかけて、はっとする。妥協されたからといっても、結局二人で飲みに行くということには変わらなかった。

 しっかり、加奈子!

 どうやって断ろうとわたしは必死で言い訳を考えた。そして、これならという理由を見つけて意気込んだ。


「でも二次会があるし」


「おれも出るから。その後で」


「そ、そうなの!?」


 予想していなくてわたしは焦る。でもよく考えたら、従姉のわたしが呼ばれているのだ。兄が呼ばれていてもおかしくはない。

 うーんと、うーんと、と新たな言い訳を考えていると、上原くんは突如噴き出した。


「あんたさあ、相変わらずなんだよなあ。頼まれると、理由がないと絶対断れない。それでいつも損してんの。委員会のときの雑用とかさ、全部押し付けられてたろ。高校生の時と全くおんなじ。断れない時の顔までおんなじ。嫌だから嫌だって言えばいいだけの話なのにさ。まじうける」


 え、そんなことあった? っていうか……笑うとかめちゃくちゃ失礼じゃない!? 

 自分でも覚えてないようなことを持ちだされて、わたしはカッとなった。


「うるさいよ!」


 理性が限界を訴えた。わたしはつい激してしまい、慌てて口を抑えこんで、周囲を見回す。


「おお、こわ。あんたもちゃんと怒れるんだ?」


 上原くんはおどけて、火に油を注いでくる。一度蓋が開いてしまったせいで、怒りを塞ぐものが何もない。


「もうからかうのはやめて。――わたし、恋人がいるから、男の人と二人でなんて飲みにいけないの!」


 これでどうだ!

 もしかしたらわたしはドヤ顔をしていたかもしれない。だとしても、もうどうでもいい。この人と二人で飲みに行くなんてとんでもない!

 だけど失礼にも上原くんは一蹴した。


「お断り定番の嘘だな」


「嘘じゃないし!」


 すると、上原くんは一瞬苛立たしげに目を細めた。


「でも、あれだろ。あいかわらず全部向こうから申し込まれてるだろ。で、好きじゃないのに条件で判断して付き合ってるってやつ」


「はあ!? 条件? そんなことない!」


 反射的に言ってしまったけれど、自分から告白して付き合ったことがないのは確かで、声が一瞬小さくなる。だけど、


「――好きじゃないと付き合わない」


 それだけははっきりと言い切る。誰でもいいなんてあり得ない。

 だけど、彼は真っ向から否定した。


「いいや、あんたは、まだ本当の意味で恋愛したことないね。絶対」


 っていうか、わたしなんで、ほとんど面識のないこの人とこんな話をしてるんだろう?

 むくむくとそんな想いが湧いてきたけれど、会話の流れにどうしても逆らえずに、わたしは問うていた。


「なんでそう言い切れるの」


「だって、あんた、高校の時と変わってないし。傍から見てて、全然楽しそうじゃない。野球部の高橋くんと付き合ってた時と、全く同じでさ」


「…………たかはし、くん」


 わたしはその名をまるで他人事のように繰り返して、そんな自分にぎょっとする。

 そうだ。たしかにそれは野球部の元カレの名前。だけど、言われるまで忘れていた。その後に付き合ってきた男の子たちの名前で塗りつぶされていた。

 それに気づいているのか気づいていないのか、上原くんは続けた。


「おれ、図書室であんたが難しい顔で野球のルールブック読んでたの覚えてる」


「な、なんで、そんなこと覚えてるの」


 というか、いつそんなの見てたの?


「それまで小説ばっかり読んでた奴が、いきなり野球のルールブックって、そりゃ、驚くって」


 いや、小説読んでたのもなんで知ってるの。そっちの方が気になるって!


「それに、友達に映画に誘われても、野球があるからって断わってたしさ。毎月一日は絶対行ってたのに、付き合いだしてからやめただろ?」


「だから、どうしてそういうこと知ってるの!」


 堪えきれずに訊くと、


「そりゃ、あんたが好きだったから」


 何を今更とばかりにはっきり言われて、心臓が止まるかと思う。

 ほんと、この人、何なの。どうしてこう、恥ずかしげもなくそんなことを言えるわけ。


「尽くすのは結構だけど、自分の趣味を全部犠牲にして、楽しい思い出とか一つでもあったわけ?」


「も、もちろん――」


「へえ、例えば?」


 言い返そうとするけれど、記憶はあいまいにぼやけ、印象的なものは何も取り出せなかった。

 それどころか、朝からお弁当を作って大変だったなとか、猛暑日に炎天下で応援してて熱中症になりかけたなとか。そんな苦労話ばかりが浮かんできてぎょっとする。

 でも、だって、十年以上も前のことだし。第一、あんな風に振られたんだから、忘れていても罪はないと思う。

 楽しい思い出は、失恋のせいで薄れてしまったのだ。きっと。

 自分に言い訳をするわたしにむかって、彼は言った。


「つまりさ。心になにもひっかかってないんだろ? 揺さぶられるようなことがなかったんだろ? それってさ、好きだったって言える?」


 眼鏡の奥でにやっと笑われて、わたしは怒りで顔が赤らむのがわかった。

 昔の恋を蒸し返されるだけでも嫌なのに、それを勝手な解釈で否定されるなんて。

 こんな屈辱的な体験、したことないし、これからも絶対しないと思った。

 言葉を失ったままのわたしに、上原くんは懲りずに誘う。


「で、おれとの三次会、行かないの?」


「あなたなんかと、行くわけないし! それどころか、二度と顔見たくないし!」


 怒りを爆発させたわたしは、遠慮無く罵倒する。けれど、上原くんはなぜかすごく楽しそうだった。踵を返し駆け出すと、周囲の人がちらちらとこちらを見る。

 トイレに逃げ込んで、誰もいないパウダールームでわたしは小さく呻いた。

 鏡の向こうのわたしは、真っ赤で、今にも泣きそうな顔をしている。何年ぶりかで見る感情的なひどい顔だった。

 顔の筋肉がどこかしこでふるふると震えている。久しぶりに使った表情筋がきっとあったはず。


「――――ああああああ、もう! なんなのあの人!」


 恥ずかしくて悔しくてしょうがない。

 本気で二度と会いたくないと思った。

 だけど、自分で大人の良識を説いておいて披露宴を抜けるわけにはいかなかった。

 遠いけど親戚になるんだった――思い出したわたしは絶望しつつ、澄ました顔の上原くんの前を通り抜けて、自分の席に戻ったのだった。

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