4 美女と野獣の結婚式

 最初は電話が鳴るのが怖くて電源を切っていたけれど、一週間後、恐る恐る立ち上げたスマホには留守電もメッセージも入っていなかった。仕事が忙しいのか、それとも愛想を尽かされたのか。

 がっかりよりもほっとしている自分を知り、もう答えは出ているのかもしれないと思う。


 スマホを再び切ると、解放された気がした。拓巳からも、仕事からも、時間からも、わたしを縛っていたすべてのものから。


 そうして実家でだらだらと過ごすうちに、わたしは昔の自分を取り戻していくような心地がした。

 冷え性に悩まされた体は、冷房の効かない家で汗を流すうちに、本来の体温を取り戻しはじめたし、新鮮で濃厚な味の食べ物たちは、麻痺していた味覚を蘇らせてくれた。

 街灯の少なさは夜空の星を際立たせたし、街の喧騒は遠く、虫は毎夜大合唱だった。

 庭の雑草の成長で時が動いているのを知るような、緩やかで小さな世界で、わたしはゆっくりと回復していった。



 ***



 そうしてやってきた海の日。みさちゃんの結婚式は、福岡市内にある筥崎宮はこざきぐうという格式の高い神社で、荘厳な雰囲気の中行われた。

 その後バスでの移動を経て、海沿いのホテルのレストランでの披露宴。規模は五十人程度だろう。親族と友人と職場の人が六人がけのテーブルにに分けられている。わたしは親族だったので、後ろから数えて二番目のテーブルだった。


 大きな窓からは夏の太陽に輝く海が見える。そのせいか、厳かな式とは違って、披露宴は比較的くだけた開放的な雰囲気で進んでいく。

 訊けば、大手損保会社の総合職で働いていたみさちゃんは、現在転職し、派遣社員として働いているらしく、社内の人は呼んでいないそうだ。

 新郎の勤め先は従業員数五人というとても小さな会社だから、ほとんど家族同然。堅苦しくなるわけがない宴だった。


 皆、無礼講だとでもいうように酒を飲み、酔っぱらいが次々にでき上がっていく。そして宴会が歓談の時間になると、待ってましたとでも言うように、顔の赤い人々の列が高砂前にできた。出遅れたわたしは、列の後ろに並んで、おとなしく順番を待つ。そうしながら、高砂の二人を観察した。


 みさちゃんは白無垢から色打掛のお色直しを経て、今は真っ青なカクテルドレスに着替えていて、ティアラと青い花と白い花を緩く結い上げた髪に飾っていた。

 比喩でもお世辞でもなく物語の中からお姫様が抜け出してきたようで、わたしはほうっとため息を吐く。


 隣の新郎は母が言ったとおりにがっちりと大きな体をしていて、タキシードが窮屈そうだ。並ぶとみさちゃんが本当に小さく可憐に見えた。花嫁を最大限可愛く見せるという仕事を自らやってのけるのがなんだか可笑しく、微笑ましい。


 あれ?


 上原さんをじっと見ていたわたしは、瞬きをする。彼の目元になんとなく既視感を、それから「ウエハラ」という名前にどこか懐かしさを感じたその時だった。


「――ねえねえ、ミサさんって、ウエハラのどこが良かったわけ?」


 新郎の友人たちの質問に、過去に潜りかけていたわたしは我に返った。同時に、嫌な予感に顔が引きつる。


「ミサさんみたいな美人が相手とは知らなくって。このウエハラがって思うと、意外でさあ」


 それはたぶん、式場にいる者が多かれ少なかれ抱いている疑問だろうと思えた。見かけだけであれば、美女と野獣、そんな組み合わせなのだ。


 新郎の上原さんは、185センチの巨体を持っているものの、顔はいたって普通。

 職業もウェブデザイナーだというから、プログラマのわたしと同じで、さほど高給取りでもない……はず。以前のみさちゃんの好み――いわゆる高身長高学歴高収入というやつだ――からいうと、身長以外は大きく外れている男性だったのだ。


 そして新郎側の友人も、一般人としてはかなりの美人の部類に入る花嫁を見て驚いたのだと思う。


 二人の馴れ初めは披露宴の初めのほうで司会から紹介されたけれど、わたしも友人の紹介で出会った(これは合コンを上手く言い換えたものだそうだけれど)というごく普通の理由にはいまいち納得がいかなかった。

 この一見ちぐはぐな二人であれば、もっとドラマチックな事があったのではないかと思えたのだ。


 おそらく新郎友人もそういう意味で問いかけたのだと思うけれど、いかんせん、言葉が足りないと思う。きっと酔っているせいなのだろうが……今の質問はまずい。


「……それ、どういう意味です?」


 ドスの利いた声が響き渡り、わたしは、ああやっぱり、とうなだれた。

 ティアラがが角に見える。

 みさちゃんは見かけは可愛らしいけれど、中身は過激なのだ。そのせいで恋人に逃げられたことが多々あったと聞く。


 案の定、酔っ払いたちは顔をひきつらせて、互いの顔を見合わせている。高砂席に冷ややかな空気が流れれば会場全体が凍りつく。

 だが、それも一瞬のこと。隣で他の客と話していた新郎がぱっと振り向くと、にやっと笑ったのだ。


「はいはい、おれが超かわいい嫁さん貰うからって、お前ら嫉妬すんなよなー。選ばれた理由? そりゃあ、に決まってるし。惚れられて言い寄られて、仕方なくオッケーしてやったっていうか?」


「リョウヘイ、勝手なこと言わないで。全部のわけないでしょっ!? っていうかわたしが一方的に好きみたいに言わないでよね!」


 みさちゃんの怒りの矛先があっという間に新郎に向けられる。痴話喧嘩が始まったとたん、新郎友人は揃ってホッとした様子だった。

 見渡すと、新郎側の職場の人で、小さな赤ちゃんを連れた夫婦と目があう。

 すでにみさちゃんの気性をすでに知っているのか、旦那さんの方は苦笑いをしていたけれど、奥さんのほうがわたしと同じように肝を冷やしたらしい。よかったですね、とでもいうように微笑んできた。


 会場の空気が元に戻って安心すると、わたしは次第に愉快な気分になってきた。


 なるほど、母が言ったとおり。みさちゃんはいい人を捕まえている。


 上原良平は、間違いなくいい男だ。


 空気を読むのに長けていて、しかもその場で一番良い対応を素早く取ることができるだけの頭の回転の良さもある。

 自分が悪者になることを厭わなくて、進んでクッションになることで、場の雰囲気を壊す棘をすぐに丸めてくれる。

 どこか尖ったところのあるみさちゃんとは、なんてお似合いなんだろうと思った。


 よかったね、みさちゃん。


 笑いをこらえきれずにこっそり微笑んだわたしは、ふと視線を感じて、顔を上げる。


 視線を感じたのは新郎側の一番後ろの席――つまり親族席だった。新郎親族は三名。父、母、そして、兄のはず。

 再発した既視感を追って注視すると、過去の色あせた記憶に色が戻ってくる。同時にぼやけた輪郭がはっきりと形を取り戻し始め、それがテーブルにいた一人の男と重なったとき、わたしはゆっくりと目を見開いた。



 ***



 彼の姿の上に、席次表の名がテロップのように重なった気がした。

 ああ、そうだ。上原うえはら瑞生みずき。そんな名前だった。


 彼の名前を思い出したとたん、過去の場面がまるで昨日のことのように蘇った。

 同時に湧き上がる気まずさに、わたしは、思わず彼から目をそらす。彼が昔と同じ問いを投げかけてくるようで、見ていられなかったのだ。


 上原くんはわたしの高校時代の同級生だ。

 いや、名前を思い出したというと語弊がある。わたしは当時あまり彼のことを知らなかったのだ。そして積極的に知ろうとも思わなかった。


 彼は高校二年の夏、わたしに交際を申し込んできた人だった。

 だけどわたしは同じクラスの男の子と付き合っていたから、それを理由に断わった。


 断る理由があることでほっとするような、言ってしまえば、なんだか得体が知れなくて、ちょっと関わり合いたくないようなタイプの男の子だったと思う。

 背は低くはなかったけれど、痩せていて姿勢が悪く、度が強くて分厚い黒縁のメガネをかけていた。真っ黒な髪には少しだけ寝ぐせがついていて、頓着しない人なのだなと思った覚えがある。

 確か国立理系クラスで、国立文系のわたしとはクラスも教室のある棟も違った。委員会が同じで、それぐらいの接点しかない人だった。

 だから、最初に浮かんだのは、どうしてわたし? という疑問だった。


 普通、彼氏のいる女の子に告白はしないと思ったから、たぶんわたしに付き合っている人がいることを知らないのだろうと思った。だけど、違った。


『それは知ってるけど、でも、疲れない? あいつ、絶対浜田さんとは合わないと思うんだけど』


 眼鏡のレンズの奥の目を鋭く光らせて、上原くんはそう言ったのだ。


 当時わたしが付き合っていた男の子は、野球部の爽やかな男の子で、女子の憧れの的だった。わたしもこどもだったから、やっぱりかっこいい男の子には憧れていて。だから、付き合ってと言われて一も二もなくうなずいたのだ。


 だけど、理想と現実の乖離は激しかった。平日の放課後も休日も野球漬けの男の子と付き合うのは、野球が好きでないと厳しいのだ。

 応援に行ってもどこか部外者扱いされるし、実際、野球のルールも知らないわたしは部外者以外の何者でもなかった。

 ルールは必死で覚えたものの、やっぱりそこまで熱中できず、ちょっと億劫だな、家でゆっくり本が読みたいな、映画館に行きたいな――そんな欲が出始めた頃だったから、心を見透かされているようで、びっくりした。そして怖くなって上原くんから逃げ出した。


 その後、三年になってクラスが変わると同時に、わたしは彼と別れた。

「なんかさ、思ってたのと違って」

 と言われての一方的な別れだった。そして彼はすぐに野球部マネージャーと付き合いだした。


 上原くんを学内で見かけるたびに、胸が跳ねた。彼が眼鏡の奥で「ほら、やっぱりね」とでも言っているように思えて仕方がなかった。

 だから、わたしは元カレを避けるレベルで彼のことを避け続けていて、彼のことは何も知らないまま。

 だけどどうしてもあの時の問いかけが忘れられず、心の隅っこにいる彼を消すことができなかったのだ。


 なのに、気づかないなんて、迂闊すぎる。だけど、あれだけ印象が変わってしまえば、しょうがないと思う。


 ちらりともう一度視線を流すと、彼はもうこちらを見ていなかった。


 野暮ったかった分厚いメガネは、薄型レンズのスマートなフレームの眼鏡に変わっている。髪も結婚式だからだろうか、美容室に行ったすぐあとのように綺麗に整えられている。

 そんな風に外見はすっきりと変化したけれど、猫背と濃く真っ直ぐな眉はそのままだ。そのせいで、大人しそうで真面目な印象は昔と変わらず残っている。


 わたしのこと、覚えて、る? 覚えてない?


 あちらが変わったのなら、わたしも変わったと思うけれどどうだろう。

 できればこのまま知らないふりをして逃げたいと思った。だけど狭い会場、お互いが遠くとも親戚となるのだから、逃げ続けるのにも無理がある。


 悶々と考えていたわたしの前に突如にゅっとビールの瓶が差し出された。

 ぎょっとして振り向くと、そこにはいつの間にわたしの視線の先から移動したのか、その上原くんがいた。顔をひきつらせるわたしに、上原くんはニッと笑った。


「新郎の兄の上原瑞生です。はじめまして。弟ともども、今後ともよろしくお願いします」


 同じテーブルの父と母が「あらー、わざわざありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします」と慌てて反応する。だけどわたしは、彼がわたしだけに聞こえるように告げた言葉で固まってしまっていた。


「――なあんてね? 、お久しぶり」




 父と母とそつない会話を続ける上原くんは、わたしの知っている彼とは別人だった。と言っても、あの告白でしか接点がなかったのだから、その印象しかないのだけれど。


 あの一瞬で抱いた印象は、朴訥で、真面目で、頭が良さそう。

 だけど、今思うと、それは全部外見からの印象だった気がする。だって、よく考えると、朴訥で真面目な男の子が、あんなふうに彼のいる女子に告白してくるだろうか。


 母が世間話を振っている。会話がBGMに混じって流れているのはわかるのだけれど、『加奈子さん』という響きが衝撃的すぎて頭が働かなかった。いつしか失礼なくらいに上原くんを見つめてしまっていたわたしに、


「でも――すごいねえ、加奈子。加奈子? 聞いとるね?」


 母が話しかけてきた。まだ動揺中だったわたしはハッと我に返る。


「いえ、そんなことはないです。所詮フリーターですよ」


 どうやら父と母は、わたしがぼんやりしている間に、根掘り葉掘り質問をしていたらしい。妙齢の娘を持つ親は、同じく妙齢の男性が気になるのかもしれない。

 上原くんは苦笑いをしながらも答えてくれたみたいだが、控えめではあるけれど、あからさまな探りに、わたしは気まずくてしょうがない。


 あれ? でも……お母さんが探りを入れるってことは、つまり彼は


 話を聞きそびれたことをわずかに悔いていると、挨拶を終えた上原くんは自分の席に戻っていった。


 そして父や母の興味が彼から逸れるのを見計らったようなタイミングでわたしを見つめると、そのままふらふらと会場の外に出ていく。

 気が付くとわたしは立ち上がって、宴を飛び出してしまっていた。

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