一睡の真夏

ziggy

一睡の真夏

 ベッド脇の窓、カーテンの隙間から入道雲が覗いている。時折吹き込む風も生ぬるく、薄暗い部屋に涼を加えるに至らなかった。

 寝床の蒸し暑さは少し汗ばむ程度で、泥濘のような睡気を抱いた頭にはむしろ心地良い。裸の上半身はぺたぺたと軽く湿っている。自分の鼻息が身体にかかるのを感じた。

 油蝉の声が空気に流れている。

 ふと、自分が一枚の紙を手にしていることに気がついた。見てみればそれは写真だった。異国風のビーチの写真で、珊瑚が砕けて形成されたのであろう真っ白な浜と、エメラルド色を湛えた海のコントラストが美しかった。低い藁葺きの建物も南国の雰囲気で、私は暫くその写真に見入っていた。

 不意に、写真の下の方に何やら書いてあることに気がついた。目を凝らしてそれを読んでみようとするが、どうしても読めない。それが日本語なのか、英語なのか、何か他の言葉なのかも分からなかった。ただなんとなく、それは年上の友人が自分に宛てて書いたものなのだという認識だけがあった。私は読むのを諦めてその写真をベッドの上に放り、また窓の外に目をやった。

 カーテンの隙間から入道雲が覗いている。空気に蝉の声が流れている。

 

 軽い頭痛がした。

 一瞬目を細め、それから気がついた。

 窓の外に入道雲などなかった。蝉の声などどこにも聴こえなかった。シーツの上にある写真だと思っていたものは財布から落ちたらしいレシートだった。


 夢を見ていた。


 季節は夏至を少し過ぎた頃。まだ蝉にも入道雲にも少し早い。もちろん南国から写真を送ってくるような友人もいない。

 夢だった。

 午睡に午睡の夢を見て、初夏に真夏の夢を見た。

 夢にまで見なくたって、もう少しで嫌でも始まるというのに。

 蝉も入道雲もまだ見えはしないが、肌に染み込むじっとりとした暑さの中に、夏のあくびを感じていた。

 切子のコップに水を汲んで、ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。

 ぬるい。



 ○



 昼下がりの陽光が、窓に嵌まった木組みの格子の形に区切られ、風呂場に立ち込めた湯気の中に落ちている。

 それはあたかも空中に光の階段が掛かっているようで、シャワーで汗を流す手を止めてぼーっと眺めていた。光の中でうねる湯気の塊は、まるで大きな生き物の蠕動にも見えた。

 湯気というものは、注意して見ると細かな水の粒子の集合体であることが分かる。光の階段でそれらがキラキラと舞っている中に、何やら奇妙な光景を見るようになった。湯気の中に粒のようなものがパッと現れては消えてゆく。あちこちで、どこからともなく現れては落ちて消えてゆくのだ。それがなんだか分からずしばらく目を凝らしていたが、ふとその正体に気がついた。


 雨だ。

 湯気が立ち込めた光の階段の中では、雨が降っていた。


 事実それは小さな降雨現象そのものだった。湯気は小さな水の粒子の集合体である。そして空気中を舞っているうちに粒子同士はぶつかり、一回り大きな水の粒になる。周りの粒子を巻き込んでそれが続いていくうちに大きく重くなっていき、浮いていられない重さになったものから落ちてゆく。

 そのプロセスの発生の早さから、それは空中に突如現れるように見えていたのだ。

 立ち込めた湯気は雲そのもの。現れては落ちる粒は雨。

 空の縮図を浴室の中に見ているのは妙な気分で、現実から浮いているような気がした。

 また夢を見ているんでもあるまいし。シャワーを自分の顔に浴びせて頭を振る。湯を浴びたからか頭の鈍痛も引いていた。濡れた髪を掻き上げ、含んだ水を払った。

 日を浴びた浴室のタイルに、水滴が珠のように散っている。



 ○



 午後三時を回っても夏至過ぎの日はまだ高く、アスファルトの上はじりじりと熱を帯びていた。

 せっかく流した汗をまた絞られに行っているようなものだが、どうも薄暗い部屋に籠もりきりでは気が滅入る。

 どこか行くあてがあるわけでもないが、サンダル越しの砂利道を感じながら歩き出した。知らない方へ、見覚えが薄い方へ。海に近いからだろう。林道を通っていてもどこか汐の匂いを感じた。

 まだ真夏の激しさはないが、ぎらぎらと照りつける太陽にうなじを炙られながら歩く。二十分もすると、早くも渇きを感じてきた。先に何か用意しておくべきだったろうが、後の祭りだ。知らない道ばかり選んだせいで自販機に出会えるかも運次第だった。まだ初夏とはいえ闇雲に走り回っては熱中症や脱水を起こしかねない。こういうときの歩き方を私はよく知っていた。

 ゆっくり、ゆっくり。

 歩くペースを一定にして、決して焦らず。まるで砂漠を往く旅人のように、一歩一歩を慎重に。全身から汗が滲んでくるのを感じるが、歩調は変えない。直射日光を避けながら、ゆっくり、ゆっくりと歩く。自販機は大抵商店の並ぶ通りや、住宅街の交差点に配置されている。そのあたりに目を光らせながら、一歩一歩確かめるようにして歩いた。

 十字路に差し掛かるところで、オレンジのカーブミラーの下に果たしてそれはあった。派手な彩色のそれを視界に捉えた瞬間「しめた」と口角が上がり、先程までの慎重さもかなぐり捨ててぱっと駆け出した。何が砂漠を往く旅人だ。間抜けめ。

 硬化三枚の代わりに吐き出された清涼飲料水を呷った。

 一匹目の蝉が聴こえる。

 気の早い奴だ。



 ○



 夜の空気には、生々しい手触りがある。

 蒸し暑さにたまらず再び家を出た午後十時。水音を右側に聴きながら、夜の河辺を歩いていた。海にほど近い河口には海水が混じり込み、護岸にはカキやフジツボがびっしりと巣食っている。そこに打ち寄せる波は細かく砕かれて、複雑な水音が空気を埋めていた。

 夜歩く人間は暗闇の馴れ馴れしさをよく知っている。

 夜気の中では音も匂いも急に近くなり、鼻や耳ではなく肌から染み入ってくる。

 視覚に覆いをかける代わりに、夜は昼の何倍も雄弁に語りかける。黙って歩いているだけでも鋭敏になった感覚が常に刺激され、それに様々な記憶が想起させられる。

 人間は暗闇に置かれるだけで、本心を話してしまいやすくなるらしい。それは単に相手の顔が見えなくなる安心感か、それとも暗闇の中で記憶が引き出されるせいか。

 雄弁な語り手であるのみならず、夜は聞き上手だ。

 こうして歩いている間にも、様々な情報が感覚器官から私の脳に流れ込んでくる。それは不意に、記憶と結びついて言葉になったりする。

 ただあいにくと隣にそれを話す相手は歩いていなかったため、仕方なくメモ帳に打ち明けることにした。

 こうして言葉は溜まっていく。


 霧の深い夜だった。潤んだ空気が肌にもたれかかってくる。汐の匂いがすぐそれと分かるほどに濃く、打ち上げられた魚の死骸や泥や海藻の匂いなどが入り混じっていて、生ぬるいそれは巨大な生き物の呼気のように思えた。

 遠くに汐鳴りが聴こえる。打ち寄せる波の砕ける音が、夜気を震わせて耳まで届いた。


 何か起きる。何かが起きる。


 そんな予感のような、期待のような、警鐘のようなかすかな気配が、背筋をぬらぬらと這い回っていた。

 確かに、私は夏の口の中にいるのかもしれない。口を開けた夏の、呼吸の中に立っているのかもしれない。


〈了〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

一睡の真夏 ziggy @vel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る