第17話「ビックマザーと絶理の箱」



 ロクスレイがここダークウッドの森に帰ってきたのは実に一年半ぶりとなる。ビックマザーであるソルスに言わせれば、つい最近の出来事なのだろう。



 ダークウッドの森はロクスレイにとって育った故郷であり、年月を経たマザーや絶理の箱が存在する知識の宝庫だ。困難な悩みがあれば、相談することもある。



 今も絶理の壁向こうの世界であったこと、近日にあった出来事を話すことでビックマザーの知恵を借りようとしていた。



「なるほどのう。そこなトーマスと言う男が指名手配された理由が分からぬというのじゃな」



「そうなんです。トーマスについては国家秘密というわけではないですが、情報が行き渡るのが早すぎます。タルーゴ共和国が要請したとしても、身柄引き渡しについての条約が結ばれているとは思えません。何か裏があるとしか」



「ワシの耳にもトーマスについて人相書き以上の情報は入って来なかったのう。じゃがな、情報の流出所はロクスレイにも見当がついているようじゃがな」



 ソルスはそこまで言ってお茶と言われる飲み物で喉を潤す。今は縁側と言われる場所で二人っきりで話しており、他には誰もいない。他の者はおそらく別宅の宿舎に荷物を置きに行っているはずだ。



「流出所、ですか」



「今の話から予想できよう。察しが悪いの。もうシラテミス王国には二度、情報の流出があったじゃろ」



 ロクスレイは気づく。シラテミス王国の宰相と話した時、秘匿されていたはずの予言の時が暴露された。そう考えれば、予言の場所が特定された野盗どもの襲撃も、何者かの手引きがあったことを思い出す。



「まさか、十人会議から?」



「そうじゃよ。疑いをかけるのはこの十人。そして目的はロクスレイの妨害じゃろ。となれば、相手はもっと限られるのう」



「はい? 私は十人会議の誰かに恨みを持たれた覚えはないのですが?」



「ロクスレイ自身にはな。しかし、宰相のノッディンガムとは懇意にしているのじゃろ」



「懇意に、というより顎で使われているようなものですけどね」



「じゃが、他の者はそう思わんじゃろ。ノッディンガム宰相は敵が多い。特に十人会議となれば一番の敵が三人もおる」



「――まさか。公爵達を疑っているのですか?」



 三人の公爵は常備軍でノッディンガム宰相と関係が悪いだけではない。ノッディンガム宰相は王国中心部への集権化を画策し、事あるごとに権力を持っている三人の公爵と利益について争っている。



 表向きには国の事業として攻勢をかけているため、公爵達も中々対応策を打てずにいるのだ。



「だからこそ、ノッディンガム宰相の周囲から切り崩しにかかってもおかしくあるまい。それもできれば、ロクスレイの失態を演じるようにすればノッディンガム宰相も無傷ではいるまい。と、向こうは考えているじゃろうな」



「先に私と外務大臣に責が及ぶと思いますけどね。しかし、可愛げのない計略です」



 ロクスレイがそう言うと、偶然ソルスと目が合った。



「ワシはかわいいかのう?」



 ソルスは意味ありげに首をかしげて蠱惑色に笑う。実年齢は二百歳を超えるとはいえ、見た目はミリアより若くメイよりも歳上だ。色は白く、艶やかな細い肢体をローブの隙間から覗かせて、まるで誘惑するように足を組みなおす。



「かわいいかのう?」



「育ての親に色目使いされても反応に困りますよ」



 ロクスレイはソルスの身体から視線を外し、目頭を押さえる。思春期の頃から、こうしてからかわれては顔を赤くするのを笑われている。いい加減、ロクスレイも対処の仕方を覚えてしまった。



ただし、慣れているとはほど遠かった。



「つまらないのう。昔はやめてください、と鳴いておったのに知恵がつきおってからに。他の方法を考えるべきじゃな」



「これ以上は勘弁してください!」



 ロクスレイがそう懇願すると、ソルスは妖精のように悪戯っぽく笑った。



「ところで、ロクスレイ。ここ最近の外交手腕が強引になっておらんか? 相手との波風を立てるやり方は感心しないのう」



「まさか仕事のやり方に口を出すつもりですか? 私はちゃんと結果を出しています。それでいいでしょう」



「相手をないがしろにして実利を得るなどと言うのは、詐欺師のやり口じゃな。外交は基本信頼関係の上に成り立っておる。互いに誠実に、相互の利益や他国の利益を尊重することが一番のはずじゃ」



「それくらい分かってますよ。ですが、それだけでは相手から利益を引き出すのは難しいのですよ。外交は互いのカードの切りあい。先に手の内を晒すなんてやり方は正しくありません」



「ワシが言いたいのは小手先のことではないぞ。相手を騙すやり方なんぞ、相手の本音を引き出せぬ。自分が正直にならねば、相手が正直に話すわけがないじゃろ」



「相手の本音を探るために正直になる、ですか。……覚えておきましょう。ただし、あくまでも参考にするだけです」



「頑固者じゃのう」



 ソルスはそこまで言うと、残りのお茶を飲み干してしまった。





 ダークウッドの森にはいくつか奇妙なものがある。その中でも特徴的なのが、今ロクスレイの足元にあるコメンという丸めた粘度を二つくっつけたような物体だ。



 このコメンは魂の断片の物質化したものと言われ。人の魂はコメンの集合体により生成され、死後魂はまたコメンに分解される。そのため、コメンを破壊することはご法度とされている。



 その一方、どうやらコメンには豊富なミネラルが含まれるらしく、勝手に鹿が口に入れて食んでいることが多い。宗教的にはこの行為を、魂を頂いていると解釈しており、許されている。実際、コメンはこの程度で破壊されることはない。



 またコメンにはそれぞれ異なる加護の紋章が描かれており、マザーはコメンの紋章を参考に加護を刻むことができる。つまり、教科書のようなものでもあるのだ。



 コメンは基本的にダークウッドの森にしか生息していないながらも、持ち出し自体は自由だ。聖域に巡礼しに来た民がコメンを持ち帰り、自宅で拝んでいることも少なくない。



 ロクスレイもなんとなしにコメンを拾う。後で鹿のヴェッリにでも与えようかと思い、一つ手に取る。



 まじまじと見ると、コメンには紋章以外に眼と口のようなものも縁取ったかのような溝が存在する。そこに耳を当てると、コメンから人の呻きのような、風が空洞を通るかのような、何ともいえない音がする。これらは魂の囁きと言われ、コメンかただの石の塊か区別する方法にもなっている。



 ロクスレイは耳を離すと、そのまま自身のポケットの中にコメンを滑り落した。



 ロクスレイはコメンを拾った後、更に森の中を進む。しばらくすると、森が開けて一つの奇異な物体が現れた。



 それは黒い物質で造られた立方体であった。窓はなく、出入り口はあるものの、黒いベールに覆われていて中は見通せない。



 それが絶理の箱の全景であった。



 絶理の箱は、マザー達によれば産まれてすぐダークウッドの森に捨てられたロクスレイの傍に出現したと聞いている。



 更に絶理の箱にはロクスレイしか入れない、加護のような特殊な力が働いており、中身はロクスレイしか手にすることはできない。



 その中身とは、本であった。絶理の箱の内部を覆いつくす。知識の群集であった。



 ロクスレイは幼い時から、この絶理の箱に入り浸り、この世界とは違う知識を獲得した。



 ロクスレイはこの大いなる発見を他の者にも見せようとしたが、どうやら絶理の箱の本は外に持ち出すことができず。直接見れるのはロクスレイだけであった。



 多くの者はロクスレイが見聞きした知識を、夢想の類と聞き流した。その中でも、ビックマザー・ソルスだけは違った。ソルスはロクスレイの得たこの世界とは異なる知識を大事にさせてくれた。



 ある時など、とある兵器について相談すると、ソルスは知り合いの鍛冶師に似たものを作らせてくれた。ただし鍛冶師への口止め料の支払いが十分でなかったせいか、この兵器はたちまちテムール全土に広がった。



 それが十年前、マスケット銃の原型である。



 本当はマスケット銃よりも先鋭された銃の知識もあったものの、絶理の箱の知識には詳細が書かれておらず。少ない情報と当時の冶金技術により、やっと原型を完成させた。絶理の箱と言えど、知識に偏りは多いのだ。



 ロクスレイはダークウッドの森に帰るたび、こうして絶理の箱の見回りにくる。単純に新たな知識を得ようとする目的の他、自分が産まれた時のように絶理の箱が突如として消えてしまわないか心配なのだ。



 今回ここに来たのは、後者の理由からだった。



 いつか絶理の箱は目的を終え、どこかに行ってしまう。ロクスレイはそんな気がするのだ。



 そうなれば自分のルーツを探る手段はなくなる。ロクスレイが絶理の箱の知識に執着したのは、知識欲だけではなくこのような執着心があったからかもしれない。



 ロクスレイは絶理の箱が無事であることを確認すると、踵を返した。



 今は産まれについて調べている時ではない。外交官としての仕事を全うするべく、ロクスレイは皆のいるところへ戻っていった。


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