第百五十話:無余涅槃

 アークデーモンが行った領域展開、それは如何なるものであったのか。

 展開された魔術の術式をいち早く看破したのは、やはりフォラスであった。


「む、いかん!」


 気づいたとはいえ、対抗して構築された術式を解読し、破壊するには時間が足りない。

 アークデーモンを中心に展開される領域。

 赤い霧のようなものが、アークデーモンが天に手を向けかざした瞬間から研究室に広がっていく。


ソウルアブソープ霊魂吸収。展開される領域の中にいる生者全ての魂を奪わせてもらおう」


 じわじわと足元に広がっていく赤い霧の速度は、思ったよりも速い。

 領域の展開を妨害しなければならない。

 もはや迷ってはいられなかった。

 

「我が御手に宿りし神が残した指輪に願う。指輪に込められた神の力の一端を、今この場に於いて解放し給え」


 フォラスは指輪を付けた右手をアークデーモンが展開する領域に向け、指輪に内包された神の力を解放するために強く念じた。

 二対の指輪は果たして、願いに呼応するかのように輝きを見せる。

 すると、赤い霧は突如としてその噴出する勢いを止めてしまった。

 流石のアークデーモンも、目を丸くせずにはいられない。


「貴様、何をした」

「儂ではない。この指輪じゃよ。どうやら、領域展開する始まりの空間の時間を凍らせてしまったようじゃの」

「いや、そうではないようだフォラス殿」


 アラハバキの言葉に、フォラスは遠くを見渡すように目の上に手をかざす。


「こりゃ面白い。じわじわとではあるが、霧が戻っていくではないか。こりゃ遡行リターンが発動してるんじゃな」

「時が戻る魔術……」

「発動するには念入りな準備と莫大なマナが必要な魔術を、こうも簡単に発動してしまうとはな。恐ろしい指輪じゃわい……!」


 フォラスが言った瞬間、指輪は突如として砕け散った。

 そして指輪があった所には、黒い穴が生まれたと思った瞬間には既に、フォラスの右手と腕を喰らっていく。


「むうっ」


 即座にフォラスは、次元断裂ディメンショナルティアを自分の肩口に向けて唱え、黒い穴の浸食を防ぐ。

 全てを喰らい尽すかと思われた黒い穴は、喰らう対象を見失った瞬間に徐々に収縮を続け、弾けて消えてなくなった。

 そして赤い霧もまた、遡行によって逆行し領域の展開はなされなくなった。

 

「やはり力を使い果たすとこうなってしまうか。神め、よくもこんな遺物を残したものだ」

「大丈夫ですか、フォラスさん」


 アーダルの言葉に、フォラスは苦笑いを返す。


「大丈夫ではないのう。片腕を失ってしまったからな」


 脂汗を流し、息を荒げている。

 無理もない。

 次元断裂によって無理やり腕を切り離したのだから。

 出血などは火の魔術で傷口を焼いて処理したが、奇蹟で治したわけではないので痛みはあるはずだ。


「片腕では時を操る魔術が使えんのが痛いわい」


 ぽつりと呟いた。


「時を操る魔術は、手で印を結ぶ手順が必要となる。腕を治してもらいたいんだがの」


 フォラスはちらりと俺たちを見た。

 そう、今の俺たちもまた、鬼神と苛烈な打ち合いを演じていた。

 悟りを開き、確実に相手の数秒先の未来を観れるようになった俺と、竜の祖の魂をその身に憑依させたノエルの二人を相手にしてなお、鬼神は未だ致命傷は負ってはいない。


「かあっ」


 鬼神が叫ぶ。

 その右腕に、炎が纏われた。

 炎は初めは赤く、徐々に青い色へと変化していく。

 ちりちりと腕から火花が飛び散り、空気を焼いた。

 鬼神の周辺の空気が陽炎のように揺らめいている。


『天界の神々どもに地獄の炎を喰らわせるために会得した炎であったが、先に貴様らに喰らわせてやる。全てを原初の無に帰す炎を我はこの身に焼きつけた。何人たりともこの炎で燃やし尽くされた時、地獄にも天国にも行く事なく無に還る』

「そんなもの!」


 ノエルが吼える。

 そして憑依している竜の祖の魂が一瞬だけ浮かび上がった。


「我が力に於いて命ずる。宇宙を泳ぐ星々の数々よ。今こそ我が御手の下に集い、眼前に立ち塞がる敵の頭上へと飛来せよ」


 ノエルが天に腕を掲げ、開いた手をぐっと握りしめた。

 すると握った手の所に、何か得体の知れぬ力が渦を巻いたのが見えた。

 瞬間、研究室の天井が突如として裂けた。

 いや、そうではない。

 宇宙とこの空間が一瞬にして繋がる扉が作られ、そこから隕石よりも遥かに大きな星が飛来する。


――彗星落下コメットフォール――


 呼び出した彗星は煌めきながら黒い空間に一筋の軌道を描いている。

 そこから、急激に軌道を変えてこちらに向かってきた。

 落ちるは鬼神の頭上である。

 

 鬼神は彗星を睨みつけると、その右腕に宿した炎を彗星に向かって放った。

 青く全てを焼き尽くす炎は、彗星にぶつかるとその炎の勢いを増し、激しく燃焼する。

 しばらく彗星と地獄の炎は、お互いにその勢いを相殺するかの如く留まり続けていた。

 しかし、炎の持つ凄まじい熱量によってやがて彗星は徐々に小さくなりはじめる。


 彗星は蒸発してしまった。


 だが、流石の地獄の炎もまた彗星を遮る為に全ての熱量を失ってしまった。

 そして鬼神の右腕の炎は放出したが為に消え去っている。

 鬼神は息を荒げ、肌の表面はひび割れてかさついていた。


『竜の祖とやらめ、やってくれる』


 しかしこれで、ノエルにも限界が訪れてしまった。

 竜の祖の魂がノエルから離れてしまったのだ。


「ノエル、これ以上の同調は不可能だ」

「そんな、わたしは死んでも構わない。蘇生できるんだから」

「そなたが蘇るまでに三度も蘇生に失敗しているのは知っている。生命力を失い、未だ戻り切っていないそなたが蘇生を行ったとしても成功する確率は低いだろう。これは忠告だ」


 竜の祖の言葉に対し、何も言えなくなるノエル。

 死ねば次は無いと言われているようなものだった。


「そなたの隣に居るものの力を、今こそ信じるのだ」


 竜の祖はそう言って、天上へと去って行った。

 唇を噛み、じっと天を見るノエル。


「さて、形勢はこちらに傾いてきたか」


 アークデーモンは呟く。

 既にアーダルとアラハバキを蹴散らしている。

 二人は死んではいないものの、気絶して床に倒れ伏していた。

 フォラスは片腕を失い、ノエルは憑依が解けた今、疲労困憊して動けない。


 まともに動けるのは俺のみだ。


 鬼神とアークデーモンは、あと一押しで俺たちを倒せると思っているに違いない。

 

 絶対絶命の窮地。

 普通なら誰もがそう思うだろう。

 命乞いをしても無駄だろうが、せずにはいられない。

 もしくは、破れかぶれの特攻を仕掛けるか。

 命を捨て、自分は十二分に戦ったと示す為に。

 

 しかし、気持ち悪い程に俺の心は落ち着いていた。

 風の無い日の、水面の如き平らかな心持ちである。

 何時の間にか、俺の視座が自分の目から見ているものではなく、空中から見下ろしているもう一人の視点がある事に気づいた。


 主観的に見ている俺の他に、客観的に見ている俺が居る。


 そして俺の意識は、更に宇宙へと飛んでいく。

 アラハバキと融合してから、彼の経験や知識、感情を全て共有した。

 宇宙が如何なるものであるのか、魂で理解した。

 何時の間にか俺は、自らが住む地上、いやこの星を遠くから見ている。


 青い星は水と空気に満ちて命が煌めいている。


 宇宙に目をやれば、広く、暗く、寒々としている。

 

 星は無数に存在していても、その中に生命が芽吹いている事は無い。

 この星だけが生命の宿る星なのだ。

 寄生体とAztoTHが俺たちの住む星を目指したのも分かる気がする。

 此処は砂漠にある一つだけの泉のようなものだ。


 宇宙の広さに比べれば、俺たちの活動など虫に等しい。

 そんなものが存在していてもいなくとも、大して変わらないような気がする。


 いや違う。

 それは大いなる勘違いだ。

 自分たちの営みが小さく、儚くすぐに消え去るものであるからこそ、守らなければならない。


 さらに視点は宇宙から遠のき、ただ光の放たれる何処かへと向かっていく。


 光の中に入ると、俺は一つの未来を観た。


 荒廃した地上。

 生きるもの全てが死に絶え、動くものがなく炎で焦がしつくされた大地。

 その中で、未だ動き続ける存在が二つ。

 鬼神。

 もう一つは悪魔であった。


 もはや何の為に争っているのかも忘れるほどに二つの存在は戦い続け、修羅となり羅刹となり、吼え狂っている。

 地獄が地上に現出した、救いの無い未来の一つ。

 

「何を呆けている」


 アークデーモンの言葉で、俺の意識は引き戻された。

 長い時間、時を見ていたような気がするがそうではなかったらしい。

 まだ仲間は生きている。


「未来を観た。人間が滅びた先の未来を」

『ほう』

「それはさぞ、我らが繁栄しているのであろうな」

「違うな。貴様らはお互いに決着が着かず、地上を焼き尽くしながらもなお、未来永劫戦い続けている。値以上に魔族が繁栄する事もなく、あるいは鬼神が地上を支配し、天界へ向かう事も出来ず、修羅となって戦いにその命を費やすばかりだ」

『未来ではなく、ただの幻覚を見ていたようだな』


 鬼神とアークデーモンは一笑に付す。


「断言する。例え人間を滅亡させたとしても、貴様らの願いが達成されることはない」


 そして俺の下に、一筋の光の柱が立つのが見えた。


 二度見た、この光景を俺は覚えている。

 雲の上に浮かぶ俺の他に、もうひとつの存在が目の前にいる。

 観音菩薩。

 それ以外にも、違う仏の数々が立ち並んでいる。

 

 その中から、一歩前に踏み出して来た仏が居た。

 

 姿を見た事は無いが、しかし確信めいた直感が背筋に走った。


 目の前にいるそれこそが仏陀であると。

 目覚めたもの。

 真理、本質、実相を悟ったもの。

 迷いの眠りから覚め、生死流転から抜け出し、涅槃ねはんの領域に至ったもの。

 そして肉体を滅した事で身体的な苦からも脱した涅槃の境地に彼は居る。


「三船宗一郎。そなたの智慧は涅槃の領域に達し、全てを断ち切る刃を既に持っている。なればこそ真如を捉えよ。この世界の一切のありのままの姿を、その御手を以て作り出すべし」


 俺の肉体が燃えた。

 焼き尽くされた肉体は、しかし苦痛は一切ない。

 灰となり、心すらも滅する。

 故に自由なり。

 全ての束縛から離れ、真なる悟りの境地を俺は識る。


無余涅槃むよねはんの境地に至り、そなたは真実へと辿り着くであろう」


 光の先に、俺は全ての未来を観る。

 俺が掴み取るべきものは、俺の望みではない。

 この今ある世界がただ、一切あるべき姿を辿る為に、俺は野太刀に光を宿した。

 

――秘奥義・灰身滅智けしんめっち――

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