第百一話:空を観る
触手の打撃をまともに受けて吹き飛ばされた俺は、受け身を取る事も出来ずに地面に強かに体を打ち付ける。
背面と後頭部を打ち衝撃で意識を断ち切られてしまう。
早く立ち上がらなければ俺たちは危ういというのに。
* * *
「
気づけば俺は、またも幼い頃の記憶を辿っていた。
雪がしんしんと降りしきる冬の朝。
朝早くから住職に呼ばれた俺と貞綱は、寒さに手足をかじかませながらも寺の御堂に入って住職の法話を聞いている。
とはいえ、この時の俺はまだ数え年七つくらいの鼻垂れのガキだった。
まだ次期当主としての心構えなんて欠片も無く、野原を棒きれを持って駆け巡ってばかりいたような記憶しかない。
隣に正座している貞綱は、凛々しい青年期の姿である。
俺の傅役であり目付け役でもある男は既に、侍としての風格を備えつつあった。
住職は三船家が当主の教育係として教えを乞うている
もう老齢に差し掛かろうとしているが、まだ衰えを知らず肉体精神ともに溌剌としている。
宗賢は三船家の領地である松原とは縁も所縁も無い北国の出身であったが、諸国漫遊の折りにたまたま松原のとある寺を訪れ、その言葉に感銘を受けた祖父が三船家に招いたという経緯がある。
俺は宗賢の問いに対して、首を傾げるばかりだった。
その頃の俺には仏陀教の教えなど全くわからず、お経を暗唱しているくらいだった。
そもそも宗賢もまだ本格的には教えていなかったような気がする。
まずは当主となる為の心構えなどを教わっていた覚えがある。
当主たるもの、家来に考えている事を読まれてはいけない。
常に平常心であれ。
痛い時は痛くないと言え、寒いならば暑いと言え。
そしてへそ曲がりであれなどと、色々と変わった教えを受けた。
その教えは今でも心の中に息づいている。
宗賢の問いには、当然俺ではなく貞綱が答える。
「
貞綱の答えに、宗賢は微笑みを作って首を振った。
「その答えでは半分だけ正しいと言った所かの。よく人は
「では、もう半分の意味とは一体何ですか」
貞綱が問うと、宗賢は静かに語り始めた。
「元より
「合点がいきませぬ。実体が無い、というのと物事に固有・不変のものが無いというのがどうつながるのでしょうか」
「では例え話をしよう。我々がいわゆる城という物を見ている時、城は何故城と呼ばれるかを考えた時はあるかな?」
俺と貞綱は宗賢の問いに、首を傾げるばかりであった。
城は城だからそう呼ばれるのではないのだろうか。
「城は様々な要素から出来ている。土の塀や矢倉、天守、堀や瓦、城門など様々な物が集まって城と呼ばれるようになる。だが、城を解体してそれぞれ分解した時、果たして我々はその一つ一つを城と認識できると思うかね」
「恐らく、建材や瓦、壁や門といった一つ一つのものしか捉えられないと思います」
宗賢は頷き、続ける。
「そう言う事だ。我らが認識している「もの」は、形が異なってしまうと例えそれが同じ部品を以て構成されていたとしても、容易く認識を違えてしまう。あらゆる存在は「とある状態」として存在しているだけで、確固たる実体、実像があるわけではない。故に不変の物質はない、と言われる」
しかし、と宗賢は更に語る。
「実体が無い故にこの世にはあらゆる姿をした「もの」が存在しているとも言える。全てが
貞綱は頷き、俺は分かったような、分からないような曖昧な返事をした。
元より子供にこのような難しい事を語ったとて、果たして理解など出来るはずもないと宗賢も知っているだろうに。
それでも、宗賢はいずれただ理解するのではなく、その身で
「故に我らは悟りを目指す。全てに目覚め、真理に到達すれば何物をも正しく我らは識る事ができよう。見えぬものも見え、見えるものであろうともその存在が如何なるものであるかを正しく認識できるようになり、無明から抜け出し涅槃へ至る」
今はまだわからずとも、いずれ二人ともわかるようになる。
住職は言った。
「
宗一郎、そなたの種子が育つ事を楽しみにしているぞ。
宗賢が俺の目を見るや否や、場面は急転換する。
……全てが真っ白い空間の中に立っている。
しかし、AztoTHと戦っている空間ではなかった。
死者が天界へ旅立つ狭間の地のような、穏やかな光が天上が差し込んでいる。
戸惑っていると、天上から観音菩薩が光に導かれて姿を現した。
「そなたの内なる種子が今、芽吹こうとしている。そなたの意思、
観音菩薩が体に入り込み、同化する。
俺の体から光が一層強く輝き始め――。
* * *
より強い殺気が、俺の体を貫いた。
途切れていた意識が急激に現実に引き戻された。
前に見た観音様の幻影を二度見る事になるとは。
いや、これは本当に幻影と言えるのだろうか。
もしかしたら本物の観音菩薩なのかもしれない。
それとも俺の深層意識が観音菩薩となって現れているのか。
体が反応し、咄嗟に転がると俺の居た場所に光線が当たり、床を焦がす。
「意識を失っていたはずなのにしぶとい奴め」
「貴様の殺気に体が反応したのよ」
「殺気だと?」
「わからぬか。上位者と言えども大したことは無いのだな。戦いの最中に身を置き続けていないのであれば、わからぬのも無理はないが」
俺の物言いに上位者AztoTHは癪に障ったのか、触手の先端を朱に染める。
「戦いの最中に身を置き続けるなど、蛮族の所業だろう。所詮は下等生物め。私は戦いに身を置くなどと言う必要はない。君達など歯牙にもかけぬ力がある。遊びは終わりだ」
冥土の土産に教えてやろうとAztoTHは言う。
「何故、君の攻撃が当たらなかったのか。それは私の体の次元の位相を、この三次元空間よりも高次の次元に置いているからだ。君の戦いにおける技量とセンスが素晴らしい事は認めよう。だが、如何に素早く鋭く無駄のない攻撃とて、当たらなければ意味がない」
「口上は済んだか。御託を並べずとも、次の一合で決着を付けるまで。掛かって来い、上位者よ」
「言われずともだ」
AztoTH二体は光線攻撃を仕掛けるべく、触手の先端が虹色に輝き始めた。
俺は二度、目を瞑る。
「馬鹿め。何故目を瞑るのか。もう幻影などと言う無駄な事はしないぞ。そうでなくとも、君の攻撃は決して当たらぬ。自殺志願か?」
今の俺が見ている物、認識を全て捨て去ろう。
体が、心が感ずるままの世界を観る。
さすればあとは野太刀が応えてくれる。
ありのままの真実を捉え、虚妄を捨て去った先に涅槃はある。
「奥義・
心の散動を静め、AztoTHを如実に観察し、どこに奴が「在る」のかを認識する。
肉眼で見るのは止め、そこに在る、変化し続ける存在を俺は観る。
色即是空空即是色。
認識を新たに再構築し、真理の一端に触れるべく更に呼吸を整える。
「霊気錬成の型・刹那」
呼吸を更に深く、大きく静めていく。
丹田から巡る霊気が心臓の鼓動と同調しながら巡っていく。
霊気の流れは瞬く間に循環していき、体から
しかし霊気の色が、先ほどまでとは異なっていた。
白から陽光の色と言うべき穏やかな色へと変わっている。
立ち上る靄は体を鎧のように覆う。
そして爆発的な奔流が自分の体から上昇気流を作っている。
鬼に変じた時と遜色ない、霊気の迸りよ。
更に深く呼吸を続けると、意識が何処かへと繋がる感覚を覚えていた。
阿頼耶識の流れだろうか。
それは過去から現在へ繋がり、未来へと連綿と通じている。
過去から続く種子が蓄積され、因果を成し縁を得て発現しようとしているのを感じる。
俺の中の種子の一つが芽吹き、いま一つのものを成し得ようとしていた。
即ち、真理の一つ。
目の前に在る世界の真の姿、形。
目を閉じていてもなお、世界は広がっているのが観える。
額に第三の目があるような感覚を覚える。
それは肉眼の機能で捉えているのではなく、
阿頼耶識とはかくなる認識であるか。
今この場所は如何なる所であるか。
AztoTHの所に落ちてきたときは確かに白い空間と、金属生命体の球がある台座しか観えなかったが、しかし今は違う。
白い空間は白い膜のようなものであり、AztoTHの能力で何かを覆い隠している。
いや、これは結界と言った方がいいだろう。
部屋は本来はエンジンルームなる場所のようだった。
そこにAztoTHが空間を上位者としての能力をを用いて切り離しているのだ。
床に倒れているノエルとアーダルの倒れている姿と心の動きが観える。
二人の心は弱々しく蠢き、助けを求めて喘いでいる。
しかしそれでもなお、懸命に戦っているのだ。
過去の自分が遭遇した不幸との記憶と。
今しばらく待っていてくれ。
必ずや二人を助け起こす。
そして今にも襲い掛かってきそうなAztoTHの姿。
異形の上位者ではなく、只の人の姿。
AztoTHの真の姿は人である。
異形の身になってなお、彼の
そして上位者の核、魂、精神の位置も直観する。
「我、涅槃へ至る」
無我夢中でその領域に到達した師匠との戦いの時とは異なり、ついに秘奥義へと開眼する。
――
全ては空。
この世に在る全ての存在に実体はなく、時の流れと形によって変わりゆくものなり。
全ては
AztoTH。
故にお前は
俺はただ、野太刀を振るった。
前と後ろに居る二人に分かたれたAztoTHそれぞれを、一太刀、二太刀と。
確かに斬った感触が俺の手に伝わり、AztoTHの叫び声が響き渡った。
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