第四十四話:惑い、迷う者の決意
地下五階は構造としては地下三階に近く、基本的には一本道だが所々で分かれ道がある。
通路の間に幾つか小部屋があり、そこは必ず魔物が居座っている。
地下五階ともなれば
通路の角で待つと言った不意打ちの気配をも完全に察知でき、改めて俺の体が変質しつつあることを思い知る。
完全に覚醒してしまった時、俺はどうなるのだろうか。
それでも地下五階に場違いな存在として、
竜は魔物とは違った特別な存在だ。たとえ体が朽ちたとて、その強さに陰りは見えない。
鬼の力に目覚めつつある今の俺でもなお、勝てるかどうかはわからない。
勿論完全に鬼神として覚醒したとなれば勝てるだろうが、危うきものには近寄らずが無難であろう。
よって巣に迂闊に近づきさえしなければ、先を進むのは難しくはない。
小部屋で出て来た魔物たちは巨人族や迷宮に呑まれた冒険者等であったが、もはやそれらは容易く切り伏せ、足早に地下六階の階段を降りる。
地下六階は一層冷たい空気が一帯を支配している。
怨霊どもの棲み処だけあり、霊感に鋭い者はこの階層に足を踏み入れるだけで背筋が怖気立つという。
霊たちは生者の気配を感じると、エサに群がるアリのようにこぞって近づいてくる。
のこのこと一人で降りて来た俺は、さながら誘蛾灯だ。
火に群がる虫どもを、霊気を纏わせた打刀の一振りで散らす。
地図を辿り、
扉の前に立ち軽く拳で叩こうとした時、扉の板を叩く寸前に動きを止めた。
ここまで来ておいて、今更頭の中にもたげる一つの考えが邪魔をする。
こんな深夜に訪れて迷惑ではないのか。
改めて出直すべきではないのか。
気持ちよく眠っているのを邪魔してはならない。
やはり一度帰ろう。
俺は酔っ払ってはいないが、頭の中は全く冷静ではない。
踵を返そうと振り返った瞬間、扉を開く音が聞こえた。
「こんな朝早くにどうしたんじゃ。あまりにも魔物たちが騒ぐから目が覚めてしもうた」
「……ご老人」
「ふむ。なにやら悩み事かの? ならば中に入りなされ。立ち話しとったら霊どもが騒ぎ立てていかん」
老人の厚意に与り、中に入る。
部屋は先日訪れた時と同じく何も変わらない。
木製の
壁際には食べ物と水を保存する壺が幾つか並び、その傍らに魔術師の右腕とも呼べる道具の杖が無造作に立て掛けられている。
灯りを点けた燭台を机に置き、俺と老人は向かい合うように座る。
相変わらずボロ布に近い服を身にまとい、髭を無造作に胸まで伸ばした禿げ頭の老人。
それが高度な魔術を使いこなし、数百年以上も生きている魔術師だというのだから世の中は不思議がまかり通っている。
話に入る前に水が入った器を渡される。
水を喉に流し込むと、俺は今まで渇きを忘れていた事に気づいた。
もう一杯を願い、飲む。
俺が水を飲んで落ち着いた所で、老人は口を開いた。
「お主の中にある気配、更に似て来たわい」
「最下層に居る鬼神とやらにですか」
「うむ。力は今は減退しておるようだがな」
「……俺はつい先ほど、鬼神の力を借りて不死の迷宮の主、亡国の女王と悪魔を討伐したんです」
「道理で強大な魔力がこの迷宮にまで伝わって来たわけじゃ。それで、力を借りたはいいが鬼神に乗っ取られかけたという訳じゃな」
「ええ。エルフの紫水晶による魔力の奔流を浴びなければ、俺は今頃鬼神となってこの国を蹂躙し始めていたと思います」
鬼神の恐るべき力は、借りていた時ですらも怖れを抱いた。
同時に、俺が乗っ取られた時の事を考えると寒気すら覚える。
俺は大事な人たちをこの手にかけていたかもしれないのだ。
「のう。異国の侍よ。お主は本当に強い。我が長き人生においても、片手に数えられるほどしか人の身でそこまで強さを練り上げた者は見た事が無い」
「それでも、荒ぶる神である鬼神には指一本ですら及ばぬでしょう。現に俺の素の力では女王にすら敵わなかったのですから」
立ち向かう為には、もっと強くあらねばならない。
「お主、危ういのう」
「……どういう意味ですか」
「お主の考える強さとは、剣の技量や力の事を言うているのであろう。であれば、今後強くなれる事などは無いとあえて断言する。たとえ強くなったとしても、それは獣や魔物と同一の強さを意味する」
心臓が跳ねた。
まるで俺の考えている事が見透かされている。
「旧神教の御神体とやらに、何か言われたのであろう。顔に書いてあるわい」
「ええ……。強くなりたければ次の存在へと移行せよ、と。断りましたが」
確かに俺はあの時、人間である事に絶望はないと言った。
だが絶望しないにせよ、諦めに似たものをどこか心の中に持っている。
人の身で何処まで強くなれるのか。
鬼神は残滓であると御神体は言っていたが、残りカスでなお人間を軽く凌駕するほどの力を持っている。
その領域に近づくまで、俺は人生を賭してなお届くのか甚だ疑問だ。
「儂はの、心こそが最終的な人の強さを決めると思うておる。幾ら技と体が充実しておったとて、心が伴わなければ全てが揃った人間には敵わぬのだ」
老人は俺の胸を、次いで自らの胸を指して言った。
「心が強いとは何か? 即ち慈悲と慈愛を持ち、自らのみならず他人の事すら思いやれる心の事であると儂は考えておる。でなければ、自らを犠牲にしてまで何かを倒そうなどとは考えられぬ。だからこそ人間は今この世で繁栄しているのだ」
それを忘れた者はけして強くなどなれぬ。
老人は語り、一度水を口に含む。
「忘れるなよ。お主は何のために戦っている? 自分だけの為ではなかろう。お主の愛する者の為に、仲間の為に戦っているのであろう。ならばまずはその者達を守る為にはどうするかを考えるのだ」
「守る為……」
「そしてお主は一人ではない。一人で何事も抱えようとするな。お主が窮地に陥った時、必ずや力を貸してくれる者が現れる。それが人間の強さの一つでもある。儂を頼って来たのがその証拠であろう」
老人は屈託なく笑う。
その時、俺の中にわだかまっていた澱が解けていくのを感じた。
俺は一人で空回りしていた。
確かに、俺の中に潜むものは強大な存在だ。
だが、俺たちの先祖は一度は荒ぶる神を倒している。だからこそその身に取り込めているのだ。
ならば俺にだって出来ぬ道理はない。
今はまだ無理かもしれぬが、きっと方法はあるはずだ。
そう思えば、何だかやれるような気がしてきた。
俺は一人じゃない。
俺たちは個々では確かに弱いが、その力を集めてこそ本領を発揮する。
その仲間を守る為に、まず俺の弱い心を叩き直さねばならない。
俺の顔色の変化に頷くと、老人は立ち上がり何かを探す仕草を見せる。
箪笥や棚を探し回り、埃塗れになって戻って来たとき、その手には何かを持っていた。
それは数珠であろうか。
数珠は俺の故郷やシン国で、仏陀教の僧たちが儀式の際に用いる。
僧でなくとも、敬虔な信者であれば一つは必ず持っているもので、大きさは手首に掛けるものから首に提げる物まで様々だ。
仏陀の教えが生活にまで染みついている俺たちには馴染み深いが、このイル・カザレムにおいては珍しい道具だ。
老人は数珠を机に置く。
黒い素材の所々に星の輝きのような白い斑点が浮かんでおり、ささやかな火の光に照らされてわずかに橙色に鈍く光っている。
「何年前かはもう忘れてしもうたが、儂が迷宮下層を散歩している時に見つけた物だ。確か、胴体を真っ二つにされた侍が持っていたかの」
「何故これを拾ったのです?」
「それはひとえに、不思議な力を持っていたのと珍しかったからじゃの。儂は鑑定の技能も持っている故に、それが何の道具であるのかわかるのじゃ」
老人曰く、この数珠には邪気を追い払い、抑え込む力があるらしい。
身に着けているだけで低級な魔物や霊は結界に弾かれるように近づけなくなり、
悪鬼を追い払う力を持つ、か。
「あの侍は鬼神に挑もうとして、道半ばにして鬼神配下の侍たちに襲われたのであろうな」
「何故侍は数珠を持っていたのでしょうね」
「さてな。それはわからぬが、邪なる存在と対峙する際にはそれに対抗する物を持っておきたいと考えるのは自然であろう」
老人は俺の左手首に数珠を掛ける。
燭台の光を浴びて鈍く輝く数珠からは、わずかに神聖な雰囲気を感じる。
「これを身に着けていれば、鬼神を抑え込めるというわけですか」
「多少はな。お主が真に強くなるまでの間の時は稼げよう。だが無限に時があるわけではない。いずれ鬼神はこの数珠の力を持ってなお、抑え込めなくなる時が必ずやってくる」
奇しくも老人は、カナン大僧正と似た事を言った。
やはり鬼神はいずれ力を貯えて表へ現れる。
それまでに俺は今の自分を超えて強くならねばならない。
「一つ思い出した。この迷宮には誰が作ったのか知らんが、鏡の間と言う部屋があっての。そこに入ると全く自分と同一の分身が現れると言うのだ。自らを一つ乗り超える試練としてはうってつけかもしれんの」
ただし、自分に殺されるかもしれんがな。
老人は付け加え、低く笑った。
「いえ。どのみち自分を深く見つめ直さなければならぬのです。ならば避けては通れぬ道でしょう。教えていただき感謝します。朝早く来たというのに、こんな数珠まで頂いてしまってどれだけ礼を述べても足りません」
「何。お主ならたまに足を運んで来てくれてもいいんじゃよ。用が無くともな。久々に見込みの有る若者だからのう」
老人の一人暮らしは寂しいものじゃからの、と髭を撫でる。
人恋しいのであろうか。
ならばこんな所に住んでいないで、地上に出ればいいのにと思ったが、それを許さぬ事情があるのかもしれない。
数百年以上も生きているとなれば、俺には及びもつかない何かがあるのだろう。
部屋を出ようと扉に手を掛けた時、俺はふと気になった事を問いかける。
「そういえばご老人の名前を知りません。宜しければ教えていただけませんか」
「今更名乗る名前など、ありゃせんよ」
「それでも、是非に」
強く俺が訴えると、老人はため息を吐いて答えた。
「それならば、フォラスとでも名乗るとしよう。今後はそう呼んでくれ。異国の侍よ」
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