第6話 ラビリンス その十三



 悲鳴の流行る晩だ。

 今度は誰だろう?


「下からだ!」


 階下から聞こえる。女の声だ。

 大急ぎで悲鳴の聞こえたほうへ走っていく。


 二階の踊り場にとびおりると、廊下の前方に女が腰をぬかしている。そして、その前にさっきの男が立っていた。最上の言ったとおりだ。それは、あの山羊の悪魔だった。頭部にねじれた角がつきだしている。


 悪魔は龍郎たちの姿を見ると、先刻と同様に暗闇に姿を消した。

 あの山羊男は青蘭との情交を目撃されたときにも、あっさり退散している。かなり警戒心が強いのかもしれない。


 とうとつに神父が言った。


「わかったぞ。つまり、ここはアイツの結界なんだ。青蘭の記憶の世界のなかに、入れ子のようにアイツの結界が内包されていたんだ」


「結界のなかに結界……そんなことができるんですか?」

「かかわりの強い相手どうしなら、できないことはない。結界内は言わば精神世界だ。どんな形にしろ、心に強く刻まれた者は結ばれやすい。おそらく、君たちの力が魔法を発動させたタイミングで、こっそり自分の魔法を連動させたんだろう」


 少年の青蘭と三年以上、ほとんど毎夜、つながれていた山羊の男。認めたくないが、両者のあいだには呪いのような負の絆がある。ましてや、ここは両者が忌まわしい関係を築いていた、まさにその場所だ。地の利も作用するだろう。


 とにかく、女は無事だろうか?


 かけよると、それは冴子だった。殺されそうにはなっていたが、どこも怪我はしていないようだ。これで島に上陸したメンバーが全員そろった。


 冴子が泣きながら、龍郎の胸にすがろうとする。青蘭が思いきり、つきとばしたので、龍郎は困りはててしまう。


「いったーい! 何するのよ!」

「なれなれしく他人ひとの男にさわるなよ」

「龍郎はフリーよ。誰のものでもないでしょ?」

「残念。ついさっき、僕のものになった」


 ライバル心むきだしで言いあう二人を見て、龍郎は弱りながらも微笑ましくなる。青蘭がこんなふうに誰かと龍郎をとりあうなんてこと、ちょっと前なら、とても考えられなかった。青蘭は意外とヤキモチ妬きだ。独占してもらえることが、こんなに嬉しいなんて思いもしなかった。


「ね? 龍郎さん? 龍郎さんは僕のものだよね?」

「うん。そうだね」

「ほら、見ろよ。おまえなんかお呼びじゃないんだ」


 龍郎に抱きつきながら、子どもっぽい仕草でアッカンベしている。

 龍郎は笑った。


「ごめんね。冴子さん。でも、最初から、おれには好きな人がいるって言ってたよね。そういうわけだから」


 むくれるかと思ったが、冴子は頭のいい女のようだ。意外にすんなり、ひいた。ただ、その目の奥に妖しい光がきらめいている。単純に諦めたようには見えない。ここでダダをこねても、しかたないと考えただけらしい。


「もういいかな?」と、神父が肩をすくめる。


 神父は青蘭に気があるようだし、人間的にクズだが最上は元彼だし、まわりに油断ができない。


「はい。すいません。ところで、結界のなかの結界って、どうやって出るんですか?」

「普通に結界をやぶればいいだろう。つまり、この空間の場合は、そのぬしである、山羊を倒す」

「なるほど」


 だから、山羊は龍郎たちから逃げまわっているのだ。結界内にいる人間を全員、一人ずつ血祭りにしていくつもりではないかと推測する。


(たぶん、青蘭をつれていくために……)


 邪魔な人間を皆殺しにしたあとは、青蘭をとらえて、地獄へさらっていこうとしているのだろう。

 やはり、諦めてなんていなかった。ずっと機会をうかがっていただけだ。

 悪魔でさえも、青蘭に恋い焦がれる。


 それにしても不思議なのは、なぜ、この好機を狙って現れることができたのか、ということだ。

 青蘭がこの島へ帰ってくるのを待っていたのだろうか? もしそうなら、ひそかに、この島にひそんでいたことになる。絶海の孤島ではあるものの、悪魔なら数年、生きのびることができるかもしれない。


 それとも、悪魔も肉体があれば、食事が必要なのだろうか? たとえば人間に化身しているとき、ヤツらは生物学的には人間なのだろうか?

 だとしたら、独力で食料を調達するのが難しいこの島で、四年も青蘭を待ち続けることは不可能だ。


「ねえ、青蘭。ちょっと教えてほしいんだけど、上位の悪魔は物理的な存在だろ? 肉体を維持するためには食料が必要かな?」

「そうだと思いますよ? 忌魔島でも、人魚たちは魚を食べてた」

「ああ、そうだね」


 それに人間社会に人の姿で入りこんだ悪魔は、正体を隠すために人と同じ生活をしているはずだ。食事もふつうに摂取しているだろう。食品を消化する器官を有しているということだ。つまり、それは、もともと有機物を消化するために必要な器官だからだ。個体にもよるのだろうが、悪魔は血肉となるものを要する。


「じゃあ、おかしいな。ヤツは、ここを解雇されたとき、正体を隠したまま島を去ったはずだ。いったい、いつ、ここにやってきたんだろう? おれたちのあとをつけてきたんだろうか? それにしたって、なぜ、今になって青蘭が島に帰ってくるとわかったんだろう?」


 どこかから、つねに青蘭を見張っていたんだろうか? でも、そうなら、悪魔の匂いに敏感な青蘭が気づかないはずはない。


 沈思黙考する龍郎を、青蘭が見あげる。瞳の奥の鋭利な輝きは、ある事実に行きあたったことを示していた。


「ねえ、龍郎さん。ここに、いるんじゃないかな?」

「えっ?」

「山羊の男。僕らのなかに、いるんじゃないかな」


 たしかに、そうだ。それしか考えられない。それがもっとも腑に落ちる解答。

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